磁石 前編
一
秋の夜長は、独りでいるならばさらに長く感じる。
秋の風鈴、鈴虫の鳴き声はそこはかとなく寂しく聴こえる。
紫式部も耐え難い中秋の名月を背に、煙管を咥えた影は誰も居ない部屋に伸びていた。
火葬場の雰囲気を携えて、ひたすら‘待って’いた。
「ただいま……と、起きていたんですか」
ハロルド邸、二階に行くには階段の軋みと戦わなくてはならない。
不戦敗の柾は、それでも静かに向かったがそれは杞憂だったようだ。
「もちろん起きていたとも」
そういいながら不気味に歩みよるナナメの手には煙管は無く、手を少し前に出して抱擁をしようとする。その姿は妖艶そのものだった。
「どうしたんですか。今日は、甘えん坊ですね」
ナナメはそのまま腰に手を回し首に頭を乗せる。しかしそれはナナメの目論見の内だった。
「——ん、女の匂いだ」
「何か言いました?」
「ああ。『お帰り』とねェ」
「ただいま帰りました。今日も、いち早く帰って会いたかったのですが、遅くなってごめんなさい。また寂しい思いをさせてしまいました」
「そうだとも。帰ってきてくれて嬉しいよ。私は寝るから、キミも早めに寝たまえよ」
そう言ってゆっくりと離れていく。柾にはそれがなぜか冷たく見えた。
「そうですか、おやすみなさい。月がこんなに綺麗ですから、きっといい夢が見れますよ」
ナナメはそのまま扉の奥へと行ってしまった。振り返ることもせず。
「違うんだ。キミは……ちっともわかっちゃいない」
口から出そうな『引き留めて』という言葉は、奥ゆかしさというものに殺されてしまった。
代わりにナナメの脳内で『いい夢』という言葉が生きよく暴れてよく眠れなかった。
翌日、案の定、目と脳の連携は上手く取れていない。夢と言われても、現実と言われても遜色のない光景がナナメの前に広がっていた。
騒がしい音で目が覚める。柾と、それの書いた原稿を書籍化するための編集者の会話だ。
ナナメはもう一度横になった。額ににじんだ汗だけが時間の経過を知らせてくれるのだった。
嫌でも会話が聞こえてくる。今のような時ほど、壁の薄さを恨むことはない。
『——それではこの部分を訂正して、この部分を前に持ってくれば……』
『——なるほど、確かにそういう風にすれば僕の伝えたいことがよく伝わります。さすが編集の達人。素晴らしい』
『——いえいえ、それほどでは……あなたの書く本が、より多くの目に留まるためなら』
ナナメはため息を吐く。取り留めのない普通の会話も不思議とロミオとジュリエットのような劇的な会話に聞こえてしまう。まさに悲劇だった。
「末期だ」
甘ったるく呆けた緩やかな日差しに向かって吐き捨てる。そしてまたため息を吐く。
連日の、それもこの場所内外での会合で、この部屋にはナナメの息がより多く滞留していた。
しばらくしてから平静を装い、さも今起きた寝坊助のように振る舞いながら滑稽に柾の前にあらわれる。これも連日の筋書き通りであり、それをこなす
「おはよう、柾君。いつものをくれないかィ?」
「えっと、それは珈琲ですか?」
「さァ、どうだろうね……と、ああそうだよ」
依然した話を持ち出し、その時のようにあえて‘肯定したこと’がわかるように言う。
察する柾はナナメに近寄り、頭を撫でながらじっくりと様子を伺う。
「嘘はいけません。そんな寂しそうなこの口は、塞いでしまいましょうか」
目を薄く閉じた柾は、いつものようにしようとするもナナメに口を手で防がれてしまう。
「せめて、水を一杯くれないかィ?」
「そうですね、つい」
舌なめずりをする柾はすっかり男のようになってしまった気がするが、やはり優しさというものを感じるところがあるのをナナメは知っていた。
本当はいつまでもそうしていたい。しかし、それができないのもまた人間社会の悲しさというもので、二人の財産は確実に減っていたのであった。
今はしょうがないと飲み込んで、屈辱に似た非情を味わう他なかった。
柾は持ってきた水を自ら飲んでみせる。そしてそれを移すと言わんばかりに見せつけてくる。
「君は、本当に」
