獅子の虫 前編

    一  虫の知らせ



 浅草の二階の真昼間。柾もナナメも肌の露出を増やし、熱を逃がそうとしていた。

 開け放った窓を通る風に、すだれがからからと音を立てて揺れる。

 ナナメはどこから取り出したのか、綺麗な模様の扇子で火照った身体を冷やしていた。

 「柾君、こんな日こそ港に避暑するのが一番だと思うのだがねェ」

 「嫌ですよ、近寄りたくもないですし、そんなに暑いのなら風鈴でも出しましょうか?」

 「ああ、すまないがもう一度言ってくれるかな?」

 残念ながら近くで蝉がしきりに鳴いているせいで会話がまともにできない。

 「窓、閉めましょうか?」

 「駄目だよ、それは禁じ手だ」

 「では冷えた豆腐でも食べますか?」

 そういいながら風鈴を取りつけた。リンリンと涼し気な音が部屋に優しく広がった。

 「それは名案だねェ、確か君が朝方打ち水をしていた時に通りかかったんだったねェ」

 「ナナメさんは『暑いから嫌だ』と言って外に出てくれませんでしたが」

 「暑いんだからしょうがないじゃあないか……今日はいやに暑くてねェ、ともかく意地の悪いことを言わないでくれよ」

 柾は桶に入った豆腐を、冷たい水を切って二つ分だけ皿に移す。それに醤油だけをかけて出来上がった簡単な避暑料理をナナメに出した。

 「では、いただくとしよう」

 箸の触れ合う音を鳴らしながら小刻みにして少しずつ食べる。

 柾はあまりにおいしそうに食べるナナメを見て、涼んでいた。

 「食べないのかい? それとも食べさせて欲しいのかな?」

 熱くなった柾は急いでほおばりむせてしまった。二人の笑い声が部屋に小さく響いた。



 玄関の方の呼び鈴がなる。

 いつものように柾が出る。この時間の来客とは珍しい。そう思いながらも階段を降り玄関へとかけていく。

 「はい、新聞です。ずいぶんとお久しぶりね。私の事覚えているかしら」

 「あなたはいつぞやの配達員さん!」

 「覚えててくれたみたいね、その後、彼女は大事にしているでしょうね?」

 「おお、君は! 随分と懐かしい顔じゃあないか……柾君とはほらこの通り」

 そういいながら階段の上から首に腕を回して寄りかかってきた。危うく体勢が崩れそうになるも、なんとか耐えて話を続けられるよう平静を保った。

 「あらあら、ただでさえ暑いのに、わね……、それより私、新聞配達員を辞めることになったのよ。今日で最後だから一応挨拶を、と思ってね」

 「そうなのかい? もったいないねえ」

 「天職ってほどではなかったけれど、嫌いな職場ではなかったの。でも次のは、今よりももっと融通が利いていいの」

 「そうかい、それは……なおさらもったいない」

 「もしかして、もうわかったの? 本当に、あなたの勘、というか頭脳は恐ろしいわね。まあいいわ。まああなた達に借りがないわけではないの。そのおかげで今があるわけだし、感謝はしているの、何かあったら連絡を」

 そう言ってさわやかな笑顔を向けて次の配達先へと向かった。



 柾は抱き着いてくるナナメをたしなめて腕を解いた。鍵を閉めなくてはならないからだ。

 「そういえばナナメさん、彼女は一体何に転職するんでしょうか」

 「ふうむ、柾君はしばらく頭を使っていないようだから、久しぶりに一緒に考えようじゃあないか。差し詰め五手で済むだろう。まず彼女は『今の職場より融通が利く』こと、あの感じではいまだに不毛な夫婦に介入しているんだろう」

 話しながら階段を上がり、椅子に座って話を続けた。

 「つまり、今よりも介入がし易く、至って違和感のない職業、と」

 「まあもうわかるかもしれないが、ここはあえて丁寧に進めて行こう。思考回路を結論まで飛ばしては、道中が錆びついてしまうからね。考えられる職業はいくつかあるが ‘他人から勧められて入る’ たぐいと考えられる」

 「なるほど、確かに他人に勧められない限り『今の職業が嫌いなわけではない』とは言いません。よってあえて自分からその職業にはいかない。結果的に、他人に勧められたと」

 「その通り、少しずつ近づいているねェ。三手目は?」

 「『何かあったら連絡』ということは、連絡を取り合える職業ということですね」

 「ああ、しかし連絡を取ろうと思えば誰でも取れる。そんな職は相当数あるだろうねェ、詰みまであと一手、ここで結論を聞かせてもらおう」

 「今も夫婦のいざこざに介入しているなら転じて、その妻や夫婦を救うこともあるかもしれません。つまり、彼女は警察官に成る、ということですか?」

 「ご名答だよ、柾君!」

 「あの一瞬でこれほどの思考を行っているんですね……」

 改めてナナメという人物を興味深く感じる。確かに、誰でも考えようと思えば考えられる範囲なのかもしれない。しかし、それを日常的に行っているのであれば恐ろしくもあった。

 「ああ、喉が渇いた。柾君、珈琲を淹れてくれないかい?」

 「わかりました、少し待っていてください」

 そういいながらサイフォンの下部に水を二人分入れてから火をかける。

 かくはんしながら豆から珈琲を抽出する。あたりはカフェインの匂いが充満していた。


 珈琲をおいしそうに少しずつ嗜んでいるナナメは机に広げた新聞をまじまじと読んでいた。

 「珍しいですね。ナナメさんが新聞を読むなんて。いつもなら『どこの馬の骨ともわからん奴が書いた駄文、誰が読むんだィ』とかいって雨の日の湿気取りに使うところですのに」

