自転車に乗れた日──長崎にて

第8話 坂の上、坂の街(長崎の少女視点)【改稿済み】

 私にとって、自転車に乗る人物というのはフィクションだ。

 いや、嘘ついた。


 いくら坂の街、長崎だって、自転車に乗れる人ぐらいいる。

 ただ圧倒的にその数は少ない。

 いつか流行した青春映画をてみると、学生服を着た男女が和気藹々わきあいあいと自転車をいでいる。でもそれはスクリーンの中での出来事だ。親近感なんてわきやしない。だって私が通う学校の生徒なんて、ほぼ全員が自転車なんて持っていないんだから。

 全部、全部、物語の中での話。

 だからこそ自分にはえんのないことなのだと、その日までは思っていた。まさか自分が誰かと一緒に、自転車に乗るための訓練をするなんて、そんな映画の中の演者になる日がくるとは夢にも思わなかった。


 自転車に乗れた日を覚えている人は、世の中にどれぐらいいるのだろう。

 意外と感動して記憶しているかもしれない。

 いつの間にかに乗れていたからとかえりみないのかもしれない。

 そんなふうに、人それぞれに違いない。


 ただ私にとっては、一生忘れることができない、かけがえのない一時いっときになった。

 これから先いつだって今日を思い出しては涙する。

 もしくは懐かしんで微笑わらえる日がくるのかもしれない、けれどそれはずっと先のことだろう。

 


 夕暮れどきの坂の上、坂の街。


 それを超えた向こうには赤焼けを反射した海面がきらめいていた。そんな大面積からの光がぼんやりと広く暖かく、坂の街と、私たちを照らしていた。

 意気込んだ私は、緩やかな坂道を自転車でくだり、ブレーキを踏む。

 そしてすぐさま、振り向いた。


 遠くから、かけてくる人がいる。

 彼は嬉しそうに、やったな、と言った。

 私は照れ臭くて、当然でしょう、と可愛くない口を叩いた。

 彼は、違いない、と苦笑する。


 ポカポカしていた。

 きっと夕暮れの光が私を暖めているからだ。

 彼の瞳が赤焼けをうつして、オレンジ色に輝いていた。


 彼が、帰ろうか、と言った。

 私は、うん、と頷いた。


 彼は旅人で、異邦人だ。

 いつかは帰るべき場所に行ってしまうことは、最初からわかっていたことだ。だから私が無茶なことを言って彼を困らせるなんて、できるはずがなかった。


 私はついぞ、彼に言うことができなかった。

 それが良かったのか悪かったのか、答えは出ない。


 ただずっと、この坂の上にいたいと。


 そんな一言ひとことすら口にすることができなかった。

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