第57話 浴びせかけられたグラス

 後日。

 ガールズバーに迷惑をかけた件について、お店に謝罪の気持ちを申し出たがやんわりとお断りされた。どうやら雇用して働かせるとなると色々と煩雑はんざつなことになってしまい、かえって迷惑らしい。配慮が至らなかったようで反省しきりだ。

 そういうことで、お店の方には「ごめんなさい」だけで済んでしまう話であったのだが、こちらの気が済まない様子を察してか、一つだけ提案してくれたことがある。


 それは特定の時間において客として来店してくれないかという、お誘いの言葉であった。


 何でも最近、深夜帯において厄介な泥酔客が入りびたっているそうである。特殊な経歴の客だということはなかったが、どうにも酒癖が悪いようで、少しばかり店全体で警戒しているのだという。

 なるほど、どの業界においても「要注意リスト」というものは作成されるようだ。お客様は神様であるが、れ物扱いされる神様だって当然存在するのだ。

 

 女性従業員の安心のためにも、若くて信頼のおけそうな男性が店内に常駐してくれることは大変に助かると言われ、「そのためにしちゃいけないことは──まぁわかっているよね?」と釘をさされる。店側のご好意により、その時間帯においては飲食を割安わりやすで提供してくれるらしいが、調子にのって飲みすぎないようにしないといけない。

 俺自身が「リスト」に追加されたのであれば、目もあてらられない。


 そのようにして、京都滞在中における奇妙な生活サイクルというものが確立する。

 朝から惰眠だみんむさぼり、昼を過ぎてから起き出して京都の街を遊び歩いては、夜遅くになるとガールズバーへと足繁あししげかよう。何だか一昔ひとむかし前のロクデナシのような生活習慣が妙にしっくりとしてしまい、今後の生活に影響が出てしまいそうで、ちと怖い。

 東京に戻ったら清く正しい暮らしを心がけることにしよう。


 そうして夜の店におくすることなく突入できるようになってきた頃合ころあい。俺がバーカウンター越しに山本さんとは違う従業員さんと会話に花を咲かせていると、その客はやってきた。

 スーツを着た、何の変哲もないサラリーマンのような風体の男だった。

 しかし一目でベロンベロンに酔っていると分かる。

 千鳥足でフラフラとバーカウンターに座ったかと思うと、ちょうど目の前にいた山本さん相手に「酒っ! 早く持ってこいよっ!」と横柄おうへいな態度で注文をする。山本さんが具体的になにが欲しいのかと尋ねると「そんなこともわかんないの?」と不機嫌さを隠そうともせずに応えていた。

 

 その後も、詳細を語るのもはばかられるような男の態度は続き、ついには明らかに気を悪くした他の客が店を去っていくような事態にまで至っていた。

 

 なるほど公共のマナーが悪いというだけで営業妨害ものなのだろう。さりとて客商売としては、そうそう気軽に一般客に出禁できんを喰らわすのも体裁ていさいが悪い。いっそのことグウの音も出ないほどの失態を犯してくれれば、といったところが本音なのかもしれない。

 しかし男はにくたらしいことに決定的なボロは出さない。

 ただただ態度が悪いだけなのだ。程度ていどひどければ店側が強硬措置をとる理由にもなるだろうが、境界の見極めが難しい事柄ことがらではある。気軽に措置をとって逆恨さかうらみを買ってはたまったものではない。SNSが普及した昨今。悪質な個人のクレーマーだとて、知恵を絞れば店側を困らせる事態に追い込むことは可能なのである。まあ豚箱ブタバコ送りになる覚悟があるのなら、というただし書き付きではあるが。

 

 特にこのガールズバーには、山本さんのようにオーナーの人柄に恩義を感じている従業員が多い印象があった。彼女らにとっては、まだまだ我慢して様子見する段階なのだろう。

 そんな風に考えると涙ぐましいやら、腹立たしいやら。

 変な正義感をもって男に食ってかかりそうになるが、せっかくの彼女らの頑張りを無駄にするわけにもいかず、黙って状況を見守る。

 せめて荒事あらごとの抑止につながればと、男へと俺の存在をアピールできる位置にて待機していた。何かあればここから割って入る心算こころづもりだった。


 そうして、その時がやってくる。


「ところで山本ちゃん。今晩、俺とどう?」

「また冗談ばっかり言って」

「いやいや冗談じゃないって、ちょっと聞いちゃったんだよ」


 男はそのまま下卑げびた笑顔を浮かべると、口を開いた。


「なんでも婚約してた男を裏切って、他の奴とねんねしたんだって? そしたら婚約者がショックで自殺したって。やべぇよ、とんでもない尻軽しりがる悪女じゃん。俺もぜひその恩恵おんけいにあずかりたい──」


 バシャリとした、水音が店内に鳴る。

 先ほどまで俺と会話していた女性従業員が山本さんを押し退け、グラスに入った酒を浴びせかけていた。

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