第18話 長崎は今日も雨だった【改稿済み】

 ざあざあと降りそそぐ雨の音は、まるで屋根を叩きつけて穴を開けようとしているみたいだった。こっちの方言に言い換えると『穴がほげそう』だ。いつだったか、田中ちゃんが聞き慣れぬ言葉を使ったものだから意味を教えてもらったのだ。

 そうは言っても、本当に穴はほげない。

 そんな不安が生じてしまうほどの強い雨が降っているだけだ。

 天気予報によれば、午後からは次第に空模様は回復していくという。しかし、まだまだ雨脚あまあしは強く、外を出歩くには不自由しそうな状態であった。

 そんな天候の下、俺は田中家のガレージ内にて作業に勤しむ。

 目前には古ぼけた一台の自転車があった。

 

 その自転車は長い間放置していた結果か、相当なすすけぶりだった。なのでまずは、汚れやさびなどをきあげる。専用の洗剤があれば楽だが見当たりはしなかったので、色々と家庭内にあるもので代用した。

 洗剤をフキンに染み込ませて、自転車のフレームをぬぐう。

 こびりついた汚れは思いのほか厄介で、丹念に落としていくとなると相応の時間がかかった。よって鼻歌なんてものをしながら、ご気楽に作業をする。状況から、思い浮かぶ選曲は一つだけしかなかった。


「長崎は今日も雨だった〜」

「佐藤さん、怒るよ」

「なんで!?」


 突然に声をかけられて、反射的に振り向いてしまう。

 開け放していたガレージの入り口に誰かがいたが、雨ガッパを深くかぶっていて判別がつかない。雨でずぶ濡れになった身体からしずくがポタポタと垂れるだけだ。しかしふと、雨ガッパのフードからこぼれ出た一房ひとふさの髪に気づく。その黒髪はどこか、水に濡れてしょんぼりとしぼんでしまった動物の尾っぽを連想させる。

 田中ちゃんの姿がそこにあった。


「あれ、どうしたの?」

「別に。暇だったから」


 今日は観光案内は休みだと伝えていたので会うことはないと思っていたが、遊びにきたのだと彼女は言う。


 ──これは何かあったかな?

 そんな推察をする。


 田中ちゃんの口調は快活な彼女にしては、随分と落ち込んだものであった。全身ずぶれになっている不快を差し引いたとしても、そうだろう。

 少しだけ、気を引き締める。

 彼女もまた悩み多き若年じゃくねんで、高校生だ。

 はたから見るとほんの些細ささいな、けれど本人にとっては重大な悩みに、直面する機会なぞあってあまりあるはずだった。


「とにかく、そのままじゃ風邪をひくから」

「うん」


 土砂降りの豪雨が相手では雨ガッパも十分とは言えず、田中ちゃんの衣服は濡れていた。見るに見かねて母家おもやへと誘導すると、彼女はそそくさと風呂場へと向かっていく。

 俺はというと、女性の風呂上がりをジッと待つというのも居心いごころが悪いため、ガレージへと戻ることにした。その前に、台所を借りてホットミルクを一杯用意すると、さりげなくダイニングテーブルの上に置く。我ながら小粋こいきな気遣いができたと満足して雨中の庭をゆくが、途中で気づく。書き置きの一つでもしておかないと、何のための一杯なのか分からない。風呂上がりの田中ちゃんが謎のホットミルクの存在にいぶかしむ様子を想像すると、少しだけ笑えた。


 ガレージへと戻ると、再び自転車修理へと手をつける。すでに汚れは拭き終わり、続いてチェーンの弛み具合を確認する。随分とヨレヨレになっていたが、なんとか部品交換が必要な事態にまでは至っていない。工具を駆使してチェーンを引き締める作業を続けていると、母家より田中ちゃんが戻ってくる。


「何してるの?」

「自転車の修理」


 風呂上がりの彼女は、随分とラフな格好をしていた。きっと普段着なのだろう。これまでは、動きやすそうながらも仕立ての良い、人に見られることを意識した服装をしていた彼女である。ここまで気を許した格好を見るのは初めてだった。また、風呂上がりの髪はしんなりとしており、いっそトレードマークのように感じていた結い髪もほどいている。