 「まあそうなんだがね、佐島という外交官の家が解体されるらしくてね、一家離散だとさ。なんでも後継が決まったと思ったら不正や詐欺が発覚して、なんなら後継も大分と無理をしたらしいが。何が言いたいのかというと、よかったねェ」

 「そうですね。ステファンさんが気がかりですが。いかんせん実感が湧かないです」

 「そうだろう、そうだろうとも。自身の見ている世間以外で起こる事象はどれも現実味を帯びないものさァ。今のところは君の手の届く範囲の世間をかみしめておくといいよ」

 柾はナナメが自分を心配してくれたのだと腑に落とした。

 関心を見せない彼女が気遣ってくれることに、どこか体が熱くなる想いになったのだった。

 

 相変わらずナナメは火照った身体を扇子で仰ぎながら珈琲を美味しそうに啜っている。

 しかし、その火照りはとどまることを知らず、その日の夕方から寝込むことになる。

 一先ず寝かせて、柾は弱るナナメを看病することになったのだった。



    二  腹の虫



 蝉の静まった夜の入り。月明りのみが部屋を写したが、そこに二人はいなかった。

 ほとんど入ったことのない見慣れた部屋に二人はいたのだ。

 唸る弱ったナナメの手を握り、桶に入った新鮮な水を布に染込ませて、額を拭う。

 ナナメの指示した通りの医者を呼び、来るまでは暫し対処療法をするしかなかった。

 『いやに暑い』と言っていた時からその兆候があったのだ。

 すぐに寝かせれば良かったと柾は自身を戒めつつ、額ににじんだ汗をぬぐいつつ冷やすことしかできなかった。


 医者を呼んだ時、いろいろと対処すべきことや、やってほしい事柄を聞いた。

 曰く、水分補給しやすい環境を整え、発汗を促すこと。そして汗は頻繁に拭うこと。

 経験がないものの、聞きかじった知識で一先ず水を汲んだり、窓を閉めたり、布団をかけたりして発汗を促した。

 そうした柾の目の前には十分に汗を浮かべ、浅い呼吸が色っぽくも見えてしまうナナメの姿があったのだった。

 時たま手を弱く握り返すナナメを見つめる事しかできなかった柾は、意を決して声をかける。

「服を替えましょう。僕が汗を拭いますから。気持ち悪いでしょうし」

 ナナメはなにか、ごにょごにょと言っていたが、柾にはよく聞こえなかった。


 震える手で帯を外した。当たり前にも、抵抗することなくそれはスルスルと脱げていく。

 白粉おしろいのような肌があらわになった。それらはやはり細い。

 腕が引っかかって脱げない。脱がそうとすると、今度は少し強く抵抗したのだ。

「駄目です、ナナメさん、汗をぬぐうように言われたんですから、おとなしくしてください」

 半ば自分にも言い聞かせるようにそう告げる。

 そうして少し乱暴に腕を持ち上げた時、着物が脱げると同時に目に映ったのは手首の箇所にある無数の生々しい傷痕だった。みかけているようで、白い肌には対照的で目立った。

「これは……」

 ふと顔を見るとナナメは目に涙を浮かべていた。揺れ動く瞳は今にも取れそうだった。

 抵抗しなくなった今の内に、なるべく手際よく着替えさせなければ。

 あまり細かく身体を見ないよう、サッと体を拭い着替えさせる。そして再び横にさせた。

 浅い呼吸のナナメを前に、柾のまぶたには手首の傷痕がちらついて残った。

 ナナメは目を合わせてくれず、手も握ってはくれなくなっていた。



 玄関が鳴り、扉が叩かれる。

「医者の尾崎です。開けていただけますか」

 柾は目に溜まった雫を人差し指で取り拭ってから、その場を後にしたのだった。



    三  羽の虫



「熱、ですね」

 医者はしゃがれた声でそう言った。器具を駆使し手際よく調べて一言だけ。

「簡単に調薬をしますのでそこをお借り出来ますか?」

 ナナメといる時間の最も多い居間、そこに医者を呼んだ。かばんから様々な器具を新たに取り出し、薬草のようなものをすりつぶし始めた。

 そわそわする柾を見て、医者は作業をしながら話をする。

「特異な方ですよ。彼女は」

「と、いうと」

「少々頭を使い過ぎる傾向にあるのです。昔からですが」

「わかります。いつも何かを考えているようで、私もしばらく一緒に共にしていますが今でも、何を考えているかわかりません」 

 はっはっはと静かに笑いながら、また別の何かをすりつぶす。

「私はずいぶん前から彼女を診ていますが、今はよっぽど調子が良い。定期的に診るのですが、その時はあなたの話ばかり。喜々として、乙女の顔をするのです」

「はあ」

 気の抜けた返事になってしまったと、気づいた柾は、あらゆる恥ずかしさで頬が赤らんだ。

「あまり詳しくは言えませんが、彼女と初めて会った時、それはそれは酷い状態でした。いえ、身なりがというわけではないんです。精神が侵されていたというべきでしょうか。とてもではありませんが、生気のかけらも、彼女にはなかったのですよ」

 医者はやがて丸薬状に整え始める。柾は静かにうなずいていた。

「彼女の父ではありませんが、一介の医師として、感謝をしています。これからも彼女をよろしくお願いしますよ。 'これ’ を起きた後と寝る前に飲ませてください。一週間分渡しておきます。ああ、お代は結構ですよ。なんといいますか、もう頂いていますので」


 尾崎と名乗る医者は、会釈をしゆっくりと闇に消えていった。

 戻った柾は、すぐに丸薬を飲ませるために水を入れ、ナナメの部屋に入った。

 しかしベッドにナナメの姿は無かった。窓からは湿った涼しい風が吹き込んでいた。

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