思い出を穿つ

金木 なのる

思い出を穿つ

「思い出をください」

そう言って鈴原が机に置いたのは、市販のピアッサーだった。パッケージには「舌用」と大きく書かれている。

グラウンドからは野球部の掛け声がして、どこかの空き教室からは吹奏楽部の楽器の音がする。窓から差し込む西日が教室をオレンジ色に照らす。放課後の、日常的な光景。その中に佇む、黒を纏った女。五感で捉えるものは全て日常なのに、俺と鈴原を取り巻く空気だけが異質だった。


鈴原との出会いは、教師になって最初の春。新入生代表として登壇する鈴原が、俺の目の前を横切った。その時、ほんの一瞬。長い睫毛に縁取られた真っ黒な瞳が俺の方を向いた。

線の細い絹のような黒髪に照明が当てられ、天使の輪が出来ていた。新品の黒いセーラー服は、一糸の乱れもない。他の生徒と比べ少し長いスカートを翻す姿に「絵に描いたような優等生だな」とぼんやり思ったのを覚えている。

クラスが割り振られ、鈴原の授業も受け持つ事になった。最初こそ鈴原は優秀で、なんでもそつなくこなす印象だったが、実際は思っていたものとだいぶ異なった。

もちろん授業態度もよく、提出されるノートはいつも綺麗で見やすくて、テスト対策も万全な「優等生のノート」だった。だが、そのノートは授業中に板書したものではないことを俺は知っていた。授業で巡回していたときに鈴原が使っていたのは、ルーズリーフだ。文字も走り書きで、自分が読めれば良いのだろうという程度。メモ書きが多く、ルーズリーフの端までびっしり文字で埋め尽くされており、遠目に見ると真っ黒で不気味だった。初めて見かけたとき、あまりに鈴原の印象とかけ離れていたもので、思いがけず「は、」と小さく声が出た。鈴原は俺を見上げて少し首を傾げたが、何事もなかったかのように板書を続けた。

休み時間を使ってクラスメイトに勉強を教えている姿も何度か見かけた。その姿は如何にも「優等生の休み時間」だった。クラスメイト達は純粋に鈴原を尊敬し、頼っている様子だった。クラスメイトとは上手く付き合っているようだ。だが、それだけだった。鈴原が、勉強以外の話をクラスメイトとしている姿を、俺は見たことがなかった。

体育の後、皆が船を漕ぐ時間。鈴原だけは姿勢を崩さない。ピンッと背筋を伸ばした鈴原に、まるで周りがひれ伏しているかのようで少し笑えた。俺は高校のとき、取り立てて真面目な生徒ではなかったし、なんなら眠気に勝てないことなんて何度もあった。一生懸命首を正面に向けようとするのに、ドロップ・タワーに乗っているように視覚が垂直降下する感覚。カクンッと落ちた瞬間は、誰かに見られていないかとか、よだれを垂らしていないかとか、そんなしょうもない恐怖と不安で満ちドキドキした。今考えると、昼下がり特有の心地よさもあった。鈴原は、そんな感覚を知らないのだろうか。凛とした姿勢を保つ鈴原を見て、少し勿体なく感じた。


 俺が鈴原の同級生だったら、鈴原とどう接しただろうか。そんな取り留めもないことを考えたりもした。こんな風に鈴原の事を考えるのは、俺が教師だからだ。「鈴原と同級生の俺」は、きっと鈴原に大した興味も持たなかった。それでも、「教師の俺」では鈴原にどうしてやることもできなかった。


「先生ってどんな子がタイプなの?」

「彼女いないの?先生モテそう」

 教壇に寄りかかり、女子生徒達が話しかけてくる。適当にあしらいながら、手慣れた笑顔を浮かべてみせた。若い男性教師というだけで、生徒達は興味を向ける。「自分より知識も経験もある相手」というだけで「優れている」と判断し、漠然とした憧れを抱くのだろう。俺が学生の時にも、教師に恋する女子生徒は何人かいた。といっても実際は「未知への憧れ」だったり、「大人に対する依存心」から発生する一時的な感情であって、卒業してまで引きずるものではない。そんな話は漫画の中だけだ。

 スカートを短く折って、流行りの髪型に結わいて、距離を縮めなければ気付かない程度の香りを纏って、覚えたての化粧をバレない程度に施す。精一杯に背伸びをすればするほどに、その姿はひどく幼く見えた。

 鈴原もいずれこの女子生徒達のように、彩を覚えていくのだろうか。ふと、鈴原に目を向ける。向こうもこちらを見ていたようで、数秒の間、視線が交わる。先に逸らしたのは俺の方だった。鈴原の色は黒だ。瞳も、髪も、何色にも染まらない。窓から差し込む日の光だけが、彼女にわずかな彩を与えていた。


 教員になって、間もなく4回目の春を迎える時だった。鈴原から「ご相談があります」と無機質な声を掛けられた。卒業式の答辞に関する相談だろうか。そんなもの、学年主任か生徒会顧問にでも相談すればよいのに。俺は思ったことをそのまま鈴原に伝えた。

