吐月橋

    一  嵐山の怪



 夏の暮、蝉の声が静かになり、ひぐらしが夜の音頭を取る季節になったころ。しかし裏腹にも、夏の暑さはまだまだ続いていた。

 ナナメと柾の二人は避暑の為、汽車に乗り京都は嵐山へと向かっていた。

 流れゆく景色を懸命に追うナナメを見てほほ笑む柾がいた。

 「鉄の塊がこうも急いで走っていると気が落ち着かないねェ」

 「ナナメさんが不意に『月に行きたい』といい始めたものですから、竹取物語か何かかと思ってしまいましたよ。かぐや姫か何かかと」

 「まあなんとなくさ」

 「最近は収入が安定してきましたし、丁度良かったといえばそうですが……駄々をこねる子供に似て可愛らしいナナメさんが見れて何よりですよ」

 「季節外れのことを言うんじゃあないよ」

 「それはどういう意味ですか?」

 「蠅い」

 「ああ」

 「避暑といいつつ、キミの目的は物書きのための‘資料集め’だろう?」

 「そんなことはありません」

 「ふうん」

 「もしかしてナナメさん、怒っていますか?」

 「いいや、ちっとも。ただキミの書いた本がなぜ売れているのかわからないだけさ。まだ筆名は未定なんだろう? 名前も決まっていないのに、よく売れるものだよ。まったく」

 「たまたまです。筆名は……いずれ新聞から適当に盗りますよ。ある程度売れたのは編集者の力が良かっただけですから」

 「確か、数回ほど家に来た美人だったね。やけに話が進んでいたようだが?」

 「それもたまたまです。ほら機嫌を直してください。さん」

 手を握ろうとも、耳元で囁こうとも、斜になってしまったナナメの機嫌は簡単には直らない。

 ナナメの‘暑さ’は、残る夏と同じように過ぎることなく続いていたのだった。


 桂川の広い川幅を一望できる宿に荷物を置いた二人。窓を開き深呼吸をする。

 相変わらずナナメは不貞腐れているものの、やはり川辺に建つ宿ということもあり、吹き抜ける風は冷えていた。

 「これで少しでも頭が冷えたらいいのですが」

 「なにかいったかい?」

 危うく聞こえそうになったぼやきを誤魔化し、ひとまず茶を淹れ一息吐いた。

 「朝方に出たのが功を奏しましたね。ずっと涼しくて快適そのものですね」

 半ば独り言ともとれる会話を試みるも、手ごたえは無かった。

 拗ねているナナメは目はおろか顔すら向けてくれず、しかもそれはかたくなで、むしろそれが柾からすれば愛おしく思えてくるくらいだった。

 「かわいい人ですね」

 「言葉だけなら腐るほど聞いたものだが……?」

 なるべく意図をくみ取り、柾は静かに抱擁を試みた。まんざらでもない様子だった。

 ひとしきり熱を共有したところで、柾は提案をした。

 「日傘でも買って散歩でもしませんか」

 「しょうがないねェ」

 そうして二人は外へと出た。宿近くで売っていた一本の藍色の日傘に半分ずつ入り、日照りの道を歩く。その道中にいくつか土産を買う。

 嵐山の舗装された町並みには打ち水がよく効いており、どこにいても涼しかったが、二人の間に発生する熱に相殺された。そしてその時間はあっという間に過ぎていくのだった。

 その頃にはナナメのも程よく落ち着き、良くも悪くも一層距離が近づくこととなったが、お互いそれに気が付くはずもなく、かといって周囲の目も気にすることはなかった。



    二  吐月橋



 夜になり、適当な食事を済ませた二人は回り道をし、腹ごなしをしていた。

 雲こそ出ているものの月は出ており、見え隠れを繰り返していた。月は満月だった。

 「まなき月の渡るに似る……ねェ、人込みにのまれて渡るに渡れないように見える模様だよォ。もしくは花魁見たさの大衆といったところかねェ」

 ナナメは空を見上げてそういった。その表情は呆れに近い様子だった。

 「そうは言っても渡月橋、壮観です。確かに生憎あいにくの天気ですが代わりにあなたが渡るからいいのですよ。私からすれば」

 「君は、いつから躊躇ためらいもなく口説いてくるようになったんだィ?」

 「さあいつからでしょう」

 「他の女や、まして男なんぞには言わないでくれよ?」

 「もちろん」

 そうこうしているうちに、弓なりの渡月橋の頂点に差し掛かる辺りで示し合わせたように二人は歩みを止める。そして何を言うわけでもなく、月を背に手すりにもたれかかった。

 「いやね、私の事を思ってくれているんだとわかってから、年上でも、まるで妹のように可愛らしく感じることが多くなりましてね」

 「それは愛だねェ。母性の含まれた愛だ」

 「ですが、不思議なことにあなたを乱したいとも思うのです。できることならいつまでも布団の中でうずくまりあいたい」

 「それじゃあそれは恋かもしれないね」

 「ナナメさんの中でそのふたつは明確に分かれているのですか?」

 「いやァ、それが……未だにわからないのさ」

 ナナメは腰に刺したいつもの煙管を取り火打石でカチカチと打ち始めた。

 「柾君と出会ってから遭遇した事件にはどれにも漏れず含まれているのさァ。心中にしろォ、新郎から寝取った男にしろォ、佐島さえじま家のことにしろォ……」

 「——私にしろ、ね」

 ふうと白い煙を燻らせ、それが月へと立ち昇る。

 「柾君、キミはどう思う?」

 「そうですね」

 少し考えるそぶりを見せてから結論じみて言う。

 「自身の数ある恥部を知られても困らないのならそれは愛で、知られたら困ると思うのを恋。でしょうか」

 小さく笑ったナナメは、肘越しにある手すりからコンと吸殻を落とした。

 「やっぱり、君は頭が良いねェ」 

 二人は再び、示し合わせたように歩き始める。


 「それを教えてくれたのは、あなたですから」

 

