盤上の針屋敷 後編

    四  濡れ衣も衣



 止みと降りを繰り返す港町の不安定な梅雨は柾の心情を現しているようだった。

 一度ひとたび部屋に戻ることになった柾はいつものように鍵を閉め椅子に座る。

 ナナメは警官に連れられ、今頃は事情を聞かれているところだろう。

 とはいえ、貶められているとなれば、警察を納得させるのは至難の業。

 「そんなに悩んでもしょうがないじゃないかァ」

 いつの間にか、ベッドに腰かけたナナメがいた。さも当然のように柾に話しかける。

 「か、鍵は、かけたはずですが……」

 一息ついて静かに立つと懐から巾着を取り出した。

 そこから刻み煙草を丸め、煙管に押し込みながら歩み寄ってくる。

 「それはね、前にも同じような造りの鍵を開けたことがあるからさァ」

 「そんなことより、柾君は現在、危機的状況だねェ。私が来ていなかったらどうなっていたことか……。これは大きな借しだよ?」

 「それは、ありがとうございます」

 やれやれといった風にしながら火打石をカチカチ鳴らしている。

 「聞く所によると、柾君は肩身の狭い思いをしているらしいじゃないか。まあ、当らずも遠からずといったところかな。ああ、庭師のステファンさんからいろいろ伺ったよ。日本語が流暢で助かった」

 「驚かないんですか? 私の事……」

 火打石の手が止まった。

 「驚くも何も、知っていたからねェ……最初に疑問を抱いたのは君が尻餅をついた所さ。突然のことが起きると人間、どれだけ繕っていても素がでるものさァ」

 「あとは、そうだねェ。まあそのなんださっきも言ったろう? 『同じような鍵を開けた事がある』と。そういうことだ」

 しばらく同じ空間を共にしていて、柾は初めて頬を赤らめたナナメを見た。

 「……もしかして、僕の寝室、入りましたね?」

 「いやあ、違うんだ、ほんの出来心で、というか私の考察があっているか見たかったというのが本音ではあるんだが、まさかさらしを巻いて寝ているとは思わなんだよ……」

 火打石からようやく火種ができ、逃げるように息を小刻みに震わせ火種から火を育んだ。

 「ともかく、ほぼ最初から知っていたよ。柾君が私に首ったけということもね」

 くゆる煙が安定した頃合いに、煙管きせるを一息だけ吸うと、柾の口にその煙管を咥えさせた。

 「さあて、柾君のかたきを討つことにしようかねェ」

 柾は煙管が邪魔で口を挟むことができなかったが、悪い気もせず、やぶさかではなかった。



    五  歪んだ針



 分厚く広がった雨雲と傾いた太陽が気持ちをどんよりとさせていた。気が付けばあたりは夕方の早いうちなのにも関わらず暗かった。

 「とはいってもだねえ、この家は歪んでいるねえ。歪んでいる」

 柾は窓を少し開けて、雨が入らないように煙を逃がした。

 「の重さで歪んだェ」

 たびたび発せられる声が部屋に響いては、少しの沈黙が新たに埋め尽くすのを繰り返す。 

 「ところで、金で時間を買うことができる、という説を知っているかな?」

 「まさか! 時間をお金で買うことなんてできません」

 「それができるんだよ。まあ時間そのものを買うというわけではないがね。たとえば金さえあれば人を容易く動かすことができる。それは本来歩かなければならない距離を、無理言って馬や車を使うことだってできるのさァ」

 窓付近にいる柾のところへナナメがあるいていき、手に持った煙管を添え取り、いつぞやのように柾の膝に座った。柾には、ずいぶん見慣れていた光景だった。

 「しかし、この家にはあらゆるところに時計が置かれているが、一つとして正常な時間を指示してはいないようだねェ」

 残った煙管を少し吸ってから、意味を含んだ煙を外へ吐き出した。



 「というと、どういうことですか?」

 「まあまずはあの二人、使用人と君のお姉さんの証言。少しばかり扉の前で聞かせてもらったけれどねェ、もし警官の言っていることが本当だったら、あれらは嘘をついているよ」

 柾から離れたナナメは窓辺に煙管を乗せて、うるさい窓を閉じた。

 「自分でいうのもなんですが、本当に、僕が殺したという可能性もあるのでは?」

 「君の手は、この家の誰の手より美しい。そんな手を持つ君が衝動に駆られて、見えない罪に手をかけることは考えられないさァ」

 「ナナメさん、あなたがそんな根拠のない感情論で結論は急ぎません。早く教えてください」

 「ああ、まあ、柾君も言うようになったね。確かにこういう所も久しいからね、私も羽目を外してしまうこともあるさ。お望み通り恋文じみた語彙で君をむやみに口説くのは、一先ひとまずやめにしようか」

