第23話 自転車に乗れた日① 【改稿済み】

 ガレージを出る際にはまだパラパラと厄介なり具合だった雨足あまあしも、すでに小雨こさめをとおり越してしまい、現在では傘がなくとも歩けるぐらいになっていた。

 

「あと少しもすれば、夕日が見えるかもな」


 誰にともなくつぶやいて空を見ると、徐々に明るくなっていく。すでに正午は過ぎ去って、もう少しすれば夕刻といえる時間だ。だというのに今更いまさら明るくなるということは、それだけ昼間の暗雲あんうんが分厚かったということである。それが晴れていくさまというのは、理由もなく心も晴れていく気がした。

 視線を平行へと戻すと、目前には一本道がある。

 俺たちは今、道路の上にいた。

 山上の家を出て、峰を登るようにさらに標高の高い場所へと、そうしてようやく辿り着いた一直線のコンクリートロード。峰々を繋ぐ、稜線りょうせんに沿って造られたそれは、覗き込む角度いかんによっては天空の道だとたたえてもいいのではないだろうか。ドローンでも飛ばして上空写真を撮ってみたい。そのように思わされるところだった。

 ふと横へと顔を向ける。

 

「すごいな。街が一望できるし、海まで見えるぞ──」


 遠くには湾岸があり、その手前には長崎の街が広がっている。

 まさか傾斜けいしゃのゆるい坂道へと連れて行けと伝えたならば、こんな秘蔵ひぞうの場所まで連れられるとは思いもしなかった。そのように隣にいる田中ちゃんへと感嘆の気持ちを伝える。すると彼女はこともないように答えた。


「確かに景色はいいけど、それだけだよ。観光客用にもっと画角がかくの良い展望台なんて他にもあるし……普段は誰もこんな場所まできたりしないよ」

「だからこそ、誰も知らない穴場あなばの味があるじゃないか。ちょっと来るのが手間てまだったけどな」

「本当にそんな自転車をかついで来ちゃうんだから、佐藤さんのその行動力のほうが、私にはすごいと思えるけどね」


 そう言い合いながら、二人して俺の肩に掲げられている物体を見る。簡易に分解バラして専用の輪行袋りんこうぶくろに入れられたモノがそこにあった。

 俺が修理をほどこした自転車である。

 それをそのまま持ち出してきたのだ。

 確かに彼女が言うように、山道を自転車一台を担いでやってきた労力は半端なモノではなかった。思い返すと少々ゲンナリとする。もう二度とはしたくないと思うので、田中ちゃんには今日中に免許皆伝めんきょかいでんしてもらいたい。

 そのようにして、俺は心を鬼へと変えた。


「それじゃあ、ここからは地獄の一丁目だ。厳しくいくから覚悟するように」

「はーい」


 俺の宣言に、間伸びした声が返ってくる。

 何をするのかといえば、自転車の乗車訓練である。

 自転車に乗ったことがないという彼女に対して、その運転方法を指導するため、俺たち二人はこのような場所までやってきたのだ。


 自転車を組み立て直すと、まずは一度、お手本を見せることになる。

 俺は自転車に乗るとスイっと車体を進ませた。なんのことはない、サドルにまたがってペダルをいだだけである。ゆるやかな坂道を下ったので平地を走るよりも楽なくらいだった。十数メートルほど進んだのなら、自転車から降りて彼女のもとへと戻る。そして「さ、やってみて」と俺の真似まねをするように申し伝えた。

 田中ちゃんが俺から自転車を受け取って、サドルへと座る。すると彼女は開口一番にはっきりと宣言した。

 

「え、いや。これ無理」

「なんで?」

「怖すぎる」


 何が怖いことがあるのかと疑問に思うが、とうの彼女はただ青い顔をして眼前の一本道を見つめている。片足をしっかりと地面につけてプルプルと震える姿は実に微笑ほほえましかったが、今の俺は鬼である。決して笑顔は見せずに指導に徹する。


「そこはほれ、思い切りよくだ」

「いやいやいやいや。なんでこんな細い車輪に、全体重あずけられるのっ。意味わかんないよっ。ポキっと折れたりしないこれ!?」

「なるほど、怖いのはそこか。そんな心配はしたことなかったな──修理したばっかりだし、そこまで劣化してる箇所かしょなんてなかったよ、大丈夫だから」

「なんかぐらぐらするしっ、こちとらサーカス団のクマじゃないんだよっ」

「似たようなもんじゃない?」

「なんて!?」


 動物の尾っぽのように揺れる、田中ちゃんの結い直した髪を見ていると、つい失言してしまった。すご形相ぎょうそうにらんでくる彼女に苦笑してしまう。

 鬼の指導もなんだかグダグダとし始めてしまった。


「クマが乗っても大丈夫な乗り物なんだから、コグマちゃんが乗ってもびくともしないの」

「コグマっ!?」

「コグマは可愛いでしょうが。ペダルを漕ぐのはまだいいから、両足を離すことだけ考えて、傾斜を使ってバランスをとって──」


 アレコレと口で説明してもどうにも上手くいかなかった。田中ちゃんはコツがつかめないようで、いまだ車体をグラグラとさせている。そこでピンと思いつく。まずは身体に二輪での安定感を覚えさせるのが有効だろう、こけて苦手意識がついても困る。そうなると何事もセオリー通りというものが大事だ。


「ほれ、倒れないように持ってるからさ」


 自転車後方に備えられた荷台をつかんでやる。両手でがっしりと固定すると車体はびくともしないように安定した。その状態のまま両足を離してみろと伝えると、彼女は恐る恐るとだが足を上げた。


「絶対に、絶対に離さないでねっ」

「絶対か──それはどういう意味で?」

「言葉通りの意味だよっ!」

「つまり……どっちだ?」

「どっちとかじゃなぁい!!」


 今はまだ、前に進ませたりはしない。とにかく彼女には二輪だけでバランスをとることだけ覚えてもらう。

 ギャアギャアと騒ぎながらも、練習は順調に進んでいく。


「あっ田中ちゃん、目はつぶるなっ」

「いや佐藤さん、何言ってるの。ちゃんと開けてるよ」

「うっすら半目はんめは開けてるとは言わないからっ! 危ないからっ!」


 順調に進んでいく。

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