かき乱すのが得意だ。そうは言えずそのままに熱を帯びたそれを喉に塗り流す。
想いとは裏腹に、磁石のような二人は、くっついたり離れたりを繰り返すのだった。
※歌舞伎において女役を演じる役者のこと
二 痴人の恋
昼間少し過ぎたの町に点在する木々はこぞって赤や黄に変わり、浅草に化粧を施す。
駅に近い人多き純喫茶で、柾と編集者である
「それで、今回は本格的な書籍化に向けての展開についてお聞きしたいのですが」
少しずつその名前を広げていた柾は、ひとまず自身の名前で話を書き進めていた。
「とにかく今は、この流れで行きたいと思っています。謎が解けないような、読者が考察するか、あるいは想像していただけるような不思議な作品を、皆さんに届けたいと思っています」
「素晴らしい、今あなたのような作風の小説家はいないと言っても過言ではありません。言うなれば怪奇的な物語。近いようで遠い世界観は、きっと喧騒に
お互いは阿吽のように珈琲を飲み合う。たまの感嘆に湯気は揺らめく。
「次はどんなお話をお書きになるのですか?」
「そうですね、より本格的な謎と人間の心理を解いた物語を短編でいくつか、その後で長編に臨みたいところです」
「なるほど、ではその短編の具合を見て、良さそうなら更なる知名度を上げるために新聞などで連載という形にしてみるのも有りかと思われます」
「それは良い」
しばらくして、程よく空になった器を脇に置き、気持ちよくなった柾は一足先に全ての会計を済ませて外に出る。
「よろしければわが社を一度、見に来ては如何でしょう? 場所はそう遠くありません。私個人としても皆様に紹介したいと思いまして」
「それは是非」
二つ返事で電車で三駅ほど離れたところへと向かった。
打って変わって寂れたような街並みに移った。
その中でも小奇麗な、新しめの建物がその出版社というもののようだ。
扉を開けて中に入ると、難なく奥へと進んでいく。
「おお、君が噂の、こりゃ随分と若く、それでいて美男子だね。物書きでなくともお金は稼げそうなものだが」
肘で小突いた小牧は、社長と思わしき人間を鬱陶し気に退けやると、さらに奥へと進んだ。細長い廊下をずんずんと進む小牧に追いつくのがやっとだった。
やがて二人はひとつの部屋に着いた。そこが彼女の仕事場なのだという。
どうぞ、と扉を開けた彼女は続いて入ってくる。
「思ったより綺麗でしょう?」
不思議そうな顔をしていただろうかと、疑いつつ私は顔を縦に振った。
「いつもは倉庫なの」
扉を背にそう語る小牧は不敵に笑っていた。
「いつもは?」
そう聞き返そうと、うろうろする目を彼女に向けようとした時、背中に熱を感じた。
しばらくの間、二人は何も語ることは無く、まるでそういう彫刻のように固まっていた。
「あの、すみません」
「こちらこそ、すみません! 私ったら、つい」
顔を赤らめて離れる彼女に、柾は疑問を感じた。
その後は、小牧が何をするにも柾の身体に触れたり、耳元に息を多めに吐きながら喋ったり、いわゆる好意的に接近してくるものの、何故か柾に悪い気はしなかった。むしろ良く思っている自身の気持ちに対して後ろめたい気持ちさえ感じているのであった。
跳躍する心臓に何度目かの
体勢を崩して音すらなく倒れた小牧は、長いまつ毛から覗く真っ直ぐな大きな瞳孔を用いて柾を誘った。括った髪は解けて八方に伸びて、さながら
とどめとして、その瞳孔を隠し‘待って’いた。
柾は思わず肘を折りそうになったが、すみませんと短い言葉と共に逃げるように帰った。
外の薄暗い道に、ほんのり赤く火照った顔が浮かんでいた。
電車を降りた頃には辺りはすっかり暗くなり、街灯が斑に点いていた。
いまだ跳ねる心臓をよそに、無意識的に足早になってハロルド邸へと向かっていた。
怒っているだろうか、何処かへ行ってしまってはいないだろうか、そう思いつつ。
遠目に望めるくらいに近づいた頃、ハロルド邸から見知らぬような人間が出ていくのを見た。
「客人?」
それにしては不自然な速度で去っていった。扉などから相対的に見て大きい影であった。