 ほのかな石鹸せっけんの香りもした。

 そんな彼女の様子に、いつもの『可愛い』を感じることができず、不覚にも女性の色香いろかというものを感じ取ってしまう。そうなると、これまで意識していなかった様々な罪悪感が湧いて出てきた。

 これはいかんと誤魔化すように、俺は自転車へとジッと視線を固定する。そして自然体を必死に心掛けて、彼女との会話を続けた。


「使えるようになれば、みんなが便利かなって思ってさ」

「ふーん、でも自転車なんて誰も乗れないよ」

「へ?」


 田中ちゃんの言葉に頓狂とんきょうな言葉を返してしまう。

 すると彼女は、グイと俺に一つのモノを突きつけてきた。それはホカホカと湯気ゆげたつホットミルクであった。「はい、お返し。なにも言わずに置いてあるから何事かと思ったよ」と言う彼女に「ありがとう」と礼を言う。ホットミルクを手渡すと、彼女はガレージにあった適当な荷箱にばこの上に座る。そして自らのカップへと口をつけて、先ほどの台詞せりふに言葉を足してきた。


「おじいちゃんくらいかな、ちゃんと運転できるのは、あとは誰も乗れないよ。私にいたっては生まれてこのかた、またがったことすらない」

「自転車なのに?」

「まあ……よその人からすると変な感じなんだろうけどさ」


 田中ちゃんから説明を受ける。

 長崎という土地は坂が多く、そのせいあってか、自転車を乗りこなすことができない人間が多数存在するのだという。俺としては、そんなバナナと思ったりもしたが「この家から平地に向かうまでを思い出してみてよ」と言われて気がついた。

 ここから平地に向かおうとすると、道中は長い石段である。自転車が通るには適さない。いつか見たゴミ収集の光景と同じだ、車輪付きなんて危なくて乗れたものではない。もちろん、自家用車じかようしゃが通れるような舗装ほそうされた道もあるにはあるが、こちらは迂回路うかいろだった。峠道とうげみちをゆくように蛇行して下界まで降りていくことになり、自転車で行くとなると距離がある。そしてさらに言うなれば、行きはくだりだが帰りはのぼりだ。峠道を自転車で立ち漕ぎし続けるぐらいなら、徒歩で石段を登った方が楽だし、なにより早い。


「なるほどね」

「その自転車もね、おじいちゃんがしばらく使っていてパンクしてからは物置に放置してるんだよ。そんでちょっと前くらいに何を思ったのか、自力で直そうとガレージまで引っぱり出してきてさ。工具までそろえたみたいだけれど、上手く出来ずにまた放置。おばあちゃんが怒ってたね」

「それもまあ、なるほど」

「男の人の趣味はわかんないや」


 不思議そうに言う田中ちゃんに「そう言ってくれるな」と、何故か俺が言い訳する。男の趣味なんてそんなものだ。そして、改めてこの自転車を修理する意義はあるかと疑問に思うが、壊れているモノを修理することは無意味むいみな行為ではないだろう。

 気を取り直して、今度はタイヤのパンク修理を始める。

 こちらはタイヤのゴムが完全に劣化していたため交換が必要だった。俺はガーレージ内に買い置きしてあった替えのタイヤとゴムチューブを見つけて、それを付け替える作業へと入る。


 しばらくは無言むごんの時が過ぎた。

 俺は作業に没頭していたし、田中ちゃんもそんな俺をジッと見つめるだけで言葉をかけることはなかった。カチャカチャと工具がる音と、ざあざあという雨の音だけが響いている。午後にはあがるはずだった雨も、いまだ回復のきざしは見えない。


「佐藤さん、あのさ」

「なに?」


 そんな中で、不意に田中ちゃんが話しかけてくる。

 俺は彼女の方を向かずに答えた。


「佐藤さんはさ……旅をいっぱい、いっぱいしてきたんだよね」

「ああ、そうだな」

「いろんなところを見てきたんだよね」

「まあ、そうだな」


 彼女はそこでいったん言葉にあいだをとる。

 そして踏ん切りをつけるように口を開いた。


「『外』の世界ってやっぱり楽しいの?」


 その声は、うるさい雨の音にかき消されそうなほど細い響きであった。

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