盤上の針屋敷 前編

    一  知らせの鐘



 連日の雨で、木造建ての家々から湿った心地よい香りが漂う浅草の昼少し手前。

 家の中にいても微量な水滴が永遠に体にまとわりつく季節頃。これに鬱陶しがる人々に漏れなく、柾は住宅二階でサイフォンに火をいれながら、窓に当たっては水流を残す雨粒を見ながらため息を吐いていた。

「おはよう、柾君」

 海外仕立ての家屋にはよくある、いわゆる寝室からはすっかり住み慣れた様子で扉に備え付けられた鍵が開く音がした。それはナナメが起きてくる合図のようなものだった。

「雨が降っていますね」

「こうも連日雨降だと、気持ちも沈むというものだねェ」

 欠伸あくびをしながら丁度淹れ終わった出来立ての珈琲を受け取った。

「しかしよくもまあ朝一番に珈琲を飲もうと思いますね」

「好きなんだ、これが」

 そう言いながら窓に近い椅子に座ったナナメは恍惚の表情を浮かべている。

 柾は顔を逸らし、しばらく気になっていたことをナナメに問いかけた。

「ナナメさんの本名、まだ教えてくれないんですか?」

「ふうん、でも柾君はまだ私の寝顔を見た事ないだろう?」

 袖で口元を隠しながらも口角を上げていたが、柾からしたら見慣れた光景だった。

「もう出会ってから二つほど月をまたいでいますがそれでもですか?」

「真面目というか、生真面目というか……。そんな顔をしても駄ァ目」

 そう言いながら珈琲を飲み切った入れ物を傍らに置き、突然階段の方へ歩き始めた。

「どこかへ行かれるんですか?」

「案ずることなかれさァ。君から離れることはないから安心するといい。なあに旧友と会う約束があるだけだよ」

 そういうと番傘を差して外へ行ってしまった。柾は開けっ放しになった戸に歩みを進め、息を吐きながら握り玉※  に手をかけてゆっくりと閉じた。

 振り返って見渡したとき、いやに飲み干したカップだけが目立った。

                                   ※ドアノブのこと


 柾は原稿紙を前に転寝うたたねをしていた。

 ナナメが行ってから、柾は思い付きで筆を執ったのだが冒頭が思いつかずほとんど白紙の状態で夢現ゆめうつつを行き来していた。

 その時ベルが鳴った。玄関に設置された鐘がチンとなったため急いで筆を置き、髪を整えながら玄関へと駆けた。いつまで、そしていつの間に寝ていたのだろうと思う暇もなく。

「マサキさん、グドモーニン」

 この部屋を貸しているハロルドが元気に鼓膜を刺激してきた。ここでようやく目が覚め発音よく返事をする。

「グドモーニング、ハロルドさん。いつもお部屋をお貸しいただきありがとうございます。今日はどうされたんですか?」

「それが、今朝ポスト見たら、ワタシ宛にこんなもの入ってました。でも、中身はマサキさんに関して書いてありました」

 そういいながら差し出された手には蝋印の押されていた手紙が握られていた。

「マサキさんの意志、大事です」

 その言葉と手紙を訝しんだのだが、それを受け取り中身を流して読んだ。

 誤字のない英文はタイプライターで書かれていた。しかし、そこには家出をした自身の事と、帰ってこなければ迎いを送ると書いてあった。

 無機質に、強い言葉を用いて書かれていたことから簡単に怒りの感情が見て取れた。

「ハロルドさん、ご迷惑をおかけしました。一度実家に帰ろうと思います」

「いいですか? マサキさん怖くなって逃げてきた。違いますか?」

「大丈夫です。今なら父とも話せるような気がするのです。根拠はありませんが」

「男らしくなりましたね」

 その言葉に笑顔で返すと、ハロルドは帰っていった。なぜか頭にはナナメを思い描いていた。



    二  人の為



「勝手に、決めないでください」

 絞って出た声はあまりに小さく、自分でもわかるくらいには震えていた。

「勝手だと? どの口が言っているんだ。突然家を出て行ったかと思えば、髪を短くし、女といるだと? 笑わせるな。誰に育てられたと思っている。恩を仇で返すとはこのことだな」

