朝霧の怪人
一
私は、鼻先の冷たさに痛みを覚えて目が覚めた。
上体を起こし、頭をボリボリと搔いた。
「もう朝か」
妙に判然とした部屋の景色をひとつ、またひとつと確認しながら僅かに歪む視界を抱えて顔を洗いに水場に行く。
顔に水をかけ、袖で乱暴にふき取る。右の頬のにきびに引っかかり痛む。
痛みと財布を持ち、私は外に向かった。まだ外は薄暗かった。
自転車をこぎながら朝刊を配り走る。夜道は暗く灯はほとんど無いに等しく、先に光りのみが到達した太陽のそれだけが頼りだった。辺りには朝霧が立ち込めていた。
男は叫んだ。そこに何かが見えたのだ。
情けないような、張りつめた声は住宅の壁や木々、小川などに無暗に木霊した。
ひんやりとした空気は悪寒に似て全身を気立たせる。
男は叫んだ。何かに怯えるように。影を見たのだ。
やがてあたりに、人の気配は消え、同時に男の生命も消えたのだった。
辺りにはただ、ぴちょんぴちょんと滴る音がするだけであった。
二 法亡き人亡き
私は今一度、ため息を大きく吐いた。
「大きいとは言えない町でこんなことが起こるとは」
大きな独り言をわざと聞こえるくらいの声で呟き、眼下に広がる死体に目を向けていた。
その死体は朝霧に死亡していた。二度三度ほど腹部を刺され死んでいたのだ。
凶器は刺さったままの包丁。刃渡りの長いそれは、命を奪い慣れた風格だった。
「岩居巡査長、遺体を運びますので前、失礼します」
「ああ」
考え事の最中の一声は、何より大きく聞こえる。私の肩は大きく弾んた。
第一発見者は通りすがりの町人だった。この町人は散歩をする時、決まった場所を移動する。
私の見立てでは、無差別の殺しだと思っている。
何故ならば、すぐにでも人の通るかもしれない所で確実に殺すために刺しているのだから。
動機なき無計画な殺人ほど雑把で大胆なものだ。
お世辞にも大金を持っているような見た目をしているわけではなく、したがって内向的のような男を殺す利点は、まあ無いだろう。なにより盗まれたものは一切ない。
「岩居巡査長、記者が来ています」
「ああ、すぐ行く」
私は複数の巡査に手短に指示を出し、足早に記者の元へと向かった。
「今回の犯行、ずばりどういった風に見ているのでしょうか?」
「殺人、それも無差別の……、極めて凶悪な犯罪です。注意喚起を強くお願いします」
「なるほど、朝霧の中の無差別殺人ですか。それは恐ろしい、わかりました」
「あなたも何かあれば、一報をください」
「まだいくつか質問が。ええと、凶器と第一発見者、それと殺された人物の職業や人柄などを教えてください」
「ええ、まず凶器は包丁。刃渡りは
「ほう、重ねてわかりました。では、最後に、あなたのお名前を」
「私ですか? 岩居 和男です。岩に居ると書いて岩居」
少し深めの会釈をし、彼は自転車に颯爽とまたがり、勢いよく走らせた。
田舎の乱れた砂利道を行くたびにガタガタと金属と車輪が音を立てる。やがて音は小さくなっていった。
坊主も来たためと、精神的な面で弱り、その日は
建設された当時としては新しくも、今では一般化し古くなってしまった二階建て長屋の一階の扉を開け、敷かれっぱなしの布団に突っ伏して、そのまま私は倒れるように眠った。
夜になって目が開いた。何時頃かわからないものの、月の位置的に恐らく深夜だろう。
顔を洗って、今日を振り返った。
今思っても、殺人だろう。しかし、なぜそんなことをしたのか。いや、狂人の考えなどわかっては堪ったものではないが。
平和な日本において殺人事件など滅多に遭遇するものではない。加えて田舎だ。
それに今回の事件には動機がない。ないのだ。
「はあ」
私は今一度、ため息を大きく吐いた。
「もう朝か」
そう言って、朝刊をとる。一度寝たから、眠りが浅かったようで頭が浮ついた。
さっぱりするため新鮮な空気を吸いに外に出た。大きく伸びをする。
外には朝霧が立ち込めていた。
この時期にはよくあることとはいえ、昨日の事と言いひんやりとした空気は悪寒に似て全身を気立たせるのだ。