 「ん? 今なにか言ったかい? 着物が擦れて上手く聞こえなかったよ」

 「いいえ、それはたぶん川の流れの聞き間違いですよ」

 ナナメが『ふうん』と言ったきり、二人は喋らないまま宿へと着いた。

 吐いた話は川に落ちて、月へと溶けていった。

           ※『雲のない日に夜空に浮かぶ月が橋を渡るように見えた』という意味



    三  宵闇の風紋と月



 宿に戻った二人は、敷かれた布団には目もくれず、大きな窓側に座った。

 「さあて、久しぶりに一局しようじゃァないか」

 「満ちる月の明かりをつまみに、なかなか乙ですね。では窓も開けて涼みましょう」

 ナナメは肘を掛け、手を軽く握りその拳を頬に添える。さながら棋士の格好だ。

 「今日は少しおもむきを変えてみようじゃァないか」

 「珍しいですね」

 「いつも私が勝っては面白くないだろう?」

 「待ってください、今のところ五分五分くらいです」

 「そうだったかな? いつも私が最後に笑っている気がしてねェ」

 「それで、なんです? その『趣』とやらは」

 「‘敗者は肯定しかできなくなる’というのはどうだい」

 「それは絶対ということで?」

 「もちろん。何を言っても肯定しかできない。そうだねェ、今なら先手も譲ろう」

 柾は思わず大きく笑ってしまう。

 「随分と見下されたものですね。いいでしょう、完膚なきまでに、嫌という程負けを認めさせて見せましょう。覚悟はいいですね?」

 「もう勝ったような言い分だ。そしてそれは私の言葉として返させてもらおうかねェ」

 そうして柾はニヤリと笑うと、迷いなく‘飛車先の歩’を伸ばした。


 中盤を過ぎたあたりで、終盤を迎えるかどうかといった局面。

 二人は小休憩を挟む。二時間を裕に過ぎており、熱くなった頭と乾いた喉を冷やし潤すために挟んだのだった。

 「おや、遠くから箏の音がするねェ」

 「……本当ですね。この近くに稽古場でもあるんでしょうか」

 「さあて、どの道タダで聴けるんだ、特等席で一服ができるのだからいいのさァ」

 ナナメは窓辺に腰かけて煙管に火を点ける。月明りの白にぼんやり赤が乗っている。

 窓からの風は静かに吹いているものの、じっとりとした熱気は確かに存在しており、辛うじて見える露出部にはうっすらと汗で濡れている。

 「色っぽいですね」

 「今更」

 そんな会話をしつつ、お茶を淹れる柾。湯呑からは白い蒸気が短く立ち上る。

 二人はじっくりと時間をかけて飲む。

 「で、今は僕が優勢ですが?」

 「なあに、私が次の一手で覆すさァ」

 「ちなみに、わざと負けたりはしてませんよね?」

 「まさか」

 「てっきり、先手を譲ってくるところを見て、僕に命令されたいのかと」

 「ふん」

 「明らかに口数が少ない所を見て、図星ですね?」

 「いいや?」

 「ふうん」

 窓から燃えカスを放り投げ、煙管をそばに置いた。

 「さあて、これ以上戯言ざれごとをほざかれても困るから口を閉じてしまおうかねェ」

 そういいながら柾は盤へと顔を下げるナナメを見る。

 月の明かりで顔の半分が照らされ、もう半分は影に隠れた顔。

 「私の顔を見ている余裕があるなら、この状況を覆してみたまえ」

 視線を盤から外さずに言われた柾は思わず顔を赤らめた。

 下ろした視線の先の戦況は一変し、見事逆転を許してしまう。

