第4話 ただ消えてなくなるように──(彼女視点)

 私が彼、佐藤くんの好きなところをあげるとすると、何よりその『眼』だ。

 古い馴染みの間では「死んだ魚の目」みたいだと揶揄からかわれたりする彼だが、そんなことはない。それどころか、普段から感情の起伏の少ない彼が唯一雄弁に自分を表現してくれるチャーミングポイントだと思っている。

 嬉しいことがあるとキラキラとまるで少年のように眼を大きく見開く、落ち込んだりすると元より精彩を欠いた瞳をさらに濁らせて、まるで沼地のようになる。


 いつもいつも彼の瞳を見つめていた。

 だから分かる。

 本気で怒っていないのだ。


 今だって、繰り返される鈴木くんの謝罪をことのないように「うん、わかった」と受けている。決して邪険にはせず、かといって「もう謝るな」とも言わない。ただ了承したと、穏やかな眼で応えるだけ。

 理由は簡単だ。

 そうすれば鈴木くんの気を紛らわすことができるからだ。

 現在、同じような立ち位置にいるからこそ、分かる。

 繰り返し繰り返し、私も頭を下げることができればどんなに楽だろうか、彼が「うん、わかった」と頷いてくれるだけで、どれほどに救われたような気持ちになってしまうのだろうか。

 そんな彼の意図に気づいてしまった、だからこそ謝れない。

 安易に楽な方向に行こうとする自分こそが、許せなくて情けない。


 そんな優しい彼のことが、大好きだった。

 そしてそんな彼だからこそ、とても不安だった。


 私は彼が好きだ。それももう、どうにかなってしまうのではないのだろうかと悩んだことがあるぐらいに好きだ。彼が片時でも傍にいないと寂しくなってしまう。彼が誰か他の人と楽しそうにしていると嫉妬してしまう。本当にダメになってしまったと思い知らされるほどだった。

 ──でも彼の方は、そうでもないのかもしれない。

 ふとある日、そんなことを思ってしまったのだ。


 彼はとても穏やかな気質だった。

 それは彼女である私に対しても同様だった。

 私は彼じゃないといけないと思っているのに、彼は私ほどの気持ちは持っていないのかもしれない。彼にとって私は『特別』でもなんでもなく『普通』の彼女。そんな不安がつきまとった。例えば私が他の男になびいてしまったとしたら、彼は嫉妬してくれるだろうか、叱ってくれるだろうか。

 思ってはいけないと考えつつも、そんな妄想を止めることができなくなった。


 そんなときだ。ふとしたキッカケを元に、鈴木くんとそんな雰囲気になってしまった。

 もちろん抵抗した。

 しかし、相手は男の人だ。ただ拒絶するだけではどんな結果になるか分からない。穏便に説得する必要がある。そのためにと、私は相手の眼を見た、見てしまったのだ。

 ──私と一緒だ。

 鈴木くんの眼は、何よりも親近感のある瞳だった。

 ただ目の前の人物が、欲しくて欲しくてたまらない。

 そんな情欲の眼をしていた。

 私はうまくいなせる言葉を失ってしまった。

 このとき私は、自らが自らの身体に対して無頓着な人間であると知った。意外だったが、割と平気だった。減るもんじゃなし、もうどうにでもなれ。そう思った。

 冷静になった今なら思う、馬鹿だ。

 私が私を大事に思わないとしても、私を大事に思ってくれている人のことを都合よく忘れていたのだから。

 

 彼が帰ってきたのはそんなタイミングだった。

 絶望という感情がどんな形をしているのか、このとき初めて知った。

 何もかも真っ白になってしまった頭の中で、私は一つの考えにだけすがった。ああ、彼に叱ってもらえる。

 私は彼に執着してほしかった。私は彼に愛されていたのだと実感したかった。

 そして彼は言う。


「俺はお前たちのことを許したいと思っている」


 カチャリと、私の中でなにか壊れる音が聞こえた気がした。

 気がつくと、私は口を開いていた。

 思っていること、思っていなかったこと、建前、本音、妄想、現実、彼の好きなとこ、彼の嫌いなとこ。

 酷いことをいっぱい言った。

 信じられるだろうか、不貞をした私の方が彼をなじったのだ。

 そんなつもりはなかったと、今更に言い訳をして何になる。

 終わった。

 もう全てが終わってしまった。

 だから口を開きたくなかった。

 彼の優しさに甘えたくはなかった。


 今はただ死にたい。

 死にたい死にたい、ただ消えてなくなるように、死にたい。


 彼は黙って私の言葉を聞いていた。

 きっと返される言葉は、拒絶だろう。

 彼に、もうどうしようもない女だと思われた。

 その事実だけで、舌を噛み切ってしまいたいと思える。

 けど痛そうだから、中途半端に失敗するだろう。

 服用できる毒薬みたいなものだったら飲んでいた。

 よく悲劇の小説などで、追い詰められた登場人物が自死を選ぶ理由が、よく分かった。

 カタカタと震える身体を抑えつつ、聞きたくもない彼の断罪の言葉を待つ。

 すると彼が口を開いた。


「高橋、俺はな──」

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