私はさっさと受けに入った朝刊をとって中に入った。
布団の上で
以下のように事件の内容が掲載されていたのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
朝霧の怪人、現る
薄明の時分にて無差別殺人発声す。五寸程度の包丁で腹部数か所、被害者は死亡。
現在、某詰所の警察官数名が調査中。長は岩居 和男。
被害者の職業は新聞配達員。発見者は町人。死亡者の名前は以下に記す。
死 伊藤 野次郎
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私はその記事だけを読み、詰め所へ向かった。朝霧はすでに薄らいでいた。
その日は目立った事件もなく、私は報告書を作成していた。
「今回の件、連続にならないといいですね」
愛想のない警官が世間話のように話しかけてきた。
「怖いことを言うな」
確かに動機がないのであれば、目的がないのだから再度行う可能性も捨てきれない。
のどかな田舎にあるまじき行為ではあるが、朝の警備は厚くして置いて損はないだろう。
「伊藤さんでしたっけ? ご両親が早くに他界して身寄りもない青年だったそうですよ」
「そうか」
「気の毒ですね、最期の最期まで、本当についていない」
「そうだな」
私にはそれ以上、何も言えなかった。
「さてと、見廻りに行ってきます」
そういいながら短刀を持っているか確認し、見せびらかすようにしてその場を後にした。
再び書面に向かった。
伊藤 野次郎という男は、何を思って刺され死んだのだろう。苦悶の表情ではなかったことが唯一の判断材料だった。
いっそ殺してくれと思ったのか、はたまた死んだことすらどうでもよくなったのか。
なんにしろ、私にはあの顔もこの事件も忘れることはできないだろう。
しばらくたったある朝霧の立ち込める日。
事件は再び叫び声をあげ生まれたのだった。
三 大は小を兼ねるか
事件から二ヶ月ほど経った。
記者の注意喚起の効果もあり、町の朝は急激に静かになっていた。
朝霧の怪人を題材にした寓話や怪談話で、子供たちは
そんな折、朝霧の濃い日の崖下に私はいた。
「朝霧の怪人……なのか?」
そこには崖から落ちたであろうそれは何度も打たれ身体の関節が増えており、辛うじて人間という
ほんの半年ほど前なら事故として解決していたのだが、朝霧に死亡し、その後発見されただけで、その疑念が発生するのだ。
「これじゃあ、突き落とされたのか、そうでないのか判別ができないですね」
「ああ、だが」
そう言いかけて詰まった。判別はできないものの、足を踏み外すことがあるかはわかる。
この遺体は綺麗な服を着た女性だった。つまりは死ぬつもりはなかったのだろう。
「だが……なんです?」
「そうだな」
肯定してしまった。まあ私の考察が外れている可能性はある。酒を飲んでいたりするかもしれないし、そうでなくても霧が濃ければそういうこともあるのかもしれない。
「岩居巡査長、記者が来ています」
「ああ、すぐ行く」
私はいつぞやのように複数の巡査に手短に指示を出し、足早に記者の元へと向かった。
「岩居さん、今回もよろしくお願いいたします」
「はい」
「ええと、早速今回の犯行ですが、また例の殺人なのでしょうか? それとも事故なのでしょうか?」
「今のところ判断は、
「なるほど、では事件の内容を詳しくお願いします」
「ええ、まず被害者は霧中の崖から落ちたようです。美しい着物の女性。ひどい状態で発見されました」
「心中お察しします。確かにそれでは自殺か他殺かどうかわかりませんね……」
「はい。まさしくその通りです」
「しかし、着物を着ていたのであれば、自殺する気はないように思えますが?」
「確かに、否定はできません」
「ですよねえ」
そういいながら記者の顔はわずかに笑っていた。
再び新聞が刊行される。夕刊ということもあって、記者は相当まくし立てたいと思っているのだろう。そこの一面にはこう書かれていたのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
