第105話 みんなで恋だ愛だと騒いだ日⑭

 大都会、東京の常夜灯でも広大なキャンパスの深部までは照らすことはできなかったようで、ましてや俺たちがいる場所といえば四方を囲まれた中庭である。

 自然と届く光は、空高くある月の光のみだった。


「本当に綺麗」

「そのまま、月を見つつにでも聞いてくれ」


 高橋は恍惚とした様子で頭上を仰ぎ見ている。

 俺はそんな彼女の背後にまわって、再度、荒縄を解く作業を始めた。

 そのままに口を開く。


「もう一度やり直してくれないか?」


 返事はない。

 高橋は何も言わずに視線を下ろす。


「俺のことを好いてくれてるんだろう?」

「うん」

「だったら何を躊躇ちゅうちょすることがあるんだ? それがわからん」


 俺の疑問に対して「ほんと、そうだよね」と返答があった。


「正直にいうと嬉しくてたまらないんだ。このまま振り返って、あなたの胸に飛び込んでしまいたいくらい。でも、私にはどうしても聞かないといけないことがある──本当に私でいいの?」


 高橋はこちらを見ずに言った。

 その様子から彼女なりの覚悟というものが伝わってくるのだが、生憎あいにく、俺としては返答は決まりきっている。


「いいよ。もちろん」

「なんでそんなにこともないようにお返事できるのかなぁ」

「だって本当に是非ぜひもない質問だからな」


 当然のことを当然に答えただけだから、勿体もったいぶる必要なんてない。俺は気張ることもなく言った。「俺は君が好きなんだ」


「私だったら私みたいな女は絶対に選ばないよ。不義をはたらくってのはさ、それだけでオシマイなんだよ。誰だって嫌いになる」

「なんだそりゃ理解できん。漫画の読みすぎなんじゃないのか?」

「そんなわけないでしょ、普通の人なら当然そうなるの」

「へーへー。わるうござんしたね、物好きで──それで? 俺が変わり者だったからオールオッケーって話でいいんじゃないか。ちまたの常識に囚われる必要なんてないだろ」

「そうかもしれないけど……それでも私は佐藤くんと話さないといけない。このまま、優しさに甘えるだけじゃあまりにも情けないから。だからもう少し付き合ってくれてもいい?」

「気のすむまで」


 俺が頷くと、小さく「ありがとう」という言葉が聞こえる。


「佐藤くんを幸せにするために、私は何をすればいいの?」

「まず幸せとはなんぞや?」


 また高橋らしい、こじらせた質問がやってきたので苦笑する。幸せってなんだっけと考え出したらそれは、ちょっとした哲学の域に入り込んでしまうというのに。


「そりゃ人生の喜びとか生きる目的とか……そういうの」

「人生の目的ねぇ」


 言われて考えてみる。

 答えはすぐに出た。


「俺はさ、知っての通り旅狂いだからさ。足を動かしていればそれで満足だったりする」

「そうだね。佐藤くんはそういう人だ」

「うん。それで高橋には俺が帰ってくる場所になってもらってた。俺が『ただいま』って言う人はきみなんだって、そう思ってたフシはある」

「だったら私は、佐藤くんが旅から帰ってくるのをずっと待っていればいいの?」

「ああいや。それが最近のゴタゴタで色々と思い直したことがある」


 俺がそう言うと、高橋が横目でこちらを見る。


「この前の旅でさ、思ったんだ。君も一緒に連れ出せばよかったって」

「私も?」

「そう」


 前回の旅路、様々な出会いがあった。長崎においても京都においてもその道中においても、そのどれもが大切なエピソードであったが──もしもだ。もしも、そこに高橋がいたのであれば、きっとまた違った物語があったに違いない。


 旅というものは前に進むことだ。

 絶えず足を動かし続けて、何かしらを得て、何かしらを失っていく。


 そんなかけがえのない旅路を、俺は一人だけで満喫まんきつしてきた。

 しかしその物語の裏で、高橋はいったいどのように過ごしていたのだろうか。俺が遠く遠くへと進み続ける一方で、彼女だけがジッと進歩もなく同じ場所に立ち続けている。


 ずっと変わらずに、ずっと同じ気持ちで、俺を待っていて欲しい。


 そんな願いは傲慢ごうまんではないか。

 そんなのは間違っていると思った。

 

「だからさ高橋──」


 だから彼女が前へと進み始めるのであれば、それは良いことだと思った。その道が俺の進む方向とは違うのだとしても、それはそれで仕方ない。そういうわけで彼女と別れてしまうことは道理であったはずだ。


 しかしなんでかな、それは無性にさびしかった。

 結局、俺の本音はそんな我儘わがままだ。

 ゆえに俺が彼女に望むものは一つだけ。


「君は俺の旅についてきてくれ」

「え?」

「それだけが俺の望みだ」


 俺の告白に高橋は虚をつかれたように目を丸くした。どうやら迂遠うえんな言いまわしすぎて、うまく伝わらなかったようだ。だからこそ言い直すことにする。

 それはいつかの彼女の望みに対する返答だ。


「ずっとずっと一緒にいよう」

「──っ」


 タイミングの良いことに、固かった荒縄の結びがちょうど解けた。俺は彼女を縛りつけていた縄をぱらぱらとゆるめながらに、彼女の対面へと回る。


 彼女の姿は、月光に照らされて綺麗だった。

 うるんだ瞳とぼんやりと明るい絹のようなほほが、月の表面のように優しく輝いていた。その表情を見た俺は見惚みとれていた。


 彼女はいい女だ。

 誰がなんと言おうとも、たとえ彼女自身が否定しようとも、彼女は俺にとって最愛の人だ。そこだけは何があろうとも変わりようがない。

 

 ここしかないと覚悟を決める。

 ここで男を見せなければ俺は今後ずっと後悔にさいなまれる。そして言う。「そうしてくれれば俺はおおむねハッピーだから、よろしく頼む」


 強引に彼女の顔を引き寄せる。

 

 まあ……その、なんだ。

 これをするためにこそ、こんな誰もいない場所までやってきたのだから、詳細を述べることは控えさせてもらう。

 

 行為が終わると高橋が言った。


「どこにだってついて行きます。二度と離れてなんてやらないから」

「目が怖ぇよ」


 こうしてようやく恋だ愛だと騒々しかった一日に、ひとまずのケリがついた。

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