「先生が良いんです。あと、答辞はもう完成してあります」

淡々とした鈴原の言葉に「あ、そう…早いね」と、我ながら愛想のない返答をしてしまう。結局この3年間、俺は鈴原に何もしてやれなかった。いくら教壇に立とうが、「青春」というたった二文字の簡素なものを、鈴原に教えてあげることはできなかった。いや、それとも俺が知らないだけで、彼女はもうとっくに経験しているのだろうか。授業をサボるとか、校則を破るとか、教師にバレてしまうような頭の悪いやり方ではなく、完全犯罪的な青春を成し遂げているのかもしれない。そう勘繰るくらいには、鈴原と俺の関係は希薄だった。そんな鈴原が、俺を指名している。そのことに若干の違和感を覚えつつ、感動を覚えたのも事実なので、少し残っている仕事を片付けたら教室に向かうと約束を取り付けた。


そして話は冒頭に戻る。


「校則を読みました。せっかくなので、隅々まで目を通してみました。登校日が減って暇だったので。そうしたら、ほらここ、見てください。【耳にピアスを開けることを禁ずる】って書いてあるんです。【耳に】って。わざわざ部位を特定しているんですよ。それなら、舌はアリだなって。臍とも迷ったんですけどね。校内で制服を捲るわけにはいかないですし…先生?ちゃんと聞いていますか?」

俺は、鈴原が何を言っているのかまるで理解できなかった。こんな風に捲し立てて話す鈴原を俺は知らない。動揺した。勢いに気圧されたのも大きい。開いた口が塞がらない、というのは単なる諺だと思っていたが、実際に起きる現象だと知った。

「…臍の方がよかったですか?でも、私にも一応恥じらいというものがあって」

 そう頓珍漢なことを続ける鈴原にストップをかける。そんな次元の話をしているわけではない。鈴原は小首を傾げながら、相変わらず黒々とした目で俺を見つめる。

 先程の勘繰りは無粋だと確信した。鈴原は未だ、彩を知らない優等生だった。そんな鈴原の身体に穴を開け、色を付ける。それが教師としてどれ程の重罪かはわかっていた。相変わらず口は塞がらないのに、言葉が何も出なかった。今回もまた俺の方から視線を逸らした。全身の毛穴から汗が噴き出るのを感じる。そんな俺の様子を見て、鈴原は何を思ったのか俺の手を両手でしっかりと握った。

「先生。さっきも言いましたが、私は先生が良いんです」

 まるで子供に言い聞かせるような優しい声。鈴原が今、どんな表情をしているのかが気になって、視線をほんの少し鈴原に向けた。鈴原は未だ俺の目を真っ直ぐ見つめていた。視線が交わる。そのとき何故か「あ、捕まった」そう思った。


 鈴原は想像以上に本気だった。タオルを大量に持ち込んでいて、ファーストピアスも用意していた。鈴原に似合いそうな、黒いピアスだった。開け方も調べてきたらしく、ネットで事前に印刷したという手順書を渡された。

 顔の下にタオルを敷いて、鈴原に聞こえるように手順書を読み上げながら対応していく。いざ鈴原が舌を出すと、自分の身体が硬直するのがわかった。あの鈴原が、大口を開けて舌を突き出している。酷く不自然な光景だった。


 当然だが、物凄く血が出た。よだれも大量に垂れていた。鈴原は両手を力なく下げたままだ。どうやら後処理まで全て俺にやらせる気らしい。口内の処置が一通り終わったので、最後に顔周りをタオルで拭いてやる。痛みに耐えていたせいか額に汗も滲んでいたので、鈴原が用意していた大量のタオルの中から割かし綺麗そうなのを適当に掴み取り、顔全体を包む。ゴシゴシと少し強引に擦ってやると、それまで無表情だった顔を少し顰めていた。

「先生、痛いです」

 鈴原の言葉を無視して拭き続ける。よだれも汗も拭ききったのに、鈴原の顔は濡れていた。その水は、真っ黒な両目からポロポロと溢れていた。俺は鈴原の顔周りが綺麗になるまで、何も言わずに拭き続けた。


 教師になって何度目かの春を迎えた。俺は変わらず教壇に立っている。

 鈴原は、あの時の穴を塞いだだろうか。綺麗に塞がっただろうか。

 鈴原はあの時、何故俺を選んだのだろう。俺を好きだったのだろうか。卒業しても残る傷を求めるまでに。ごっこ遊びではない恋を、俺に求めていたのだろうか。

 俺はどうだ。鈴原を「そう」見ていたのだろうか。だからあの時、鈴原に逆らうことも、窘めることもせず、受け入れてしまったのだろうか。

 今の鈴原は、黒以外の色を身に着けているのだろうか。

あの時、俺は教師として間違った選択をした。それなら、教師としての正解ってなんだ。あれから何度も考えるが、答えが見つからない。だからきっと、俺に教師でいる資格はない。それでも俺は教壇に立つ。教室を一望できる場所で、目に焼き付いた黒の面影を探している。


「思い出をください」


あの日、オレンジ色の教室で真っ黒な女が引鉄をひいた。

撃ち抜かれた俺に開いた真っ黒な穴が塞がる日は、きっと来ないのだろう。

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