 「そのにやけた顔は後に取っておくといい。『後に笑う者の笑いが最上』というじゃあないか。勝ってから存分に笑うんだねェ」

 柾は今までの行動全てが油断を誘うための謀略だったのか、そんな疑問を抱きつつなんとか攻めの一手を考える。

 十数分の思考の後、ある駒の利きが非常に有効であることを思いつく。


 〈7ー七角〉


 角を戻す。そうすれば相手の一手を防ぎ、且つ角の利きで二つ程、相手の駒を防ぐことになることに気が付いた。

 そこからはあれよあれよという間に決着がつく。

 「はあ負けてしまったか」

 「何が『負けてしまった』ですか、あの一手は計ったのですよね?」

 「さあなんのことやら……おっと間違えた、‘そうだとも’、かな?」

 「勝っても負けても逃れてられてしまう、なるほどしてやられましたよ」

 腹が立つやら感心するやら、心が複雑ながらも我慢ならずに駒を散らしながら近づく。

 「随分と積極的だねェ、そういえば満月は性欲を高めるらしいが、柾君はどうなのかな?」

 「さて……、随分煽られましたから。あなたがあまりに可愛いから、しょうがありませんね」

 息の荒い柾を、どこか余裕を持ってたしなめる。それが柾をさらに煽った。

 「‘待て’のできないほど君は馬鹿じゃあないだろう?」

 柾は頬にかけた手を外し、腰に手を伸ばす。そうして軽く持ち上げて布団まで持っていく。

 「き、君ィ……そんなに力強かったかい?」

 「さあどうでしょう……でも、‘優しく’は出来かねます」

 音もなく降ろした柾は、そういいながら帯を緩めた。

 二人の短い愛の感嘆符は窓から風に乗って、月へと溶けていった。

                  ※最後に勝利を収めて笑うことが最高であるということ


    四  月は離れて夜明けとなる



 柾は暑さで目が覚める。次いできじの鳴き声で意識がはっきりとする。

 「もう朝ですか……」

 片腕に抱き着いたナナメを見て名残惜しさを覚える。髪をひと撫でしてから丁寧に絡まった腕を解き、服を着直した。

 ある程度、身なりを整えてからナナメを起こす。

 「もう朝ですよ。帰り支度をしましょう」

 「柾君……?」

 そう言いつつ、閉じたナナメの目からは涙が垂れていた。

 「どこにも行きませんから、安心してください」

 乱れた服と髪を見ながら、そっとまた撫でる。それら一連を何回も繰り返した。

 いくらか時間が経ったとき、また声をかける。

 「そうはいっても帰りの時間もありますから、昨日分は帰ってからゆっくりとしましょう。ほら、起きてください」

 「わかったよ……君は相変わらず乱暴だなァ」

 眠ったままの声に湧き上がる欲を辛うじて抑え、二人は宿を後にした。



 「はい、掛けそばふたつ」

 蕎麦屋そばやは朝から賑わいを見せていた。活気ある声と共に出された関西特有の香ばしい出汁がその騒がしさを増長させるのだった。

 「美味しいねェ、川を望みながらのそばは格別だ。これは浅草じゃあなかなか見れないよォ」

 「そうですね」

 「君は本当に私が好きだねェ。なんだって私ばかり見るんだい」

 「答えを今ご自身でおっしゃられたじゃないですか。見られて嬉しいですよね?」

 「う……もちろん」

 顔を赤らめるナナメは、そばの椀で顔を隠した。

 「キミ、味を占めたね?」 

