第66話 手紙を読んだ日①

 山本さんが日記を読んでいる間。手持ち無沙汰ぶさたになってしまった俺は、日記の内容を思い返していた。

 山本さんの婚約者さんは存外ぞんがいにキッチリとした性格ではなかったようで、記載は毎日定期的にというわけでもなく、気が乗ったときやどうして抑えきれない衝動があるときだけであった。日付すらもない。日記の内容にしても統一性がなく、その場その場の気持ちをぶつけるように書き連ねている。

 まあ元来がんらい、日記とはそういうものだ。


 ──仕事において、我慢できないことがありすぎて日記を書くことにした。僕は社会というものを甘く見ていたようだ、こんなにも馬鹿らしくて理不尽なものだとは思わなかった。すでに学生のころをなつかしく感じている。気をまないためにも日記を書くことは有用だろう。


 日記はそんな一文から始まる。

 それからしばらくは普通の、世間一般の成人男性らしい思いがつづく。特筆すべきことはない。ただ彼の日記はおもだって、二つの事柄ことがらについて記載されることが多かった。

 一つには、仕事に対する愚痴ぐちや不満、てには特定の誰かに対する誹謗中傷ひぼうちゅうしょうすら存在する。これは、彼も結構キテいたのだろうと察するに余りある。

 二つには、山本さんに対する感謝と愛情の記載。仕事がつらく、へこたれているときでさえ彼女の存在が救いになっていると、はっきりと書いている。


 ところがある日をさかいに、その二つが最悪の形で統合されることになる。


 ──彼女に浮気を疑われた。裏切られた気分だ。僕が、いったい誰のために。ちくしょう。


 それから書きつらねられていたのは、山本さんへの誹謗中傷であった。

 それまでは漠然ばくぜんと、仕事や会社といった概念に対してぶつけていた不満をそのまま、山本さんへとぶつけていた。

 見ていて気分のいいものではなかった。

 しかし、時折ときおりに我に返ったような文を書くときがある。


 ──日記を振り返って見てみると、これが本当に自分が書いたものなのか信じられなくなる。僕はこんなことを思っていない。わかっているんだ、彼女は本心から発した台詞せりふではないってことは。あのときだけ、言葉だけだ。僕みたいに疑心暗鬼になって探りを入れる真似なんてしていやしない。最低だ。いや、でもそのとき感じたいきどおりは本物だったはずなんだ。けどそれは彼女にぶつけていいものじゃない。自分が嫌になる。僕はどうしてしまったのだろう。


 この一文を見たとき、ふと俺は、昨日このガールズバーで会った酔客に対して述べた言葉を思い出した。『みんな自分のことが大嫌いで、そして大好きなんですよ。そんな中で己のことを許せなくなったものから壊れていくようになっています』

 彼はもう自分を許せなくなってしまったのだろう。


 ──彼女へと婚約破棄を申し出た。するとあっさりと受けいれられてしまった。嘘だろ……


 するとまたある日を境に、日記の様相ようそうが変わる。

 どうやら彼は山本さんの気持ちが自分から離れてしまっているのに気づけていなかった様子である。すんなりと受けられてしまった提案に狼狽ろうばいしていた。彼の予想では断固拒否されるはずだったのだろう。けに言ってしまうと、それを持って自己肯定感を満足させたかった、そんなところだと思う。

 故人に対してこの物言いははばかられるところではあるが、同じ男としてあえて言いたい。

 ばかやろう。

 ちっとは山本さんの気持ちをおもんばかってやれと言いたくなった、そんな余裕がなかっただろうことは承知しているが。

 しかし彼にとって、その気づきが良い方向へと向かったようだ。

 目をおおいたくなるような醜悪しゅうあくな激情は次第にりをひそめていく。かわりに書かれているのは、どうにかして彼女と話しあいたいといった焦燥しょうそうであった。


 ──彼女が話をしてくれない、おかしい。いや、わかってる。今振り返ってみると自分がどれだけやらかしてきたか、僕と話したくないだろうってことは理解している。それを考慮こうりょしたとしても、おかしい。彼女の様子が尋常じんじょうじゃない。あんな風にヒステリックな激情に流される人じゃなかった。そして彼女をそうしたのは、僕だ。


 別れた後のことだろう。

 山本さんは執拗しつように嫌がらせを続けられたと言っていたが、実際には齟齬そごがあったのかもしれない。当時の彼女が人の言動に過敏かびんに反応したであろうことは想像にかたくない。


 ──連絡がつかなくなった。どうしたものか、もうこれ以上に彼女を追い詰めるような真似はしないほうがいいだろう。それはわかっているが……彼女が心配だ。どの口が言うのか。しかし、自分だけ彼女を傷つけてスッキリして、彼女が悶々もんもん鬱屈うっくつしているなんてことは許されない。あの感情は地獄だ。もう夫婦としての関係は見込めなくても、彼女の不満をぶつけられる受け皿……いやサンドバックぐらいにならなければ、申し訳が立たない。おりを見て妹に仲介を頼もう。刺されるぐらいの覚悟は持っておいた方がいい。漫画雑誌を腹に仕込んでいたら包丁ぐらいなら防げるだろうか。


 なんだかトボけた人だなと思った。

 非難ではなく、実直な感想として。

 日記の書かれた経緯からして、これまで何かと剣呑けんのんな雰囲気の文章が多かったのだが、ここにきて彼の人間性というのが少しだけ見えた気がする。本来の彼は人に対して気遣いを見せることができる人格であったのだろう。

 余裕を切り詰めた生き方をすると人はおかしくなる。

 彼に必要だったのはケセラセラの精神だったのかもしれない。


 ──彼女から写真が送られてきた。


 そして日記は最後の記載へと入る。


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※ 婚約者の一人称を『俺』から『僕』へと変更しました。理由は今話において主人公とごっちゃになって紛らわしかったから。これ以前のエピソードにおいては追って修正いたします。

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