再び、朝霧の怪人か
またも薄明の時分にて遺体発見。被害者は死亡。
遺体の状況より自死の可能性は低いと思われる。
現在、某詰所の警察官数名が調査中。長は岩居 和男。進展は明日以降まで待て。
被害者の職業は遊女。所持大量の金銭は奪われ不。
発見者は前回とは別の町人。死亡者の名前は以下に記す。
死 東 美千代
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
嘘は書いていない。しかし肝心の事故死とも書かれていなかった。
受け取りてにゆだねる半ば詐欺まがいの新聞を皮切りに、大きく騒がれることとなる。
その喧騒が一層私を含め、畏怖を与えるに十分だった。
弱った私は今日も帰宅を余儀なくされた。
その頃には、事件の詳細を知りたい野次馬や弘めたい記者が家の前に常駐し、どこに行ってもその話題ばかりで、精神的にも参っていた。
それのせいもあり今では深夜から早朝が私の活動時間だった。
最近はまともに寝れていない。浅い眠りを繰り返していたのだ。
私は、鼻先の冷たさに痛みを覚えて目が覚めた。
上体を起こし、頭をボリボリと搔いた。
「もう朝か」
妙に判然とした部屋の景色をひとつ、またひとつと確認しながら僅かに歪む視界を抱えて顔を洗いに水場に行く。
顔に水をかけ、袖で乱暴にふき取る。右の頬のにきびに引っかかり痛む。
痛みと財布を持ち、私は外に向かった。まだ外は薄暗かった。
時間はまだまだ早いのだが、囲まれるくらいなら詰所の方が安心するのだ。
夜道は暗く灯はほとんど無いに等しく、先に光りのみが到達した太陽のそれだけが頼りだった。辺りには朝霧が立ち込めていた。
男は叫んだ。そこに何かが見えたのだ。
情けないような、張りつめた声は住宅の壁や木々、小川などに無暗に木霊した。
ひんやりとした空気は悪寒に似て全身を気立たせる。
男は叫んだ。何かに怯えるように。影を見たのだ。
そうして男は一人呟いた。
「ああ、こういう感情だったのか」
そうして、私は自衛のために持っていた包丁を腹に突き立てた。
やがてあたりに、人の気配は消え、同時に男の生命も消えたのだった。
辺りにはただ、ぴちょんぴちょんと滴る音がするだけであった。
四 師ん気楼
「なるほどねェ、でもこれじゃあ解決しないままだよ?」
原稿用紙の最後の一枚をゆったりと机上に置いた。
「そこが肝なんですよ。解決しないままの事件、この晴れない鬱蒼とした気分になるただの日常。ナナメさんがよく言っているじゃないですか『人の生には人の死があるだけ』と、そこに種も仕掛けもないのですよ」
「ふうん」
不服そうなナナメは椅子もたれかかれて目を細めた。
柾は慌てて、それでいて取り繕いながら話を続けた。
「で、ですが、この事件は解決しようと思えばできますから!」
「それはまあ犯人の検討はついているが……しかし君ィ、それは教えてくれないのだろう?」
「まあ」
柾がうつむきながら答えるとナナメは『意地悪』とだけいい、窓辺に移り煙管を準備した。
「しかしながら、これは朝方に少しずつ書いていただろう?」
「ええ、そうですが」
「駄目だねェ」
「何が駄目なのですか? 朝は涼しくて気持ちが良いのでいい考えが思い点くんですよ」
「いや、それでもだ。だって月は文豪の友というじゃあないか。これから大成して竜に成るならば肝に銘じておくことだねェ」
「初耳です」
「そこは『そうですね』が良い返しってものだよォ。つくづく女心がわかっていないねェ、本当に男にでもなったのかい、君は。物書きにしろ男にしろ半人前だねェ」
煙が出たかどうかといったあたりで、柾はナナメの元へと近づいていった。
「だって、夜はあなたのお世話をしなければいけないのですから」
火はナナメの頬を紅く照らしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます