天の上に人は無

    一  序盤の天井



 春先特有の雪解けで光が乱反射する浅草の朝。

 肌寒さはまだ続き、吐く息は白く空気に溶けていく。

 そんな早朝の、隙間の陽ざしが辛うじて詰めたい石材の床を照らような場所に佐藤 さとう まさきとナナメはいた。

「柾君。一体全体、私たちが何をしたっていうんだい? 牢屋に放り込まれる謂れはないよォ? ……柾君? そこにいるんだろ? まさか寝ているんじゃぁないだろうね?」

 この質問は、この牢屋に前日昼に入ってから今で二十を超えていた。

 隣の牢屋に入れられている柾は、無色の天井を見ながら寝転がっていた。

「それはナナメさんが知らない家屋に勝手に乗り込んだからでしょう?」

「いや、しかしだねェ、悲鳴が聞こえてなにもしないなんて、私の好奇心が泣いてしまうよォ。それに実際殺人事件が起きていたんだからねェ!」

「乗り込むだけならまだしも、警察をよそにナナメさんが怪しい行動ばかりとるから、いの一番に放り込まれたんじゃないですか」

「……」

「突然黙らないでください」

「いやいや、あの警官が悪いのさァ。明らかに部外者だと分かっておきながら、ただ一言二言皮肉を言っただけでこれとは、さすがの私も驚いた」

「あの顔で温かいお茶がいただけそうでしたね」

 ナナメは短く笑うと一息ついてから話題を変えた。

「そうだ、将棋でもしようかねェ」

「将棋ですか? 盤も駒もないですし、対面すらしていませんが」

「おや、柾君は空でできないのかい?」

「おそらく大半の人間はできないと思います」

 柾の牢から石をするような音が聞こえてくる。地面に板を描いている。

「まあ脳内でできなくてもいいか。先手はどっちがする?」

「そちらでいいですよ。レディファーストで」

「ほう、言うね。では〈7‐六歩〉から行こうかな角の効きをうまく使うのが強くなるコツだよ。柾君」

「さすがさんですね。では私も〈3‐四歩〉で行きます」

 二人の対局は静かに牢内に響いた。



    二  中盤の疑問



「そういえば、ナナメさんは今回の犯人の目星などは付いているのですか?〈3-二玉〉」

「目星、というより犯人ならもうわかっているよ。〈8-八玉〉」

 守りに手数を利用し、柾の攻撃をうまくいなしているナナメは、以前自身の体制を崩すことなく柾の質問にも答える余裕があるようだ。

「さて、ではあの家に起きた顛末を整理しよう〈2-六銀〉」

「結婚式が行われていたんですよね。確か名のある硝子工芸師のお弟子さんが結婚するとかで、身内を集めいそいそと〈3-三角〉」

「ふむ、午前中から行われ、事が発覚したのがお昼の少し過ぎたあたりか。殺されたのはその師匠らしいねェ。発見したのも叫んだのも花嫁。絞殺で、死亡してから間もなかったようだ〈1-六歩〉」

「家はコの字型で大きな中庭が。宴会場から師匠の遺体は反対側でした。どの部屋からでも中庭は見えますし、各部屋にはお弟子さんの部屋がありました。真ん中くらいの部屋には台所もあるようです〈1-四歩〉」

「中庭を突っ切れば速度によるものの十秒もあれば現場に行ける。部屋や廊下を迂回するならば一分弱はかかるだろうねェ。どちらにせよ目撃者が気になるところだが……〈1-七桂〉」

「でも、ナナメさんは犯人はわかっているんですよね?」

「無論。いや、しかし犯人はいずれ自白するさ。それでなくても警察はいずれ犯人を捕まえるだろうさァ。ま、それまでに幾人かは誤認されるだろうが」

「そうなんですか?」

「ああ。そうだな、まず料理人の男、次いで二番弟子の優男、そして女中かな」

「その予想が当たったら警察は本当に無能ですよ」

 すると扉が乱暴に開き、柾の牢の方へ白い衣服のいかつい壮年男が放り込まれた。

「ほらねェ」



 白い衣服の壮年男は悪態をつきながら格子を両の手で揺らしている。

「まあまあ落ち着き給え、名もなき料理人。急いても警察の動きが早くなるわけではないさ。だからこそ話を聞こうじゃあないか。昨日から終始二人きりで話がちっとも積もらないんだ」

