第73話 どこか。ここじゃない、どこか

 旅人の提案をグルグルと考えながら、俺は裏山のふもとからの帰途きとについていた。繰り返されたのは、一つの言葉だ。


 どこか。ここじゃない、どこか──


 何だろう。どうしてこんなにも心惹こころひかれるのだろう。

 理由は簡単だ。

 見てみたいのだ、どうしようもなく。

 まだ見ぬ景色、まだ見ぬ出会い、まだ見ぬ世界。

 およそ数多あまたあると思われる、それらことごとくに触れてみたいという欲求が、自らのうちにある。それを理解してから、衝動のようにどんどんと抑えきれなくなっていることに気づいた。


 最初は、故郷に自分の居場所を見出せないからほかへと求めているのだと考えた。だが、どうやらそんな感じでもないらしい。

 現状に不満なんてない。

 愛すべき家族に、尊敬すべき仲間たち。

 まさか、これだけ恵まれた境遇にあるのに、それらを不満だと抜かしたらバチがあたる。


 だからこんなにも心迷っているというのは、単なる天秤の問題だった。

 俺は『故郷』をとるのか、それとも『旅』をとるのか。

 どちらが俺にとって魅力的なのか。

 そんな単純な問いであった。


 本来であれば、もっと色々と考慮することはあってしかるべきところだ。そもそも、あの旅人に対する信頼なんてあったものではない。自分の決断の結果、周囲のだれに迷惑をかけることになるかも想定するべき事柄ことがらだ。しかし思考はそこまで発展しない。なにせ小学生にもならない子供だったのだ。どうしても短慮たんりょになる。求めたのは、自らの欲求だけだ。


 俺は『旅』に出ることを決めた。


 不安はある。

 もう二度と故郷へと戻ってこれないと脅されたのなら、二の足を踏むのは否めない。しかし、そこは楽観することにした。そも、二度と故郷へと戻れないような状況におちいることが、就学前しゅうがくまえの俺には想定できなかった。旅人が大袈裟おおげさに言っているだけであり、なんだかんだと帰郷はかなうことだとタカをくくっていた。


 そして向かったのは馴染みの中で最も仲の良い、鈴木の家である。

 彼を呼び寄せて一方的に、旅に出ること、そして自分がいなくなったらそれを両親に伝えてほしいと頼み込む。さすがに両親に面と向かって言えるだけの胆力たんりょくはなかった。

 鈴木は俺の言葉を冗談だととらえたらしく、「わかった、わかった」と生返事だった。むしろ、それぐらいの態度が好都合だ。真面目に対処されて「考え直せ」と言われたら困ってしまう。

 とはいえ、冗談だと捉えられた言葉が正確に両親に伝わるかは怪しかった。なので手紙をしたためることにした。大したことは書かなかったように思う。しかし『ここまで育ててくれて、ありがとう』と『自分がいなくなったら、その分、弟を可愛がってくれ』と、二つの文を書いたことだけは覚えている。あと『もし、帰ってこれたのなら妹に会えたら嬉しい』みたいなことも書いたような気がするが、確か消した。旅人に毒されてしまったようでしゃくだったのだ。

 それを鈴木へと手渡して、その場を後にした。


 それから、大したこともない旅の準備を整えて、俺は夜を待った。

 両親は普段から生まれたばかりの弟の面倒にてんやわんやであり、俺が弟の世話を率先そっせんして、寝かしつけることに成功すると、彼らも倒れ込むように眠りについた。そんな子育ての大変さを目の当たりにして、かつては自分こそが二人に迷惑をかけていたのだと自覚する。

 多大な感謝と、そして申し訳なさを感じた。


 草木も寝静まったと思える頃、俺は自宅の玄関を出る。

 晴れた、月のよく見える夜だった。

 月が出ているからには足元にかげりはなく、往路につまづくことはない。そういえばと、旅人から正確な時刻を指定されていないことを思い出した。だが、何となくまだ大丈夫な気がしていた。

 きっとぼんやりとした顔をして俺の来訪を待っているだろうと思い、仕方ないので少しだけ足を早めてやることにした。


 そして故郷の住宅地を抜けて、裏山のふもとの領域に入ろうかとしたところ、行先に二つの影があることに気づいた。

 一人の少年と、そして一人の少女だ。

 少年の方は鈴木である。

 眠たそうな顔をして、さも気乗りがしないと言った顔をしていた。そしてそれとは対照的に、真面目くさった顔をして俺を待ち構えていたのは少女の方だ。


 彼女は故郷における馴染みの一人で、活発な子であった。

 馴染みの中で一番のお転婆てんばであり、よく喜び、怒り、そして笑う。いっそガキ大将に近いものがある少女だった。


 彼女は名前を高橋といった。

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