 父の隆己こうきは、その一代でその地位を築き上げた豪商として、港町では有名だった。

 獣皮でできた絨毯を踏み、父は前へ立った。

「なんだこの髪は!」

 髪を掴まれ、頭ごと床の方へと放り投げられた。体制が崩れ、首の筋が痛む。

 滑稽な姿を見て隆己は口角を上げながら背を向け歩き、ゆっくりと椅子に座った。

「まあいい、見合いの話を設けた。相手は欧州とつながりのある商人。半端なお前でも結婚するくらいはできるだろう。少しは家の役に立ってくれ。ただでさえこれから忙しくなるんだ」

 吐き捨てるように放たれた言葉は、崩れて動けないままの耳に流れ落ちてきた。

雅姫まさき!!」

 頭部の痛みと隆己の声を置いていくように、その場から逃げた。

 扉の軋む音だけが耳にしがみついて離れてはくれなかった。



 取ってつけたようなほどほどの部屋に一人、久しく入ったにしては埃のない机の上で、誰が聴いているわけでもないのに声を押し殺し、袖に涙を吸わせていた。

 いつもの癖で鍵をかけていた。思えばすでに独りの空間に憧れていたのかもしれない。

 とはいえ慣れない海外仕様の常設された寝床では落ち着かず、部屋の中で柔らかいものと言えば腕くらいしかなかったのだ。

 目から得た風景がずっと一連の動きを繰り返していた。声は今まさに発言しているかのように、耳元で鮮明に聞こえた。

 かくも短い言葉のそれは自身を現す、同音異義に関わらず発せられる声は確実に一つを示したのだ。


 逃れられない


 血縁というものが運命を決定づける。

 助産師が腹から緒を切ってもなお切れないそれは、自身を縛り付けるには十分だった。

 もういっそ殺してしまえば楽になるのかと何度も思うものの、結局はが流れているのだから、別段変わりないのだろうと思ってしまう。

 幾ら経ったのかわからない。いつの間にか降っていた雨音がかき消していた声も枯れ、やつれた顔が窓の透明なガラスに映っていた。

 部屋からは紫陽花あじさいが雨粒を跳ね飛ばし踊っているのが見える。


 無駄に大きなこの屋敷こそ、父の強欲さを現しているといえる。その父に媚びる人間も多く見てきた。いずれも父の人柄になぞ惹かれてはおらず、目の奥には金の字がいつも映っていた。

 「類は友を呼ぶ……、よくできた言葉だな」

 発せられた声は柾ではなく、雅姫のものだった。もう隠すことに意味などなかった。

 ふと、書斎から時刻を告げる鐘の音が聞こえてきた。

 雅姫の幼少期より父は時計を集めることに密かな楽しみとしていた。その導線に火を灯した原因となったのは、ひとつの柱時計だった。

 その柱時計は、決まって三時間ごとに内蔵された歯車がその時を知らせる鐘がなるのだ。

 「忌々しい」

 寝ても覚めても、あの鐘はいつも決まった時間に、何年も何年も鳴り響いてきた。

 定刻を示す針や目を覚ますような轟音を鳴らす柱時計は、自身の運命のような気がして昔から毛嫌いしていた。歯車はその身体から逃れることはできず、人の手によって作られて、死ぬまで動き続けなければならないのだ。可笑しな動きをすれば修正され、また動くのだ。

