獅子の虫 後編

    一  廻らる虫



 夜はますます落ちていき、ガス灯はまばらに道中を照らしていた。

 人通りの少なさが、幸か不幸か判別には適していた。心配事と言えば、可憐で華奢なナナメが襲われたりしていないか、という一点のみだった。

 しかし、病に伏しているナナメが長時間動き続けることなどできるはずもなく、近くの広場の長椅子に力なく座っている所を発見することになった。

 じっとガス灯を見て泣いていたのだった。


 「こんなところにいたんですか、心配しましたよ」

 「……柾君か、キミはあそこにいる虫が、蝶か蛾、どちらかわかるかな?」

 何も映らないような虚ろな目で柾にそう問いかけた。しばらくして柾は隣に座った。

 「蛾、でしょうか? 蝶は昼の、蛾は夜の生物に思われがちですが」

 「なるほど、やはり君は面白いね。あれはねェ、蛾だよ。見分ける点はひとつ。花や木に止まった時、羽を閉じているか、広げているかさ。前者は蝶、後者が蛾」

 確かに、その街灯に止まる虫は羽を広げていた。

 「あれは、私のような存在なのさ。美しく無く、嫌われ、大して生物の循環には必要とされない。むしろ蜜や花粉さえ食べてしまうかもしれないうえ、触れるものをかぶれさせる。」

 「要領を得ないですね、ナナメさんは一体何を言っているんですか?」

 「私の両親は早くに他界した。私と借金だけを残して心中。金は否応なく取り立てに来る。私は、その借金を返済するために体を売ったのさァ。とんと興味はないが、私の身体に興味のあるやからは多かったからね。遊女まがいのことをして、返し切ったさ」

 柾はただ頷くしかできない。ナナメの声は弱弱しく、続いていく。

 「男に乱暴されることも多かったからねェ、そのたびにはしたない姿を晒しては、それが金に成る。常連から言い寄られることもあったねェ。大金を積んでまで、欲したこの体の価値は私にはわからなかった」

 片腕を抑え、姿勢を変えて話を続けた。

 「ある日突然、なんの予兆もなく死にたくなった。考えることに疲れたのさ。快楽に塗りつぶされる毎日に思想なんてあったもんじゃない。物心ついたときからもてあそばれて」

 ガス灯に止まっていた数匹の蛾の一匹が、ゆらゆらとナナメの肩に止まった。

 「返し終えてなお余りある金を見て、絶望したよ。残ったのはボロボロの体だけ。本能のままに生き、蛾のように足を広げる私は、希望のぞみなんて持ち合わせてはいなかった。いっそ快楽の最中に死にたいとさえ思ったよ。両親は勝手に生きて死んだ。なんの感動もない人生を歩んで、そのが私に廻ってきて……、いいことなんてなかった。それらを塗りつぶしたのは、皮肉にも押しつけられた快楽だったのさァ」

