第24話 自転車に乗れた日② 【改稿済み】

 元より運動神経は悪くない田中ちゃんである。

 騒ぎはするものの、何だかんだと危なげなく教えをこなしていく。幾刻いくこくもすると、傾斜を利用して坂道をくだりおりることは問題なく可能になった。いまだペダルを漕いだりはしないが、ここまできたらあとは時間の問題だろう。そろそろ通常通りに自転車を運転させてもいいかもしれない。

 そういったところで、休憩をはさむ。


「晴れそうだな」

「うん、そだね」


 道路の脇に座り込んでも大丈夫そうな場所を見つけて、二人して腰を下ろす。

 すると目の前には絶景があった。

 坂を駆け上るように居並ぶ市街地と、ゆったりとした穏やかな海に、どこからきたのか分からない外国の船などもいる。雨上がりの長崎の街は、太陽を反射してキラキラと光っていた。そんなきらめく街並みは、空が晴れるのに合わせてポソポソと活気を取り戻していくようにも見えた。


「ねえ、佐藤さん」

「ん、なに?」


 ぽんやりとそれを眺めていれば、田中ちゃんがこちらを向かずに尋ねてくる。


「なんで自転車に乗ろうなんて言い出したの?」

「ああ」


 これまで何も言わずに提案に従ってくれていた彼女だが、ここにきて疑問を覚えたようである。いや、最初から疑問には思っていただろう。


「怒らないで聞いてくれる?」

「内容による」

「そりゃそうだ」


 気を取り直して俺は言う。


「昼間の田中ちゃんの話なんだけど……俺にはよく分かんなかった」

「あー、それは──」

「お姉さんのことをどう思ってるのかってくだりはまだ理解できたんだが……途中からはちょっとな。理解力がなくて申しわけない」

「仕方ないよ。私も何を言ったのかよく分かってないところがあるし……お願い忘れて」

「いや、けどね」


 強引に話を中断しようとする彼女を慌てて引き止める。

 言いたい言葉はまだ彼女に伝えきれていない。


「田中ちゃんが本気で悩んでるんだってのは分かったんだよ。そして再び申しわけないことなんだが……俺は悩む人を見つけたら『そんなときは旅にでろ』としか言わない」

「それは、佐藤さんらしいね」


 おどけたつもりで言ってやると、田中ちゃんは力無く笑った。もうちょっと豪快に笑い飛ばしてくれた方がこちらとしてもありがたいが、そうそう上手くはいかないようだ。


「旅はいい本当にいい。どんな困難辛苦こんなんしんくだろうとも旅に出ればすべて解決する」

「それは言い過ぎなんじゃ?」

「本当だぞ。旅から戻ってきてみると、むずかしかった問題は残った人達で解決してくれているんだ」

「うわぁ、最低だ」


 しかし、おどけ続けていると田中ちゃんも徐々に調子が出てきたようだった。当初よりは声音もはずんで抑揚よくようがついてくる。俺はそんなタイミングを見はからって、言いたいことを言う。


「まあ今のは冗談だとしても、なにかつまずくことがあったなら、旅に出ることは悪いことじゃない。というか、旅に出る必要もない」

「どういうこと?」


 俺の言い草が疑問だったのだろう。田中ちゃんが尋ねてくる。


「人が旅に出る理由なんて、それぞれなんだろうけどさ。俺の場合、原動力というか根本の目的はいつも一つで、変わらないんだ」

「どんな?」

「『どこか。ここじゃない、どこか』へ行くこと」

「ここじゃない……」

「そうそれだけ。それだけが俺の旅の目的。そしてそんなこと、本当は旅に出なくても叶えられる。知らない小道を一つ、帰り道に選んでみるだけでいい。そうすれば知らない景色を見ることができる」


 それはちょっとした持論じろんであった。ちょっとした精神論で、ちょっとした気の持ち方。そして自分が自分としてあるために、必要な心の在り方だった。

 それを彼女にも伝えたかった。


「これまでにしたこともない事に挑戦してみてもいい。乗ったこともない自転車に乗ってみるとかさ。そうしていつもと違う景色にたどり着けたなら、少しは新しい自分になってるはずさ」

「なんだか佐藤さんも、私に負けず劣らず意味不明なこと言い出すね」


 すると田中ちゃんは微かにフッと笑みを見せてくれた。

 少しだけホッとする。

 正直なところ、この言葉が彼女のためになるかどうかは分からなかった。けれど何であれ、彼女のためにキッカケを提供することは、無駄にはならないはずだとそう信じることにした。


「さてと、それじゃあ私も自転車に乗れるようになって、新しい自分へとバージョンアップしましょうかね」

「なんだかアンパン○ンみたいだな」

「え、どこら辺が?」


 田中ちゃんが先に立ちあがり、彼女に促されて俺も立ち上がる。するとまぶしい光がまなこに入って顔をしかめる。

 見ると遠い雲の切れ目から、オレンジ色の夕日がしてきている。そしてその光は俺たちを照らしていたかと思うと、やや急速に長崎の街へと降りそそぐ。

 夕焼けの明かりがすべてを橙色だいだいいろに染めてしまう。


「わあ」


 田中ちゃんが感極まるような声を上げた。

 俺もまた意外な光景のお出ましに目を細めてしまう。


「やあ、これは……本当に絶景だな」

「うん、綺麗──」


 そして田中ちゃんは俺へと向き直る。


「ちょっとだけ、佐藤さんの言いたいことがわかった気がする」

「どんな?」

「長いことずっと住んでるけどさ、この街がこんなにも綺麗な街だとは思わなかったよ。旅に出ていればこんな景色を目の当たりにすることもあるんだね」


 そう言って、彼女は笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る