餓死希望
熊五郎
餓死希望
餓死がいい。私はそう思った。季節は冬、死ぬには良い時期だ。
飛び降り自殺、これは駄目だ。飛び散った血や肉や脳髄、加えて身を襲うであろう衝撃を想像すると歯がガチガチと鳴るほど恐ろしい。
電車に飛び込む、これもまた駄目だ。あんなものに激突したら体なんてバラバラ砕け散るだろうし、そしてその衝撃たるや! 飛び降り自殺の比ではないだろう。さらに多くの人に迷惑をかける。人身事故で遅延が発生したときのあの苛立ちの雰囲気が死んでいるとはいえ私に向けられると思うと手足が痺れるほど恐ろしい。
割腹自殺、これはお話にならない、論外だ。そもそも死ぬためには介錯を受ける必要がある。つまり一人じゃできない、自殺にならない。ついでに言えば裂けた腹から腸が飛び出してきたなんて記述を目にしたことがある。腹から腸が飛び出てくるなんて想像しただけで息ができぬほど恐ろしい。
首吊り自殺、これはかなり有望だった。なんと実行までこぎつけた。誰も住むもののいなくなり、朽ちかけの廃屋となった実家に深夜忍びんだ。そして梁にロープ代わりのマフラーを巻き付け輪を作り、その輪の中に首を入れた。これでようやく死ねると思った。私は清々しい気持ちであった。抜けるような青空の下でピクニックに行くような心持ちで私は足場にしていた椅子を蹴り倒した。
グッと重量が私の喉にかかった。「ぐへぇっ」と声にならぬ声が漏れ、なんだこれはと驚愕した。これほど苦しいとは聞いてない。頸動脈が締まり、頭がなんだか膨らむような感覚におそわれた。耳の奥がガンガンと痛み、目の奥でもチカチカと火花が散った。
し、死んでしまう! 体をジタバタと揺らしマフラーと首の間に手を差し込み隙間をつくろうと試みる。こんなに苦しい思いをして死ぬのは嫌だ! そう思うと同時にマフラーが千切れた。「……命拾いした」ふと誰に聞かせるでもない言葉が口から出た。
惜しかった。そのまま死ねればもう死ぬ必要はなかったがまだ私は生きている。つまりまだまだ自殺する必要がある、ということだ。しかしもう首吊り自殺はごめんであった。あの苦しさを思い出しただけで涙が出るほど恐ろしい。
要するに身に強い衝撃を受けず、ひとに迷惑をできるだけかけず、さらに苦しくない、そんな自殺の方法を考えなくてはいけないということだ。
薬物の過剰摂取も考えたが薬の知識もなく、どんなものをどれだけの摂取すれば死ねるのかも見当も付かなかったので断念することにした。しかも薬物での自殺は目を白黒させ口からも泡を吐きのたうち回って死ぬというイメージがある。そんな死に様、恐ろしすぎる。
そして私は私が行うにもっとも適した自殺方法は餓死であるとそう結論付けた。
飯を食わず、水を飲まなければいずれ死ぬ。なんと素晴らしいのだろう。痛みもない、ひとに迷惑もかけない、色々と散らからない、きれいに死ねる。
時間がある程度必要なのが欠点らしい欠点だがそれものんびりと死ねるとなればむしろこれはメリットなのでは、と思わなくもない。
ではどこで餓死を図るか、それが大事なポイントであった。起居しているアパートでは駄目だろう。当然蛇口から水が出るしカップ麺の類もずいぶん蓄えてある。極限状態になりそこに水や食料があればきっと手を出してしまう。
となるとやはり首吊り自殺を図った廃屋と化しもはや人が居住することに適さない実家に籠もるのが一番良いだろう。
私が数年前まで居住し今は廃屋と呼んでいるその物件は築五十年を数えた二階建ての木造住宅であった。そう、であった、のである。
今や電気、水道、ガスは止まっていることはもちろんのこと、それだけならまだしも二階部分はほぼ崩落し近所の野良猫の住処となり果て、糞尿の被害おびただしく、市役所の建築指導課から絶えずなんとかしろとお叱りを受け、それを無視してきた結果お役所はいよいよ法的処置、強制執行も辞さずという構えを見せてきた。
私が自殺したくなるのも当然だとこれでわかってもらえるだろう。三年前唯一の肉親であった父が身罷りその保険金と遺産欲しさにうっかり財産を相続したらこんな馬鹿デカい、いつ爆発するのか分からない爆弾まで継承してしまったのだから。