 やがて指にそれを乗せたナナメは柾の顔をじっとみつめた。月明りで体がより白に映えた。

 「私は、柾君になにかできただろうか。死にぞこないの私を好いてくれた君に、私の色がついていないだろうか。純粋な君をけがしたくはないんだ。でも、君が恋しいんだ」

 柾は伝った涙を拭いて、ゆっくりと抱き寄せる。

 「あなたが白い蛾なら、私は彩りの蝶となって、僕の色を分けてあげますから。そんなかなしいことを言わないでください」

 「柾のことを好きだなんて言ってはいけないんだよ。私は」

 「なぜそう思うんですか、誰が決めたんですか」

 むせび震えているナナメに言葉をかける。子供のようにボロボロと涙を流すナナメを、柾はただ抱きしめる腕を強くするしかできなかった。



    二  うつし合い



 夜空に浮かぶ星々を照らす月と、その月の輝きに劣らないナナメの乱れた服から覗く白い肌とが、夏の暑くも涼しくもある浅草の暗闇を単純に彩っていた。

 十数分の抱擁をしたあと、頭を撫でながら顔を近づけた。お互いの顔全体が熱くなっているのがわかる。

 「ナナメさん、落ち着きましたか? 熱のせいで、普段とは打って変わった姿が見れて得をしました。そんな気分です」

 「柾君もずいぶん生意気になったもんだねェ。熱が出ると、いや一人の時は決まって気が滅入ってしまってねェ。こうしてひと肌に触れると落ち着くのさ」

 ナナメはそう皮肉めいて吐き捨てた。

 「もしかして、実家まで僕を助けに来た時もそうだったんですか?」

 「ああ、そうだとも」

 頬を一層熱くさせる。目線を合わせようと思ってもなかなか合わない。

 「これは、言うべきことではないのかもしれないが、ここ浅草に来たのは心中事件に寄せられたからなのさァ」

 「ナナメさんも心中をしようと?」

 「無論。相手はいなかったが、なんにせよ騒ぎに乗じて死ねるなら良いと思ったよ。でもそんな中、死とは全く無縁のキミに出逢った。君という愛らしい蝶が後からついてくるものだから。私はつい君に触れてしまった。触れたいと思ってしまった。それがいつしか、私という蛾すら止まらせてくれる柾という止まり木になっていた。でき過ぎた話じゃあないか」

 「いわゆる、運命ですね」

 「そんな気がするよ」

 二人は吐息がかかるくらいに近くで話していた。もうこの世界には二人しか残っていないかのように、人目をはばからずに。

 「ところで知っているかい? 蝶の模様は表面の鱗粉と言われる部分が形成しているらしい。それに触れれば鱗粉は取れてしまう。なくなると、飛べなくなると言われているんだ」

 「では、いつかあなたを僕の色に染めたら、僕はナナメさんから離れられなくなっているかもしれませんね」

 「柾君が泣こうが喚こうが手放すつもりはないがねェ」

 「僕も、こんな可愛らしい人を放ってはおけませんから」

 柾から触れるくらいの焦らすような口づけを数回した。

 「いいのかい? 私のがしまうよ」

 無言でニヤリと笑いあった彼女らは手を繋いで二階の借家へと帰るのだった。



    三  獅子の虫



 丸薬を飲んだナナメはすうっと眠りについた。落ち着いたのだろう、死んだように寝ている。

 見届けた柾は部屋にある唯一の小さな明かりを消し、扉を静かに閉じた。

 柾は、ナナメが昼間に言っていたことを思い出していた。

「月明かりを頼りに文字を書いてみるか」

 そういうと用紙を出し、書いてみる。しかし月明りは文字を書くにはやはり頼りなく、仕方なく蝋燭に火を点けた。

 前回書いた原稿は既に知り合いの編集者に渡しており、真偽のほどが行われているようだ。

「名前、何にしようか」

 そこまで詰めて考えておらず、柾は題名はおろか、筆名※ すら決まっていなかった。

 月を見ながら小粋な名前を考えてみるも、誰でも思いつくような名前しか出てこなかったため考えるのをあきらめた。そして本文を書き始めたのだった。

                               ※文豪などが使う仮の名前


 気が付けば朝になっていた。それに気が付いたのは雀の鳴き声が聞こえたからであった。

 じきに蝉もなき始め、さらに進めばナナメも起きるだろうとふみ、推敲すいこうを端の方に小さくまとめ書き棚に仕舞った。

 熱くなった頭を冷やすため、打ち水がてら外へでる。

 桶に水を溜め、柄杓ひしゃくを片手に階段を降りた。

 外の空気は新鮮で、まだ人の気は感じなかった。

 「静が聞こえる、とでも言うべきか」

 そう独り言ちた後、低く水を撒く。十回程度撒いたところで昨日の医者が現れる。

 「どうも、朝から精が出ますな」

 「尾崎さん、昨日はありがとうございました」

 「目の下が黒いですねェ、あまり夜更かしはいけませんよ、といってもきっと彼女の面倒をみてくだすったんでしょう。忠告は野暮ですかねえ」

 昨日も思ったが、ナナメのような口調で話す。昔からの知り合いと言っていたから、ナナメに話し方がうつったのだろうか。そう柾は思った。

 「今日はどうしたのでしょうか?」

 「いえね、私は医者としてあまり患者の話は控えておこうと思ったのですが、あなたと彼女の仲を考えるに、話しておいた方がいいかと、思いまして……ねえ」

 「昔の話ですか?」

 「いえ彼女の持つある種のについてです」

 その時、柾の脳裏には傷の痕と、そのすぐ後に可愛らしいナナメの寝顔が横切った。


 