 柾は少々むすっとするが、いつものことと割り切り、料理人に話を振った。

「それでその、あなたはなぜここに?〈同歩〉」

 揺らし諦めた料理人は柾の近くに胡坐あぐらをかいた。

「なぜって、私も突然筋立てられて、気が付いたらここにいたからね。乱暴な筋だったよ」

 隣の房から押し殺したような笑い声が聞こえてくる。

「曰く、厨房から部屋が近く、料理を持っていってから……ああ、師匠が殺されたのを最初に見つけたのは私だったわけだが、料理を持っていった時に殺し、再び見に行った時にわざと騒ぎを起こしたのでは……と言われてね。そんなことを言われても、師匠とは親友だし、それはもちろん喧嘩は多かったが、ただの腐れ縁だ。動機だなんだと言われても、殺したってなんにもならんだろうに」

「その通り!」

 突然隣の房から話を遮るかのように、ナナメが割って入ってきた。

「いやあ、君は実に災難な目に逢ってしまっているねェ。殺すにしても絞殺では時間がかかる。いくら親友でも無言で十分近く出てこないのは、間柄上でもおかしい。それに、その線ではまず真っ先に女中を怪しむべきだからねェ〈同飛〉」

「まったくもってその通りだ! 嬢ちゃん、本当にその通りなんだよ……ところで、将棋でもやってんのかい?」

 器用だと言いたげな表情で覗き込んでくるも、盤が地面に書かれているだけの様子を見ると、さらに感嘆の息を吐いた。

 すると、また扉が開いた。暴言を吐きながら袴を着た青年がまたも柾の牢に放り込まれた。



 袴の青年は慣れない暴言を吐いたからなのか、疲れた面持ちで壁にもたれかかった。

 そして、白い服の壮年男と目が合い、短い驚きの後、何か悟って再び疲れた様子となった。

「さあ、君も聞かせておくれよォ。新郎さんだろう?〈7-三角成〉」

「その声は……先ほど入ってきた美人さんですか。あなたも入っていたんですね。てっきり帰ったのかと思っていました」

「ああ、私も外へ連れ出されるだけかと思ったら、まさかまさかここにいるというわけだ。君は差し詰め、今回の結婚をあまりよく思っていない師匠とのいざこざで殺したといった所だろう。ああ、もちろん犯人は君じゃないことは明確だ。君では……その……殺すほどの勇気を持ち合わせていなさそうだからねェ」

「まさしくその通りです。警察の暴論にしてやられて、あれよあれよという間に連れてこられてしまいました」

「それは難儀でしたね……〈3-七桂成〉新婦さんは今どうして?」

「ああ、あれは今、仲のいい女中、兄弟子らと一緒に葬儀の手続きや遺産、さらには家をどうするかなどを考えているはずです。とはいえ、きっと心許無いはずです……。今こそ私がそばにいてやらねばならないのですが」

 青年は握りしめ苦虫を嚙み潰したような表情となっていた。

「ところで、君はいつ新婦と出会ったんだい?〈5-一馬〉兄弟子より先に結婚するのは、なかなか骨が折れるだろうに」

「ああ、それが突然決まりまして……半年くらい前からあれよあれよという間に縁談が進みまして。最後まで反対していた師匠が今回あんなことになってしまって。今回も御冠だったので欠席していたのですが、元々怒りっぽい方だったので、いつもの事だろうと思っていたのですが、まさか……」