 「ナナメさんからの‘’ですから。さっさと帰りましょう」

 食べ終えてから会話を挟まず、すぐに外に出て駅に向かった。

 駅に着くまでも、着いてからも柾の問いには肯定しかできないでいるナナメはただ、頬を厚くすることしかできなかったのだった。

 

 「助けて、誰か!」

 一瞬の、耳をつんざく叫び声に似た悲鳴に反応できたのは柾だけだった。

 駆けつけるとそれは女が男に襲われている所であった。

 悪態を吐きながら逃げていく男は警備隊だか町人だかが追いかけていった。

 「大丈夫ですか?」

 「はい」

 華奢で若い風貌の女性は酷く震えていた。

 柾は着ていた羽織をかけてやり、落ち着くまでその場に留まっていた。

 「怪我がなくてよかった。未遂に終わってよかった」

 「あなたが来てくれなかったらと思うと……」

 「昼間とはいえ、人通りの少ない所をお嬢さん独りで歩くのは危険ですから、控えてくださいね。とはいえ今回で懲りたとは思いますが」

 「そうですね、確かに懲りました。ですが、あなたのような勇敢で頼もしいお方に出逢うこともできました」

 そう言って女性はそのまま腕の中に顔をうずめた。


 ナナメは突然、血相を変えて走り始めた柾を追いかけていた。

 着物特有の歩幅のせいで急いでいるものの前には進んでいかなかった。

 遠くで柾を見つけた。かがんでいるようで近くに誰かへたり込んでいるようだ。

 「柾く……」

 声をかけようとさらに寄ったところで、それが着ているものが柾の羽織だということに気づいたナナメの口はその言葉を強引に飲み込んだ。

 よくよく見れば抱擁しあっているようにも見える。周囲の状況からして恐らく事件が起きたのだろうが、そんなことはどうでもよかった。

 「本当に、どこにも……いかないのだろうね」

 そう呟いたナナメは静かに駅へと戻っていった。

 独りだろうが、声をかけられようが、あるいは誘拐されようが、どうでもよかった。

 角は孤立した。

 それは取られるのを防いでほしいという願いと、取られて後悔してほしいという恨みによって孤立してしまったのだ。柾と紐ついていると信じつつもナナメは少しの嫉妬心からそういう行動をとってしまったのだ。


 柾はやって来た警官に女性を渡し、急いで駅に向かった。

 駅は人が多く、柾からすればナナメが心配でならなかったのだった。

 「ごめんなさい、ナナメさん、つい置いてけぼりにしてしまいました」

 「いいのさ、人助けだろう? 女性……強姦か、財布でも掏られたか」

 いつもの様相で、言い当てているかのようにナナメは言った。

 「流石、ナナメさんは話が早い」

 柾が言い終える前にナナメは抱き着いた。人目もはばからずあつい抱擁をする。

 「ナナメさん?」

 「今日は寝させやしない」

 耳元で囁いた言葉には優しさよりも恨みに近い感情がこもっていた。

 柾はナナメを抱き返した。同じく人目もはばからず。

 「もとよりそのつもりです。ごめんなさい、心配をかけて」

 


 その様子を見ていた影がひとつ。

 筋力に余裕のある男は、いつでも陰に連れ込み事を起こせる自信があった。

 伸ばしかけたごつごつとした手と荒れる息を潜め、再び人込みに紛れた。

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