 桶と柄杓を玄関横に置いてから、戸締りをして昨夜の広場に向かう。

 話を聞かれては困るだろうという、お互いの配慮の末だった。

 明け方の薄っすら青い空に、新緑が乗っており、幻想的な風景をかもし出していた。


 「では早速本題に……幾らか話は聞いていますか? そうですか、では少し省きながら手短にお話しましょう。彼女は、幼少期過ぎから体を男にたびたび犯されていましたというのを知っていますね。彼女は気こそ強いのですが、やはり力の面では全くの乙女。乱暴をされたり、あるいは無理やり着床、所謂いわゆる ‘妊娠’ をさせられたりしていました。私が最初に診たのは十四歳でした。彼女は腹が少し膨れ、全身で震えていました。なかなか止まらなかったので温かい飲み物を渡しました。それからようやく話をしてくれました。その話からして、大変な苦労を背負った子なのだろうと思いました。しかし私にできることは多少の資金援助くらいでして、一介の医者にできることなど、ないのかもしれないと思いました」

 昨日の蛾と蝶が絡み合いながら花に止まったり飛んだりを繰り返している。

 柾はただ俯き、微動だにせず話を聞くことしかできなくなっていた。

 「おっと、話しがそれてしまいました。結果的に彼女は七度の妊娠をしました。そうして彼女は自らの意志で七つの命を絶ちました。そのたびに、彼女は腕の頸動脈と言われる血管を割きました。診ているのは辛かった。いや、本当は心底『女でなくてよかった』と思っていたのかもしれません。彼女の精神は蝕まれていきました。命の尊さや、大切さよりも死の方が身近に感じるようになってしまったのです」

 腕の傷痕が物悲しく瞼に写る。

「彼女のちつや子宮には負荷がかかり過ぎています。ハッキリ言ってもう妊娠はしないほうがいい。それどころか、性行為によって過去の嫌な記憶が蘇り、死のうとさえするかもしれません。今の彼女の精神は非常に安定しています。きっとそれはあなたのおかげでしょう。医者として、そして彼女のもう一人の陰の父親として、本当に感謝しています。しかし、いくらあなたを、そしてあなたが好いていようと、体の関係は持ってはいけない。それがお互いの為です。精々接吻せっぷんが関の山でしょう」

 柾は自身の体を小さく抱きしめた。今すぐにでもナナメを抱きしめたい衝動に駆られるが、それに理性が働いたのだろう。

「厳しいことを言うようで、すみませんでした。これはただ統計的な話です。簡単に言うと勘に近いでしょう。もしかしたらそんなことないのかもしれませんが、私が診てきた中で例外はありません。かつてのトラウマが呼び起こされ、精神が落ち込み、やがてむごい死を遂げるだけです……。長いこと話を聞いていただいてありがとうございました。私からは以上です。では」

 そういって尾崎医師は踵を返した。かぶっていた小さく丸い西洋帽子を上げて歩いていった。

 辺りを飛んでいた蛾は、歩く医者に軽くあしらわれ、羽が折れて落ちた。


 柾はしばらくしてから、蛾を拾い上げた。その時にはすでに、まさに虫の息といった様子でとても回復しそうにない姿をみて、死ぬのを看取ってから土に埋めた。

 そうして柾は早足で帰った。桶と柄杓をそそくさと持つ。

 両手がふさがりながらも器用に扉へと入った。もうナナメが起きる頃合いだった。


 「珈琲を淹れてくれないか?」

 「その前に丸薬を飲んでください」

 「つれないなァ、いいじゃないかそれくらい」

 「顔色は良さそうですが、まだ油断はいけませんからね」

 そういいながらも丸薬を飲み、椅子に座るナナメの様子はすっかり良くなり、熱も下がったようだった。

 それを見た柾はいつものように珈琲を上手く淹れ、ナナメに出した。

 「名前は、まあいっか」

 訝しむナナメをよそに、蝉の鳴き始めた空へ、そんな言葉を放り投げた。


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