何処で
依田青
翌日準備室で試験の採点をしているとまた控えめなノックがなった。返事をすればやはり静かに扉が開き、その向こうからは内海が顔を覗かせた。
「あの、今日の試験。分からないところがあって…」
手探りで言葉を繋ぐように言った。
机の上に広げていた試験を片付け壁に立てかけてあったパイプ椅子をガタンと置く。手で座面を指すと内海は素直に座った。
最後の記述問題が解けなかったと言う。 ついさっきまで採点していた解答用紙では正解していたと思うけど…、わざわざ質問しに来てくれることに悪い気はしない。
「それでここ…。これ、公式使おうとしたらできなくて、」
「あぁ。それは…」
明確な疑問点と簡潔な質問が繰り返された。少しだけ助言をしたら後は自分で考える。頭から湯気が出そうになっても、どれだけ時間がかかっても。それが一番の近道だと自覚しているようだ。
今頃他の生徒は下校して遊びに出ているだろうに。
「内海は偉いなぁ。試験後くらいはサボっても良くないか?」
前のめりになって問題を解く横顔を見ながら頬杖をついた。茶化すように言うと内海はキョトンと顔を上げてから小首を傾げはにかんだ。
「先生がそんなこと言っていいんですか?」
あはは、と楽しそう。狐のようにきゅうっと目を細めた。
内海がこんな風に笑うところ、初めて見た。
黙ってたら大人びて見えるが案外年相応の可愛い笑顔。
その笑顔をじっと見つめた。空を見上げるみたく、でも穴が開く程。 じわりと安心感で充ちた。
彼はいつも、どこか寂しそうな顔してたから。
しばらく笑い、俺が何も言わないでいるのに気づいたのかこちらを見上げ目が合うと内海はバッと慌てて目を逸らした。俺もノートに視線を戻す。
「ここって…」
内海は徐ろに立ち上がった。目を逸らした先にある窓の方へと引き寄せられるように行く。
「凄い…。ここから全部見えるんだ」
窓の縁に手をついて見つめる先にはあの花壇があった。内海は驚いたような納得したような息を吐きながら呟いた。
「俺がリクエストしたんだ。何も植えるものがないなら青い花でいっぱいにしてくれって」
「依田先生が、ですか?」
俺も真似して縁に手をついた。柔い風が頬をくすぐる。
「うん。昔から好きなんだ。綺麗だろう」
「…はい」
内海はじっと花壇から目を離さなかった。俺がどれだけ目を見ても今度は振り返らない。
いつもの不安が混じった寂しい顔とはまた違う、何かを諦めたような憂いを帯びた顔で花だけを見ていた。
昨日のことを思い出す。
あの花壇があるのは裏庭。校門とは反対にあってわざわざ回り込まないといけない。 普段生徒が通ることはないしあそこで内海を見たのも初めてだった。どうして彼は、
「俺も、好きです」
昨日と同じように内海が振り向き、ゆっくりと顔を上げた。硝子玉のように純粋な視線が刺さった。 今日は色んな表情を見せてくれる。
花が好きなのか…。少し意外だな。
「じゃあ花が見たくなったら来ると良い。ここからが一番綺麗に見える。特等席だよ」
「良いんですか!?毎日来ます!あえっと、毎日は。迷惑なので…たっ、たまに。すみません…」
パァッと晴れやかな顔をした。クリスマスの朝を迎えた幼い子供のように無邪気に目を輝かせる。俺の言葉に被さる勢いで言った直後、我に帰ってまたいつものように口ごもってしまったけど。
純粋なその姿があまりにも可愛らしくてははっと大きな声で笑ってしまった。俺の笑い声に内海が余計申し訳なさそうにする。
「いつ来てくれても大丈夫だよ。毎日でも、俺がいない時でも。好きにして」
「あ…ありがとうございます。その。嬉しい、です」
内海は耳を真っ赤にして俯きながら声を震わせた。俺の返事は待たずまた花壇の方に向き直る。 狭い窓枠は男二人には狭く内海の体温や鼓動が近くに感じた。
彼が無邪気に笑う度、この部屋の温度が春から夏に近づいた気がする。
.
翌日また控えめなノックを聞いた。
はい、と返事をすればカラカラと扉が動き奥から内海が顔を覗かせる。
「失礼します。あの…」
「…あぁ、気にせず入って」
本当に来るとは思わなかった。
俺の斜め後ろ、裏庭がよく見えるところに椅子を置くと内海はちょこんと座った。座って、じっと花を見つめる。静かすぎていなくなったかと思うくらい。
何も言わないでいるのが少し不思議で何度か内海の方を振り向くと五度目くらいでやっと気がついた。
「あの、すみません…。いないと思って。仕事、しててください。あ、というか邪魔ですよね。すみません。やっぱ帰ります」
途中から急に早口になった。
逃げるように急いで立ち上がり荷物を持つ腕を掴んだ。 衝動のまま腕を引けばぐるりと内海がこちらを振り向く。手を離れバランスを崩した鞄がパタンと倒れた。
長い睫毛。丸い鼻先。いつ見ても綺麗な顔立ちは芸能人みたいだ。
「せ、先生。依田先生。い、痛い、です…」
「えっ?あ、ごめん。つい」
内海の声にバッと手を離す。自分でも気づかないうちに強く握りすぎていたようだ。内海の腕に薄ら赤い跡が残った。
つい、ってなんだ。つい生徒の腕を跡がつくくらい強く掴んで引き止める教師がいるか。
「邪魔じゃないし迷惑なんて思ってない」
手首を擦る手を取る。きゅっと握った手の中で内海の指が小さく跳ねた。
「ずっとここにいて」
あんなに没入するくらい花が好きだとは思わなかったし、何より嫌われてると思ってたからここに来てくれたことや俺と2人でも逃げないのが嬉しかった。
だから気が済むまでここにいてくれたら良い、と思ったんだけど…。
「か、からかわないでくださいっ!!」
バッと手を振り払われた。内海が慌ただしく鞄を取り胸の前で抱える。
そのままバタバタと準備室から出て行ってしまった。また耳を真っ赤にして。
からかうなって、俺なんか変なこと言ったかな。髪をガシガシと掻いて考えてみて…
「あっ!!?」
勢いよく立ち上がりガタン!と椅子が後ろに倒れる。全部口に出してるつもりで色々言葉を抜かしてた…。
そうと気づけばすぐに、手を振りほどいて逃げた内海の顔が思い出される。
せめてそのままスルーしてくれたら…そうだ。なんであんな反応を。友達といる時の内海ならいきなりプロポーズかと笑い飛ばすくらいできたはず。
今思うと俺と話す時真っ赤とは言わずともいつも…。
「いやいやそんな、って うわ!!」
椅子が倒れてることも忘れ座ろうとして後ろによろける。思いっきり尻もちをつき一人で恥ずかしくなって頭を抱えながらため息をつく。
俺ももう良い歳した大人だ。全く気づかないわけじゃないが、まさか。と思いたい。
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