 逆に言いくるめられ、赤面するナナメは顔を袖で隠し、話しを続けた。

 「ではひとつ、まず柾君が仮に誰かを犯人として擦り付ける場合、動いているかもしれない相手を指名するかい? 賢い君ならしないだろう。なぜなら擦り付けたという嘘がばれるかもしれないからねェ」

 「動いていなかった、という確証がある人物でないといけないわけですね」

 「そう。ということは君のお姉さんと使用人は嘘をついている可能性があるねェ。まあすべてを聞いたわけではないから犯人とすることはできないけどねェ」

 その時、部屋の外から小うるさい鐘の音が響いてきた。

 「ということは、もう六時ですね」

 「そういえば、時計の音はこの屋敷中に聞こえるのかい?」

 「まあ楽器の練習、火打石で火起こしなどしていなければ聞こえるはずです」

 「ふうん、なるほどねェ」

 少し考えるそぶりを見せ、ニヤリと笑った。

 「いつもなら夕食をぼちぼちとる時間ですね」

 言葉の出の悪さに、思い出の悪さが現れていた。

 「さあて、もう少しゆっくりしようじゃあないか、どうせ食事なんか出てきやしないさ」

 二人はしばしの間、仕舞うことのない会話の風呂敷を広げるのであった。

 そして、窓から見える視線に気が付く余地はなかった。



    六  笑う‘角’には



 男は時計盤の丸い保護ガラスを外し、時計の内部をネジを急いで回していた。

 部屋は暗く、手元が狂う。なるべく傷をつけないように気を取り直す。

 汗でずれた眼鏡をかけ直し作業を続行した。

 「使用人の辰野たつのさん。そんなに慌ててどうしたんでしょうか?」

 手の震えをとっさに隠し、振り返る。そこには柾の姿があった。

 「おやおや、雅姫様ではありませんか。一体どうされましたか?」

 「それが……、お父様の柱時計に不具合が発生しまして、修理していた所にございます」

 「なにかあったのかい?」

 柾のすぐ隣には鼻と身長の高い、短い金髪の男が立っていた。

 「あなたは雅姫さまのフイアンセ、レオナルド様ではありませんか。如何なさいましたか?」

 「いや、六時になったら夕食ができると聞いてね、移動していたらこんなところに可愛いらしい女の子がいてね。気になって付いてきてしまったのさ」 

 レオナルドは平然と柾の腰を抱き寄せてくる。

 「そういえば、雅姫様はどうされたのでしょうか?」

 「いえ、友人に言われてあなたを探していたんです」 

 「私めを?」

 困惑する使用人が何かを言おうとすると声が遠くからはっきりと聞こえてきた。

 「さあて、その手を離してもらおうかねェ」

 その声は廊下の奥から響いてくる。ナナメの声だ。回していたレオナルドの手は天を仰いた。

 「単刀直入に言わせてもらうとしようかねェ。使用人のキミが、今回の事件を作り上げた真犯人だねェ?」

 「な、なにを仰いますか! 先ほどとと言い一体あなたは……」

 突然現れたナナメの一声に、使用人は明らかな動揺を見せた。

 「ふむ、面白いね、でもどうしてそう言い切れるんだい?」

 レオナルドは口笛を一吹きし、ナナメの姿をまじまじと見つめた。

 「今回の事件は非常にが甘いねェ。まあこの程度だったら、柾君にも解けただろうさ。もっとも、第三者のような立場で物事を考えることができたらだがねェ」

 「私の推測が正しければ、事件が起きた時間、ばらついていたんではないかな?」

 「おお、まさにその通りさ、昨日の事件について警官に聞かれたとき、みんなバラバラの時間を告げていたよ!」

 「れ、レオナルドさん! 部外者に余計なことを言うのは、些かどうかと思いますぞ」

 そう注意する辰野の額は汗に濡れていた。

 「ところで……時計が指し示す数字が正確だとは限らないと思わないかい? 最近は梅雨で雲に太陽が隠れることも少なくはないから日や影には頼れないし、外国人である彼の持つ時計が、来た時から調整されていなければ時差の概念で数時間の遅れが生じるだろう、この屋敷に正確な時間を刻む時計なんてないのさ」

 「そして、その中でもし唯一正確な時計を刻んでいるはずの時計がずれていたら?」

 「先ほど辰野さんは『不具合で修理していた』と仰っていましたよね」

 それは、と言いよどむ使用人をしり目には続く。

 「さあてと、殺された時刻はわからないが、殺されてから時計に細工をしたとして、細工をした真意は一体なんだったのか。それは簡単なことで、殺さざるを得ない状況になったからだね。例えばそれは細工をしている所に出逢わせてしまったからだよォ」

