第87話 独白②(彼女視点)

 佐藤くんが旅に出ても、私の葛藤かっとうの日々は続いた。そんな中、どうしても私の胸を苦しませる思いがあった。


 彼が好きになるべき女性が、私以外にいるのではないかと。

 そのために、私は身をひいておく必要があるのではないかと。


 佐藤くんは女性にモテる、それもなぜか決まって旅先で。彼が旅に出るたびに何度ヤキモキした気持ちを抱いてきたか分からないくらいだ。今回もきっと彼は多くの出会いを得る、心のどこかでそう確信していた。


 旅の最中でも、彼は私と交流をもってくれた。こちらが連絡せずとも、定期的に『声が聞きたくなって』と電話をしてくれるのだ。きっと私の身を案じてのことだったのだと思う。

 彼のおどけた調子を聞くたびに、私がどれだけ安堵あんどしたか。そんな彼の気づかいに痛み入るばかりだった。私の胸には、嬉しいのかそれとも罪悪感か、甘くてしびれるような痛みが拡がった。

 その痛みに陶酔とうすいするだけではダメなのだ。

 私は彼のために、できることをすると決めたのだから、もっとしっかりしなくてはならない。そのように自らを叱咤しったする。


 彼の帰りを待つ日々の中で、そんなことを、くりかえしくりかえし悩んだ。そして結論を出す。それは彼と別れるという決断だった。


 多分、間違っている。

 けれど、私はすでに間違いを犯してしまっているのだ。

 自分に自信がなかった。


 とはいえ、我ながら独りよがりな結論だとはわかっていた。そのままつっ走ってしまえば、ドツボにはまってしまいそうな気もする。だから一度、誰かに自分の気持ちを相談したかった。できるだけ関係のない、第三者からの意見を聞きたかった。

 しかし、このようなフワフワとした話ができる人間というのも限られる。当初は、私が信頼する大学の先輩に話してみようと考えた。しかし彼女は別件により立て込んでいたらしく、彼女の相方あいかたへと声をかけた。


「そこで私というわけか。お前たちカップルは何をこのんで、私のような男へと恋愛相談を持ちかけようとする?」

「トラ先輩は佐藤くんからもしたわれてますから」


 大学のとある先輩だ。

 佐藤くんからの信頼があつい彼であれば、彼女だった私ですら知らない話を知っているかもしれない。きっと何かしらの気づきを与えてくれるだろう。

 

「それで佐藤と別れたいのだったか。理由は『私では彼を幸せにできないから』だと?」

「はい」

「いいんじゃないか」

「……意外です」

「何がだ?」

「もっと冷静になって考え直せと言われると思いました」

「自覚がある人間に言っても仕方ないことだろう」


 そこで先輩は嘆息をつくようにして、こちらへと語りかけてくる。


「一つ言っておくが、お前があいつを幸せとかいうフンワリとした心境にすることができないのなら、誰であろうと実現不可能だと思うぞ」

「それは──」


 中々に痛いところをついてくる。私が佐藤くんと別れたところで、彼が新しい幸せを獲得できる保証なんてない。


「そもそも佐藤にとっての幸せとはなんだ? 私にはよくわからん」

「私にもわかりませんよ」

「だろう。ただ、あいつが何かに飢えるように。日々を不満足に生きていることだけは同意する。あいつもあれで難儀なんぎな奴だからな。目の前で彼女が手篭てごめにされようとしているのにいかりもしないで冷静につとめようとするやつを、俺は健全とは思わん」


 先輩に相談するにあたって、私と佐藤くんと鈴木くん、三人の間で起こったことは包み隠さず話している。話をするとさすがに先輩でも目を丸くして驚いていた。


「しかしだ──俺はお前らが一旦いったん、男女としての縁を切るのは悪いことではないと思っている」


 先輩の口からまたもや意想外な言葉が紡がれる。


「幸せなんてもの。周りが勝手にお膳立ぜんたてしたところで、なんの解決にもならん。あいつが幸せとやらでないのは、結局はあいつの問題だ。手に入れようとしていないから手に入らんのだ。欲しいものがあるのなら遮二無二しゃにむにでも手を伸ばさんと届きはせん」