この家は持ち家だが土地は借地であった。これもまたなんともやるせない。地代はニ年以上なんやかんやと言って地主に払ってない。住んでもないし使ってもない家の地代なんか払えるかという論理だがもちろんそんなこと受け入れられないことは自分でもわかりきっている。もはや煮るなり焼くなりなんとでも好きにしてくれという心持ちであった。
そして保険金も遺産も気付けば遊んで使い尽くしあとに残ったのはこの時限爆弾だけ。人生に絶望するのもやむなし、といったところである。
さて、餓死を行うためにまた深夜に近所の人の目につかぬように廃屋の中で唯一人間が起居するに足る部屋である仏間に布団に持ち込んだ。ピラミッドで言うならここが王の間ということになるだろう。
布団に包まり天井を見つめる。街灯から光がうっすらと射し込んでいる。仏間であるから祖父と祖母の遺影が飾られている。じっと私を見るその視線には情けない孫を責めるような色をどことなく感じてしまうのは家を潰し、血筋も絶えさせてしまう私の罪悪感が故だろうか。
祖父母以外の私が知らない人の遺影も飾られている。ずいぶん昔の写真で白黒写真である。もはや一族が死に絶え彼らが何者なのか私には判別がつかない。
「……昔から思ってたけどあんたらいったい誰なんだ」
それに問いに答える声はもちろんなく、その代わり二階から野良猫の鳴き声が聞こえてきた。
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。周りはすっかり明るくなっていた。
「おはようございますー!」
近くの保育園の園児たちが登園する声が聞こえる。楽しげで元気いっぱいという感じだ。私も君たちと同じ保育園に通ってたんだぞと心の中で話しかける。空腹感も渇きもまだ感じなかった。
今はいったい何時なんだろうか、園児たちが賑やかに登園しているところを聞くと八時くらいであろうか。
私がこの廃屋に持ち込んだのは布団だけである。スマートフォンも腕時計もアパートに置いてきた。俗世との関わりを断つ! と息巻いてのことだったがこうなると時間を潰す手段がない。暇なのである。
布団に包まり天井を眺めていても仕方がないので仏間からそろそろと出る。家の中は荒れ果てているので仏間以外では靴を履いて行動している。私がむかったのは父が使っていた部屋である。そこもなんともケモノ臭く物が散乱して目を覆いたくなるような惨状であった。箪笥も本棚もまともに設置されているものはなくすべてがひっくり返り、箪笥は引き出しを引き抜かれあちらこちらに引き抜かれた引き出しが放置されている。
猫の糞があるかもしれないので地雷原を進むかのように慎重に足の置き場を確認しながら進む。そしてひっくり返った本棚から読めそうな本をいくつか回収して仏間へと引き返す。
まるでポストアポカリプスの世界で旧時代の遺産を収集しているトレジャーハンターになったような気分になってくる。
回収してきた本はいずれも変な匂いはするわ埃にまみれてるわ、さらに紙も変色しているわで正直触れたくもなかったが餓死を待つ身である私は時間を持て余しているのだ。顔に近づけるとくしゃみが出るし目もなんだか痛くなる、そんな本でも大事な娯楽であった。
回収してきた本を見てみると、松本清張、森村誠一、高木彬光、そして山本周五郎というラインナップであった。どうやら父はミステリーが好きだったようだ。私もミステリーが好きなので死ぬまでの良い暇つぶしになるだろう。
だが一人だけ山本周五郎という作家は読んだこともなかったし、その名前を聞いたこともなかった。私はこの父のラインナップを見る限りこの人もミステリー作家なのだろうと思った。では、まずはこの山本周五郎から読んでみようとつゆのひぬまと題された本を開いた。
体感時間にして2時間後、私はまた父の部屋に戻りひっくり返った本棚をまたさらにひっくり返すという作業に従事していた。
