磁石 後編
一
朝霧の薄暗い、雀すら鳴かない晩秋。いつもより不気味に見える二階の自室。
ナナメは足先の寒さで目が覚める。節々に感じる不意の痛みを伴いながら上体を起こした。
着崩れを少し直しながら冷めきった身体を撫で温める。
さてナナメは、ほつれ気味の糸でゆっくりと記憶を手繰り寄せる。しかしどうにも自室にいた記憶はない。忌まわしくも外の居間で事が起こったはずだ。
「起きたか」
聞き馴染んだこの声は、ナナメを我が子のように育ててくれた医師だった。
「私が来た時には、おおよそ片付いていたよ」
水を持ち、のそのそと歩きながらどこか頬がこけている。
短く礼を言うと、喉を潤すために少しずつゆっくり飲んだ。
「どこから話せばいいのやら」
「柾君はどこにいるんだい?」
「ここには居なかったよ。電話を受け取ったときはそれは飛び驚いたよ。急いできたけれども時間はかかった。来た時には誰も居なかったよ」
聞きながらもわかっていた。しかし聞かずにはいられなかった。
「ハロルドさん、彼も階段に座るようにして亡くなられていた。頭からの出血からして無理やり体制を崩されたんだろう。おまえが生きていてよかった」
小さく鼻で笑うと、少しだけ足先を手で押さえ、雪駄の緒に足を添えた。
「まて、どこに行くんだ」
たじろぎつつ、遅れながらも手を肩に置き静止するように言った。
「どこって、柾君のところさ」
「どこにいるかわからないだろう? それよりもおまえの体には負担が、大きな負担がかかっているんだ。見通しも良くないし、ともかくあまり動かないほうがいい」
少し冷たくなった手で肩に乗ったしわがれた手を大切に持った。
「ごめんなさい。今はたとえ継父の言うことでも聞く気にはなれない。でも今から私が言うことを聞いてくれはしないかい?」
そうして三つの事を頼んだ。そしてそれらに渋々縦に振るとナナメを見送った。
「おまえはいつの間にか私ではなく彼に似てしまったようだね」
明るくなりつつある窓の淵に年老いた涙が落ちた。
二
肌寒い冬になろうとしている浅草を何も着ずに小走るナナメは早くも後悔していた。
「ああ、いつもなら、柾君が、羽織の一枚でも、かけてくれるのに」
身体を動かして地の体温を上げる他なかった。
こうも急いでいる
「ええい、かまわん。それでも、最悪を防ぐんだ。今度は、守らなきゃ、いけないだろう」
追いつかない、いや整理の付かない、どっちともつかない思考に喝を入れつつ、向かった先はまだ開けていもいない喫茶店だった。
「おい、開けてくれないか」
そうしながら扉を何度も叩いた。そうすると背後から声をかけられる。
「お嬢さん、そんなに慌てて珈琲をご所望ですか?」
鍵を片手に持った紳士といった体の男が煙草を吸いながらそう問いかけた。
「ああ、とびきり上等な珈琲と聞いてね」
「それで、珈琲なわけないでしょう? 朝のこんな時間から、美人が独りってねえ」
そういいながらも珈琲を淹れて出してくれた。さらに少し
「話が早くて助かるね。この店に美形の青年が、女性と一緒に居なかったかい? それらが話していたことを聞きたくてね」
「ほう? 男女の……それも美形のねえ。確かに最近、馴染みの顔になってきたお客さんがいるねえ。お金と時間が割に合わないお客がね」
「でも花にはなったろう?」
大きく笑いながらもう一本煙草を吸いつつ、参ったというように、仕込みをし始める。
「確か出版社の嬢ちゃんと小説家の兄ちゃんだったな。話の内容も、その花がいてくれたおかげで賑わった分聞こえずらかったから、確かなことは言えないが、‘月の輪’っていう名前の出版社だったな。場所は確かここから駅を三つほど行ったところだったかな」
「恩に着るよ。二つの意味で」
そういいながらナナメは羽織と共に駆け出して行った。
煙草の吸殻を落としながら、店主は口に含んだ煙を一息で吐ききるとまた独り言を呟いた。
「こうなるんだったら、あの時に店員募集しておけばよかったな」
首を横に振りながら仕込みを再開した。
ナナメは駅を渡ってすぐに見えた異質な出版社の扉を開けていた。
もう霧も晴れて、朝の散歩をする人間も出始める頃だった。
「すまないねェ、扉が不用心に開いていたものだから勝手に失礼するよ」
そうすると奥に座っていた小太りの男が訝しみながらナナメのところへやってくる。
「君、なんなんだい。事件でもおきたのかい?」
男はナナメの前まで来ると下から上へと身体を弄り眺めて頬を緩めていた。
「ふん、まあいい。ここに柾という人物が来たと思うんだが?」
「なんだ。そんな男は知らん」
「馬鹿かィ? 誰が男と言ったんだ。はぐらかしてないでさっさと言いたまえ時間の無駄だ」
顔を真っ赤にしながら少し突き飛ばして席に戻る。
「知らん知らん! そいつのせいでうちの社員がやめてしまったんだ」
「それは誰だィ?」
「
一礼をして再び走り出す。隣町の一等地はともかくとしてお嬢様ならわかるだろう。
「これが将棋なら飛車角落ちってところかねェ。舐められたものだよ」
そういいながらある場所へ向かった。
「ちょっと何しに来たのよ」
新設の警察署裏手で二名はさながら密談をしていた。
「いやねェ、こんなところに来るまでもない話だったんだが」
「馬鹿! だからって『女性の警官はどこだ』なんて聞きながら歩き回ったら怪しいわよ!」
「その方が早かったんだ、すまない」
元配達員、改め男装警察官はため息交じりに話を切り替える。
「で、何の用なの? いつもの用心棒さんはどうしたのかしら?」
「その用心棒が危機的状況かもしれないから、しょうがなく私が動いて居場所を突き止めたいんだ。その協力を、と思ってね」
「世話無いわね。で、何か当てはあるの?」
「『一等地に住むお嬢様』を探している。この辺りにある一等地で小牧という苗字の家を知らないかィ?」
「それならここを真っすぐ行ったところにある住宅街で一番大きい家よ。見たらわかるわ」
「ありがとう、恩に着るよ」
そうしてまた歩みを始めようとすると思い出したかのように振り返る。
「ああ、そうそう。ちなみに今後、君宛にとある人物から電報が届くがしたがってやってくれ。あれは私からのお願いでもある。お互い野暮は無しだ。来世では良い関係になっていることを心の底から願うよ」
「死ぬつもり?」
「なァに最悪の場合だ。私の頭を信じてくないのかい?」
ニヤリと笑うと走ってしまう。
「こうなるんだったら、無理やり奪っちゃえばよかったわ。……それにしても結局私の名前、呼んでくれなかったな」
そういいながら帽子をキッと整えて警察署に戻っていった。
大きな屋敷というべき家には仰々しく‘小牧’と書かれた表札がかけられていた。
「日本家屋かい? てっきり柾君のような洋館だと思ったが」
そういいながら
が、当然のごとく庭師に止められる。
「あの……どちら様でしょうか?」
「私は付き合ってきた人を寝取られかけた、ただの女だよ。この屋敷にいると聞いてひとつ殴っておこうと思ってね。まあいい、門にはちゃんと鍵をかけておくことをお勧めする。この辺りに強姦がうろついているらしい。今日は私だったが、もしかしたら今君は白昼堂々と犯されているかもしれないよ。首を絞められて声が出せない様にしながらね」
そういいながら侍女の目を、口元を見ながら首を撫でた。
何か納得したナナメはさっさと踵を返した。
「鍵が開いていたから万一と思ったが所詮万一の事だったか。知らなさそうなら柾の実家に行くしかない。まだ残っていればいいのだが。ここから近いのが救いか」
時間がないと言いたげに足を速めた。
三 芒の草刈り
栄えた綺麗な屋敷は、たった数ヶ月の間に廃れ、今や芒を刈る力もないほどだった。
冷たい風は昼の熱気を帯び、芒の穂を揺らしていた。
そんなくたびれた屋敷を老いた人間が箒で石畳に乗った石ころを掃いていた。
「おや、あなたはいつぞやの」
「ステファンさんといったかな。ごきげんよう。話の通づる相手がいてよかった。不躾に失礼するが、レオナルドはどこに?」
「レオナルドさんですか。一家離散した後、帰国したとかしていないとか。私はただの使用人ですので。ああ、でもまだいるとも言っていたような。ええと……」
ナナメはボロボロの服の上から自身の羽織っていた喫茶店の布を老体に掛けた。
「おお、ありがとうございます。流石、雅姫様のご友人でありますな。私の予想通り、荒れてしまった。日本には‘盛者必衰’という言葉があるんですよね。まさしくその通りです。そういえば今、雅姫様はお元気ですか?」
「ええ、元気です。それはもう口の減りは留まることを知らない程に」
老人の口が大きく開き、高らかに笑う。
「それはそれは、いやあ久しく笑った気がします。お! 思い出しましたぞ、レオナルドさんはあの後、港にある旅館に泊まっているとお聞きしました」
「そうですか、ありがとうございます。お体に気を付けて」
「どうも」
ナナメは近くの港を目指し走った。
「王手は近いよォ。はやらないで、待つんだ柾君。急がなければ!」
港にある小奇麗な旅館。有数の旅館だったためすぐに分かった。
「柾君なら、いや私なら」
正面入り口は避け、庭から入り可能な限り窓から入れそうなところを探した。
そして階段を上がって掃除人の男に話を伺った。
「ごきげんよう。この旅館に外国人が泊まっているとお聞きして」
「ええっと、あなたはどちらさまで?」
「見たらわかるだろう……聞くのは野暮というやつだよ」
いじらしく、体を少しよじりながら含みを持たせる。顔を赤らめて指で示す。
「そこの部屋です。今は寝ているので静かにしてほしいとの事でした」
「ありがとう。そういえば下で床に土がついてる箇所があったから綺麗にしておくといい」
「あ、ありがとうございます。すぐに綺麗にしておきます! その、後でお時間あったらご一緒に夕食いかがですか?」
その問いには答えずとも微笑んで返した。そのまま指された扉へと向かった。
四 二人で
柾は二階の扉を開けた。三回扉を叩き、雅姫の声で扉の奥に呼びかける。
「レオナルドさん。来ました」
扉は無言で音を鳴らし、開いた。
「まずは入れ。鍵は閉めろ」
そうして柾は黙って入った。懐に忍ばせたナイフを隠しながら。
バスローブ姿のレオナルドは目をぎらつかせながらも窓の外を眺めていた。
「手紙を見たか」
「ええ」
そういいながらゆっくりと背後に近づく。ナイフを取り出す。
「俺を殺しに来たんだろ? 女だったら、……ナイフで一刺しか?」
柾の腕がぴたりと止まる。
「安心しろ、そのナイフは確実に俺に当たる」
そういいながら堂々と振り返る。ナイフに臆せず近づいてくる。
「男になった気でいるなら俺が‘教え直して’やるよ」
手に持ったナイフを一瞬で弾き飛ばして首から床に抑え込む。
「な? 元軍人だ、俺は。残念だったな。お前は女だし、男だったとしても俺には勝てない。さっきも言ったが俺は死ぬ。ここでな。俺の家はお前のお家と共倒れしたんだ。帰国しても居場所は無い。お前をたっぷり、昼間から犯してやる」
そういいながら柾の着ていた洋服を引っぺがした。
巻いていた
「ほお、昨日犯したアイツより揉み甲斐が
身じろぎ悶える柾は力いっぱい抵抗する。が、何かが起こることはない。
「そうだ、俺はまだ寝ていることになっているから、静かにな。この小さい口から出る甲高い声とか、ぴちゃぴちゃ言う水音とか、出されちゃ困るんだよ」
そういいながら舌を出してねじ込んでくる。片手は両腕を抑え、片手は脚を撫でまわす。
絶え間なく、鋭い目尻から勝手に涙が流れていく。耳元で息が小刻みに吹きかかる。
「あいつとおんなじだ」
はっきりと聞こえるように囁いた。
そして軽々と起き上がらせると壁際に押しやり、股を開かせた。
「さあてと、どうやって食べつくして、いや女にしてやろうか。壊してやる」
そうしてまた舌をねじ込もうとしたところでぴたりと全ての動きが止まる。
後ろを向きながら息を荒くして声を絞る。
「いつの間に……」
背後にはナナメが凛と立っていた。
「君がその火照った身体を冷やすためか知らないが、窓を開け放っていたからだろう。隣から失礼したよ」
ナナメは全身を使ってレオナルドの脇腹に刺さったナイフを抜いた。血が小さく噴き出す。
レオナルドは壊れた人形のように、辛うじて立ったまま、ナナメに向かって歩き出す。
「棒を担ぐなら僕もです」
息切れしながらナイフを拾い上げ、もう一度同じ個所にナイフを刺した。
刺さったナイフを何度か抜こうとして、やがて力なく倒れ伏した。
「ナナメさん、動いて大丈夫なんですか?」
ふっと笑いながら柾の肩を持つ。
「君にそっくりそのまま返すよ。君おかげでね。今はともかく自殺に見せかけようか」
「流石です」
二人は何とか自殺に見せかけるため、あらゆる位置を変えて、柾は英語で遺書を書いた。
「さ、その肩の血は見られたら大変でしょう。肩掛けを」
「ふふ……ありがとう」
二人は窓から隣の空き部屋へ行き、そこから下って受付の目を見計らって出た。
「おっと少し待っていておくれ。」
一階に戻り先ほどの掃除人の男に話しかける。
「いやあ、さっきはありがとうねェ。やはり入れはしなかったよ。何度呼び掛けても応じないから、深く寝ているようだ。また時を見て声をかけてやると良い。ではね」
会釈をし、鼻の下を伸ばしながらそれを見送った。
帰路の太陽は眩しく、朝とは打って変わって清々しい一日かのような昼下がりだった。
「家に帰ったら、まずは汚れを拭わないとねェ」
「今にでも上書きしてほしいくらいです。そういえばよくここと分かりましたね」
「柾君……私を何だと思っているんだい? 将棋は一人ではさせないってことさァ」
ふふっという短い笑いと共に、柾はこのひと時を久しく感じていた。
「ああ、まあそこはいい。ともかく、私が東奔西走してなんとか間に合ったんだ。まったく世話のかかる年下だ。家出に浮気に……」
「ちょ、ちょっと待ってください、浮気は断じてしていません!」
「ふぅん」
ナナメは上目遣いで柾を見た。
「ごめんなさい。でも本当になにもないんです」
「ああ、知ってるさ。すまないね最近ご無沙汰だった意地悪をしてみただけさァ」
「帰ったら珈琲を淹れなければですね!」
「今日はもう一杯飲んだんだけれどね」
「ええ、一体どこの誰に?」
「ふふ、そう不信に焦らなくても、柾君の淹れた珈琲には敵わないさ」
「話は逸れましたが、聞かせてくださいよ。久しぶりに、ここまで来た経緯とその思考を」
ナナメは少し考える素振りをしてから欠伸をした。
「いや、あまりにも泥臭いから、あまり言いたくはないな。さっきも言ったろう? 『東奔西走した』と、そういうことさ。私はね、君が思っているような‘ずば抜けた思考を持った超人’でも‘新手の洋妻’を使うような謎多き女じゃァない。ただの嫉妬に震えたか弱い女さ」
柾は口を手で軽く抑えしばらく笑った。
「か弱い女、ですか。か弱い女があんなことしますかね」
「また季節外れのことを言うのかい?」
「すみません、面白くて」
「そういうなら、柾君もだよ? 少なくとも私たちは大罪を犯した」
「そうですね」
「いずれは、行きつく先に着いてしまうだろうねェ」
しばらく静寂が続いた。二人で手をつないで歩く。ハロルド邸までは少し遠いが、短かった。
「いずれ火に焼かれると分かっていても、ふたつの蛾はふたつのまま遂げます」
つないだ手を締めて、ゆっくりとなった。寒さか、用事かで急く人々と対比していた。
「さあて、まだひとつふたつと仕事がある」
「まだあるんですか?」
「ああ、それだけのことをしたんだ。王手はまださァ。私の詰め方がどういうものか知っているだろう? 間違っても私たちは取られない」
二人はふたたび手を締めた。
「思考の放棄は許されないよ。さあぴったりと付いてきたまえェ」
冬は近い。寒い寒い季節がやってくる。
夏のように熱く、寄り添い歩く二人は、落ち葉を踏み分けて歩いていく。
青天とは対照に、暗い人を殺した罪を背負って生きるのかそれとも。二人の元に、遅れて訪れた青春は季節外れの花を咲かせていた。寒い寒い季節がやってくる。
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