 そこで先輩は言葉を切ると、大事なことを噛み砕いて説明するかのように、続く言葉を発する。


「それを気づかせる手段として、お前が与えようとする『不幸』は有効だと俺は考える。人間、当たり前にあるものが無くなったときにしか、物事のありがたみを理解できん生き物だからな」

「不幸だなんて、私、別にそんなつもりじゃ──」

「愛する彼女から『別れよう』と言われることが不幸でなくて何だという?」

「それは……」


 先輩の言葉に絶句してしまう。まったくもって、その通りだったからだ。


「私が佐藤くんを『不幸』に、いや、だって──」

「あまり自覚できておらんようだが、高橋。あの何に対しても執着しゅうちゃくを持とうとしない佐藤が、唯一こだわっているのがお前だ。言われたのだろう? 『特別』だと」

「それは……はい」


 言われれば言われるほどに、先輩の言葉に納得していく。

 確かに私のしようとすることは、彼にとってどんな意味を持つのか、考えが足りていなかった。結局、私はまた、彼のことを考えているつもりで自分のことしか考えていなかったのだと思い知る。恥ずかしくて、どうしようもない。


「わかってくれたようだな。私は、佐藤にとってお前と別れることは悪くないと言った。それは自らの身の振り方を見つめ直す機会になるからだ。しかし、それ以外の理由はないぞ」


 先輩はそんな私を見透かすようにして語りかけてくる。


「特にお前にとっては何も意義がない。ただ不貞を働いた相手に対して、更なる追い討ちをかけて嫌われるだけだ。男の嫉妬しっとは怖いぞ。自分から離れていった異性を、蛇蝎だかつのごとく嫌い、酷い仕打ちをする者だっている。佐藤がそのようにならない保証もない」


 先輩はそこで言葉を区切らせると、問う。


「それでも、するか?」

「……それが、佐藤くんのためになることであれば」

「そうか。『悪い女』だな、お前は」

「覚悟のうえです」

「ふむ、らがないか。わざと強い言葉を使った、許せ。しかし今後、思いもよらぬところからそしりを受けることだけは身構えておけ」

「はい」


 そうして先輩への相談は一区切りがつく。

 ただその後も無用に佐藤くんを傷つけるだけの結果にならないように、何度も何度も、先輩の助言を受けた。


「まあ、佐藤が別れるのを拒否する可能性だってあるわけだがな」


 すると先輩がふと口をついたように言う。微笑をともなった、ただの軽口なのだろう。不必要に固くなっている私の気を楽にするために言ってくれたのかもしれない。

 しかし私はそんな先輩の発言に首を振った。

 

「いえ、すんなりと受け入れられます。なんの抵抗もなく」

「はて? しかし、とうの佐藤は別れ話を拒否したからこそ、今は放浪の旅に出ているのではなかったか?」


 先輩の疑問も、もっともだった。

 私に対して別れを惜しんでくれるだけの愛着が、佐藤くんにあることは疑ってはいない。しかし、それだけではないのだ。ずっと彼女として、彼を見続けてきたからこそ分かる。


「それは私の気持ちが定まっていなかったからですね。改めて、彼と向き合って提案したのであればとおります」

「何故だ?」


 私は確信をもって答えた。


「彼が、私の望みを否定するわけがないんです。それがどんなに嫌なことでも、己を殺してまで。そんな彼女なら、いない方がいいでしょう?」

「はあ。それは……色々と問題ありだな。佐藤もお前も」


 先輩は深々と嘆息をついて、そう言った。



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※ 今話は2022/07/10において改稿をしており、内容を変更しております。

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