扉を開けてみるとすぐそこに、頭から血を流しハロルドが倒れていたのを見た。
強引に押しやられ体勢が崩れたのだろうと、容易に想像できる。顔を上げれば置物の角にはべとりと血が付いている。
じんわりと、背中あたりから濡れていくような感覚がしてくる。
脈の有や無しに関係なく、ハロルドに声をかける前に、両手をも使って階段を駆け上る。
額から冷えた汗がにじみ落ちる。
「ナナメ!」
そう言ってすでに開かれた扉を殴り開けて月明りに照らされた部屋を見る。
そこには着物を下半分たくし上げられたまま、股からとろりと赤白いような液を流す、泣き笑うナナメの姿があった。
柾の躍動する心臓に、き裂が走った。
三 おかえり
ナナメは、またかといった面持ちで詰まらなそうに煙管を吹かしていた。
いくつもの灰が皿に地面に落ちている。床にも落としているのは、結局それは柾が片付けているのだが、一つの文句も垂れないため結局ヤキモキとしているのであった。
「今日も、月は私と居てくれるのかいィ?」
最近では独り言の方が増えてきていたが、編集者の女を一目見てから拍車がかかっていた。
「柾君は今もあの女といるんだろうねェ」
寂しい痩せた煙が月へと逃げていく。
「私は……少し前のように、棋譜を紡いだり、町を練り歩いて馬鹿な警官を冷やかしに行きたいだけなのさァ。なかなかどうして、こうなるばかりなのかねェ」
空の部屋から愛情を吸い上げる。
「いっそ殺してくれと言った
吸い上げた愛情を惜しむように吐き出す。
「恥部を隠すを恋、晒すを愛。……今の私は愛して欲しいという心を晒せていないから、これは恋かもしれないねェ。柾」
最後に浅く吸ってから灰をその場に落とした。
朝からの床では、もうすっかり白い斑点模様が出来上がっていた。
それを見て、ナナメはどこか
月明りの中で幾度となく影を伸ばしても、柾がその影を掴んでくれることはない。
そうした心を持ったまま、今日も階段がゆっくり軋む。帰って来たのだろう。
——おかえり
扉が開き、そう言おうとしつつ目に飛び込んできたのは、暗いながらにわかる大男だった。
瞬く間に押し倒され、嫌がるナナメをよそに帯を千切るように解かれ、あれよあれよと着物をひっ剥がされる。
岩のような手に恥部を
ナナメはというと、はだけた着物を手繰り寄せ、露出している部分を減らしていた。
ふと見た手先は自身で落とした灰が付いており、ぼんやり暗闇に浮かび上がっているようだった。
それが現状を変えるに至らないことなどは想像するまでもなかったがそれしかすることがなかったのだった。
やがて手が弱い所に達し、乱暴でいて繊細な手捌きによって苦痛が快楽に成った時、その頭の中では走馬灯のように過去の事情が押し寄せてきていた。
誰のモノでもなかったナナメが誰かのになるひと時に興じていたあの時とは訳が違うのだ。
そうして隙間だらけのぐちゃぐちゃの思考に、無理やり押し広げて入ってくる巨大な快楽。
甘い吐息とともに柾との思い出が追い払われるようで、その隙間を快楽がさらに埋めていくようでもあった。久しく聞いていなかった自分の甲高い声が部屋に逃げ場を無くし反響する。
嗚咽交じりに嫌だ嫌だと言えど、表情や仕草らが肯定しているのだと相手は納得し、激しさを増していくのであった。
異常に激しい打ち水のような音と上がる息が、現実の終わりを告げようとしていた。
ナナメは精一杯の力を振り絞り、充血しているであろう目を血走らせて抗う。
もうすでに
最大限押し広げられた最奥で息が詰まり空気が止まる。
二人は同じくして快楽の頂に達したのだった。
ナナメは気絶していた。
下半身の内側に生温かい、愛など
破顔の表情であったか、それすら考えられないほどに男に飼い慣らされていた。過去のあれらを思い出し、ただただ快楽を求めるひと時へと、帰って来たのだった。
――おかえり
※百人一首の八九番「玉の緒よ~」で始まる詩を詠んだ後白河院の第三皇女
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