 「口論になってしまって、という可能性はないのかい?」

 「それはないさァ。だって、殺す必要が無いし、使用人と主の関係だ。いかなる場合であっても言い争うことはないだろう、この使用人が柾君に肩入れしていなければ、だがねェ。まあ、ないだろうが」

 肩をすくめるレオナルドは話を遮らないよう一歩下がった。

 「その場できっと思いついたのだろう。柾君に罪を擦り付ける事ができれば全て丸く収まるとでも。提案者は、というか細工の発案も恐らく同一人物だろう。話を聞くにお姉さんだろうね」

 「さ、早姫さきさんは関係ありません! すべて私がやったのです!」

 ナナメは煙管を懐から取り出しながらため息を吐いた。

 「ということだ。私には誰がやったかはどうでもいいのさァ、どうやったかが知れればねェ」

 「ああ、そういえば時計の細工に関してだがねェ、短針の裏に鍵でも隠したんだろう。重みで歯車の歯が押されて、時間が狂ってしまったんだ。細工したもののすでに時間単位でズレが生じていることからして、いずれは明らかに変な時間に鳴ると思って急いで戻そうとしたんだろう」

 火を点けて煙を燻らせるナナメは一服してから辺りを見渡した。

「してさっき、その盤を外して、鍵を取って短針を付け直そうとしたところだった。というわけさァ。まあ急いでいたんだろうし、重みに関しては想像に及ばなかったんだろうねェ」

 そうして、ナナメはおもむろに歩き始めた。

「柾君、行こうじゃあないか。喉が渇いたから、私のために珈琲を淹れておくれ」

 突然の行動にあっけにとられたその場の全員が、硬直していた。

 その時、柱時計内部の歯車がカチリと音を立て回った。そして大きな鐘の音が鳴り響いた。

 屋敷に響く時計の音を合図のようにそて、ナナメはニヤリと笑いながら振り返った。

「‘カネの切れ目が縁の切れ目’というじゃないか」

 鐘の音はその時、止んだ。



    七  絡む枝



 久し浅草のハロルドの借家二階、梅雨も終わりの頃を迎えそうな朝霧の日。

 柾はサイフォンで珈琲を淹れていた。窓に張り付いた水滴で風景は見えないが、その目は窓の空を見ていた。

「柾君の、その瞳に、一体何が映っているのかな?」

 肩に首を預けたナナメが、同じように窓を見る。しばらくして飽きたのか椅子に向かった。

「あれからずっとぼうっとしているね。なにかあったのかい?」

「……私、いえ僕は実の父が死んで、実の姉と使用人に嵌められそうになって、許嫁も振り切って今、ここにいます。それでいいのかと、思うことがありまして」

 言いながらも手はしっかり動いており、柾は珈琲を見事に淹れナナメの元へと運んでいく。

「なあんだ、そういうことかい」

「なんだとはなんですか、僕にとっては大事なことなんです」

「いやあ失敬、私は死や生にとんと興味が無くてねェ、それに付随している運命だの血縁だのは全く、これっぽっちも興味がないのさァ。あるのは‘人の生’だけ。今が良ければ……、それ以上の良し悪しを考えるのは驕りおごりというものだと思うがねェ」

 柾の顔は空模様と同様、晴れてはいなかった。

「いやはや、キミもずいぶんと大人になったものだねェ、もとより柾君自身が切りたかった縁だろう?」

 それはそうなのだがと言わんばかりに唸る様子を見かね、ナナメは立ちっぱなしの腰を抱き寄せ、膝の上へと座らせた。柾はいつもとは逆の立場に目を丸くしていた。

「私が居て、柾が居る。人ひとりを‘今’満足させているのに、まだ‘過去’の呪縛に縛られているのかい? 真っ直ぐ過ぎるんだよ、キミは。いや女々しい、というべきかな?」

 女々しいという言葉を聞いた柾は反論しようとしたが、いつもと違う体制だったからか、その拍子に体制が崩れて、もつれ転んでしまった。

「おや、ずいぶんと積極的じゃあないか」

「これはその。す、すみません!」

 離れようとした柾を手繰り寄せた。そして僅かながら力を込めた。

「な、ナナメさん?」

「もう少し、こうしよう」

 柾はそれ以上、何も言えなかった。柾には少し前の頼もしさとは全く別人に見えたのだ。

 細い手足と不健康なまでに細くくびれた腰に触れた柾は、そこに欲情するわけでなく、むしろ折れてしまいそうな枝を大切に抱き返した。そして優しい匂いが柾の鼻を通り抜けた。

 か弱い女がどうしようもなく愛おしく思えたと同時に、自分にとってのであることに妙な納得をし、再び柾にとっての男らしさを取り戻させてくれたのだった。


 ソーサーの上で斜めになったカップから垂れる珈琲はまだまだ温かい。

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