 男装し、名前を偽ってまで浅草の町に逃げてきたのにも関わらず、今こうして父の威喝で全てが剥がされる始末。

 情けなさで悲涙がぶり返しそうになったため、顔を逸らした。

 「ナナメさん、会いたいな」

 いつの間にか眠っていた。時間は昼の十二時、雨音は浅草で聴くものと同じく聞こえた。



    三  「盤上の十二人」



 玄関から聞こえる騒がしさで目が覚めた。

 どれだけ寝ていたのか、いつの間にか濡れた紫陽花は踊りをやめていた。

 乱れた服と薄っすら飛んだ記憶を整えて、ともかく玄関の方へと向かった。


 玄関にはレインコートを着た警官か複数名、そしてよく知る父を除いた、母、姉二人、兄、弟、お見合い相手らしき男、使用人と料理長と見習い、そして庭師の十名だった。

 端の方にいた庭師のステファンに何があったか聞いてみた。

 「ああ、御父上様が亡くなったんですよ」

 「そうですか」

 驚くことなど何もなかった。強いて言うなら目の上のこぶがスッと引いたようなものだった。

 淡泊な返しにステファンは驚くこともなく、ただただ静かに頷いていた。

 「荒れますな。これがこの家の終わりか始まりか」

 「そうですね」

 心底どうでもいいとは思いつつ、何かしらの波紋が起こるのだろうと高揚に似た心臓の鼓動が自身の身体を揺らしていた。

 「この家が潰れるようなことがあっても、ステファンさんだけはどうにかしたいものです」

 「相変わらず、お優しいものです。この家にはもったいないお方ですね。出ていかれた時はこの家もついぞ見放されたと、終わりを迎えるものと、思っておりましたが」

 突然話を割って不躾な警官が会話に入ってきた。 

 「すみません、佐島 雅姫さえじま まさきさんで、間違いないないですね?」

 「はい」

 「失礼ですが、あなたに父親殺人の容疑がかかっています」

 「は?」

 「それにはまずあなたの行動を整理する必要がありますので、一先ず別室でお話を伺いますので、三十分後くらいに客間まで来てください」

 淡々と話を進められ、気が付けば有無を言わさず終わっていた。

 ふと辺りを見ると姉や兄をはじめとして、使用人や料理人にすら軽蔑の目を向けられ、心臓の下あたりが痛くなった。

 そもそもこの家では庭師のステファン以外に、というより外国人以外の仲のいい人間はいなかった。日本人独特の何かがそうさせているのか、何故か侮蔑と穢れに塗れたような、歪んだ生活を送っていた。

 「一体、何があったのでしょうか」

 「さあ、私にはわかりません。しかし私がわかるのは、あなたはそのような事をする人ではないということだけです」

 恥ずかしさか、まだ二十分余時間を持って客間に赴いた。


 「単刀直入に申し上げますが、あなたの御父上が何者かに刺されて亡くなっていました」

 「はあ」

 「ところであなたは二時間から一時間ほど前に何をされていましたか?」

 「ええ、自室で寝ていました」

 「と、それを証明する人はいますか?」

 そんな人なぞいるわけがない。いたとしても誰も自分のために証明などしてくれるはずもない。心の中で嘲笑しながら、返事を紡ぐ。

 「いません」

 「そうですか。実は血縁関係者であるところのお姉様の早姫さきさん、使用人の辰野たつのさんがあなたの事を見たという証言をしていましてね」

  なるほどそういう魂胆か。貶めもここまでくれば清々しい。

 「証言をしている以上、あなたから何もなければ、ご同行願うことになります」

 「それは」

 「ありませんね。証言されているのですから。間違いないでしょう。それに他の方々から『殺してやる』と言っていたことも証言にあります。他にもたっぷりと」

 あれよあれよという間に丸め込まれて、連行しようとしているのか、両開きの扉の前に後ろに手を組んで話をしている。

 「では、これからいろいろな手続きを行いますのでご同行お願いします」

 そう言いながら振り返った警官の背後にある扉が音を立てて開いた。


 「待ちたまえェ。王将を守るため、金駒かなごまが参上したり。差し詰め銀かなァ?」

 

 何故かそこにナナメがいた。袖を隠したその姿は女神とさえ見てしまう。

 一方腰を抜かしたのか膝から崩れ落ちた警官が壁に手をついてゆっくり立ち上がった。

 「おい、君! 一体何の了見があってここに来たんだ! 公務執行妨害で……」

 「いやはや、った胡麻程よく香るねェ」

 その時、雅姫の中で何かが落ちた。

 「柾君。一体どこに行ったのかとハロルドさんに聞いたらここを教えてもらってねェ」

 ナナメは柾のところへとゆっくりと歩いてきた。そしてひざまついてからこう言った。

 

 「佐島 柾さとう まさき殿、私は銀、千鳥に動いて守りましょう」

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