目的は山本周五郎である。山本周五郎の本を探していた。先程自分のことをまるでトレジャーハンターのようだと思ったが今はもうようだではない、文字通りのトレジャーハンターであった。
山本周五郎、面白すぎる。つゆのひぬまと題された本を開いてみるとどうやらミステリーではないようだということわかった。時代小説の類でありその時点で本を閉じかけたがまぁ暇だし読んでみるかとページを読み進めてみるとこれがなんとも面白い。
あっという間に読み終わり、まだ二三冊くらいは父の部屋に眠っているだろうと当たりをつけて荒れた部屋をさらに荒らしながらトレジャーハンティングをしているというわけだ。
引っ掻き回した甲斐があり、おごそかに乾くと赤ひげ診療譚という本を二冊発見した。私はよしよし、とほくそ笑みながら仏間に戻る。
「さようならー!」
園児たちが別れの挨拶を交わしているのが耳に入ってきた。窓から射し込む日の光がうっすら赤く染まり時間の経過を私に伝えてくる。体感時刻はだいたい午後五時といったところか。
通りで文字が見えにくいわけだ。だが問題はない、ここは仏間である。
仏壇の引き出しから蝋燭とマッチを取り出し火をつける。なんとなく線香もあげ辛気臭い香りと煙が仏間中を満たしていく。そんな中蝋燭の灯りを頼りに文字を追う。どこからか聞こえてくるカラスの鳴き声が物悲しく聞こえた。
「おはようございますー」
園児たちの声で目が覚める。口の中がごわごわし水を飲みたいという欲求がふと顔を出す。しかし水などない、ないものは飲めない。
布団から身を起こすと本を手に取る。山本周五郎はもう読み尽くして松本清張を読んでいる。開いているのは有名な点と線、トリック云々より昭和という時代の風俗の方に興味が惹かれる。本に落としていた視線を上げ祖父母ではない古い写真に目を向ける。私が知らないこの人たちもちょうどこれくらいの時代を生きていたんだろうと思うとなんだか感慨深い、不思議な親近感を覚える。
体感時間にして正午頃、腹が鳴った。腹が鳴ると体の奥底で小さな空腹感が顔を出した。喉の渇きは本を読んでいるうちにいつの間にか感じなくなっていた。小さな空腹感を無視して私はページを捲っていく。
「さようならー!」
園児たちの声が響く。
今やはっきりとした空腹感がある。読書にも集中できず布団に潜り込み目を瞑る。サイダーと唐揚げの夢を見た。
目が覚めると辺りは真っ暗である。いつかのように外からうっすらと街灯の光が溶けるような薄い光を仏間にもたらしている。時刻はわからない。
眠ると空腹感がかなりマシになった。代わりに渇きを覚えるが季節が冬だからかそれほど強烈ではない。
蝋燭にマッチで火をつける。オレンジ色の炎が灯る。ふーと小さく息を吹きかけると炎が揺らめき、照らされてできた私の影が踊るように歪む。
「……なにをやっているんだろうか」
じっと蝋燭を見つめる。蝋燭はあとどれくらいで燃え尽きるのが分かるのが良いなと、思う。私はまだまだ燃え尽きないだろう。早く燃え尽きたいものだ。
いや、いっそのこと……。ふっ! と息を吹きかけ蝋燭の火を消す。このように誰かに私の火も消してほしい。布団を被りお腹の上で手を組み目を閉じた。
「おはようございますー!」朝が来た。
「さようならー!」日が暮れた。
「おはようございますー!」朝が来た。
「さようならー!」日が暮れた。
「おはようございますー!」朝が来た。
「さようならー!」日が暮れた。
天丼カツ丼親子丼唐揚げトンカツラーメンチャーハンギョウザナポリタンカルボナーラピザ寿司天ぷらお好み焼きたこ焼きうどんそばきしめん竹輪コーラサイダーファンタオレンジグレープアクエリアスポカリスエット。
もう私の頭の中は食べ物と飲み物のことでいっぱいになっていたパンパンになっていた。たった三日四日で空腹感と渇きに私の頭と体は占領され、目を開けても閉じても食べ物のことが脳裏から離れない。しかし空腹感より渇きの方がよほど辛い、近所の公園の水道で喉を潤そうかと本気で考える。
体感時刻は午後九時といったところであった。冴えない頭がぐるぐると回る。
腹がへった腹がへった腹がへった腹がへった水が飲みたい水が飲みたい水が飲みたい水が飲みたい水が飲みたい水が飲みたい。
よし! 水だけでも飲もう! 公園に行こう! なんのために自分がここにいるのかも忘れ、私は立ち上がった。
立ち上がると同時にぐらりと目眩がした。立っていられず布団の上に崩れ落ちる。壁に手をつきながら立ち上がろうとするがそれだけで息が少し切れる。
ずっと寝ていて分からなかったが体が驚くほど衰えている。これではとても公園なんて行けない。
ヤバいと、感じた。これは死ぬ。思った以上に死は近くまで来ていたようだ。自らの命の蝋燭は果たして今どれくらい残っているのだろうか。
「おはようございますー!」朝が来た。
「さようならー!」日が暮れた。
苦しい。空腹感と渇きがこんなに辛いなんて思ってもみなかった。なんでこんなに辛い思いをしないといけないんだ。思考がはっきりとしない頭でぐるぐると考える。視線はじっと天井を捉えている。視線を動かすのも億劫なのである。
ほっともっとの唐揚げ弁当を腹いっぱい食べたい、親子丼もカツ丼も食べたい、ハンバーグも食べたい。食べたいものが続々と浮かんでくる。
サイダーを飲みたい、CCレモンも飲みたい、コーラもカルピスも。
もはや餓死をしたいなんて、生きるだの死ぬだのすら考えられなかった。食べたい飲みたい、それだけの思考。食欲という原始の欲望だけが私の中に残っていた。
玄関の方で滑りの悪い金属を無理やり動かすような音がした。誰かが入ってきたようだ。我が廃屋の玄関の扉は引き戸であり二階の崩落の余波を受けて立て付けが非常に悪く戸を動かすと大きな音が鳴る。ついでに鍵も締まらなくなっている。
何者かのブーツで畳を踏み荒らすような足音が聞こえる。
仏間の目の前で立ち止まったようだ。摺り硝子の戸越しにスマートフォンの光を感じる。
ガラリッとなんの抵抗を示すこともなく戸が開かれた。
「ここに居たのか」
侵入者の正体は私の友人であった。ひどく呆れた声を出してゆっくりとため息を吐いた。威圧感がすごい。
「ど、土足厳禁……」
渇ききった喉で久しぶりに声を出したので上手く発声できない。
「こんなところでなにしてるんだ」
私の言葉は無視して友人が呟く、私への問いというより独り言に近い声のボリュームだが視線はしっかり私に注がれている。ほとんど睨んでいると言ってもいいだろう。
「ガ……餓死しようと思って……」
私は恥ずかしさに顔が赤くなるのを感じた。餓死をしようとしていたのに頭はもう食べ物、飲み物のことでいっぱいであり、しかも友人はそれを察しているようであった。
なぜそう思うかというと友人が赤いHとプリントされたビニール袋を白く細長い指に引っ掛けるように提げていて、そこから食欲を刺激する揚げ物の香りが漂ってくるからだ。この香りは唐揚げだ。ほっともっとの唐揚げ弁当だ。
「……だと思った」
私が寝ている布団に膝をつきながらそう言い、ビニール袋から唐揚げ弁当とウーロン茶を取り出す。
私はごくりと渇ききってもう出ないと思っていた生唾を飲んだ。
外から淡い街灯の光が仏間に差し込み、友人の化粧気の少ない顔を青白く照らしている。相変わらず睨むような視線だが、その瞳の中に少なくない安堵の色が隠れていることに気が付いた。
「いただきます」
なんの否やもなかった。今唐揚げ弁当を目の前にして餓死だのなんだのという気持ちははるか彼方に追いやられた。
あっという間に完食して友人に手を合わせる。
「ごちそうでした。ありがとう」
「さぁ帰ろうか」
友人が立ち上がり摺り硝子の戸を開いて歩いて行く。
「……はい」
私も友人に続いて立ち上がり後に続く。もう目眩はしなかった。
「次また消えたら殺す」
餓死はもうできない、あの世からのお迎えの前にもっと怖いお迎えが私の前に現れるから……あぁ恐ろしい。
餓死希望 熊五郎 @sybmrmy
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