「ふむ、それは残念だ。しかし、師匠は最後まで大切なことを言っていたようだねェ。さぞ先見の明に長けていたのだろう。もしくは長年の勘か」

「私は通り魔にでもあったのかと思っているのです。我が一家に父同然の師匠を殺すほどの不届き者はいませんから。」

「はあ、君のような楽観人間は、この牢にいる方が何の心配もなくて済みそうなものだ」

 首をかしげる新郎をナナメは見れているかのように、話しを続けた。

「さあ今回の事件のお悩みの君に、もうすぐ今回の鍵となる人物が来る頃かな」

 扉がけたたましく開き、罵詈雑言を喚きながらも羽交い絞めにされた状態でナナメの牢に割烹着を着た女性が放り込まれた。



「その声は女中か!」

「やァお嬢さん、ごきげんよう。犯人に間違われてしまうなんて大変だねェ」

 お嬢さんと声をかけられて気持ちがいいのか前掛けと咳を払いつつ話をする。

「先ほどから次から次へと警察さんに連れてこられて、怪しいとは思っていましたが、まさか手あたり次第に放り込んでいるとは、警察には失望です!」

 数名の同意のうなり声が響く中、声を上げたのは女中と呼ばれた女だった。

「そういえばあなた、ここの中に本当の犯人がいないことを存じているの?」

「ああ、もちろんだともォ!」

 柾はついぞ駒を進める間を逃したことを後悔しつつ話を聞くことに専念した。

「さあて、まずはなぜ君がここに放り込まれたのか。それは君が不要になったからだ。君は差し詰めについて問い詰められた時、答えるのをどもったからだろう?」

 息継ぐ間もなく話を続ける。女中はばつの悪そうにしている。

「さて、今外で新鮮な空気を吸っているのは、一番弟子と三番弟子、隣の牢の妻の三人。さて、そこに真の犯人がいるわけだが……して柾君は誰だかわかるかねェ?」

「情報が無い所でいうと、やはり妻は怪しみます。話を聞くところによると師匠は怒りっぽいのですから、とんとん拍子で決まった結婚ということもあって衝突することも少なからずあったのではないでしょうか?」

「ほうほう、そんなところだね。まあ警察も、もうじきにそれを疑い始めるだろうさ。さすが柾君は警察の数歩先を行っているねェ」

「あまり褒められた気がしないのは一体……」

「さて、そんな柾君にもこんな話があってね……時に人はねェ、特殊な場面にひどく高揚する、という実験がされていてねェ。例えば視覚。目が見えないというだけで想像力が掻き立てられ、時として感覚すら研ぎ澄まされる。盲人が物の場所を当てられるように、別の感覚が際立つのさァ。もうわかるだろう?」

「空白の時間が生まれたの正体。人はそれを‵性癖′とも呼ぶようだ」

「目隠しで情事をしていた。焦らすなら、あるいはうっとりしているなら数分程度は充分だろう? お嬢さん」

 お嬢さんといった後しばらく沈黙は続く。返事はないものの、きっとうなずいているのだろうと、きっと正解なのだろうとなぜか納得した。

「で、肝心なのはお相手だねェ。ちなみにだけれど、犯人は二股しているよ。残念だが二番弟子の彼は、恋愛でも二番手のようだ。ああ、可愛そうに」



    三  終盤で詰み



 啜るような煩わしくも環境音にも似た音を立てる可哀想な男をしり目に話を続けた。

 柾はもう終盤の話だろうと、内心とても高揚していたのだった。

「さて、結論から言うと犯人は一番弟子だよ。まあ消去法でもわかるのだからここは省こう。妻が犯人でないのは、彼女に利点がないことに尽きる。冒頭悲鳴を上げたのは彼女だったのを覚えているかな? 女中は目隠しを外していた所だろうから見ていなかったとして、発見した彼女が犯人なら叫ぶ必要はないし、あったとしても万が一にも一番弟子が捕まってはいけないからねェ」

「通例なら一番弟子が結婚するのが妥当だろう。なんせ、一家の顔だからねェ。家族であろうがなかろうが、一番の弟子が結婚してくれるのが、師匠……いやある種の父としては一番孝行として嬉しいだろうよ。では、二人はなぜ結婚しなかったのか。それは、きっと身ごもったのだろうねェ。半年だろう? 身ごもったかどうかは充分に分かるだろう。」

「二人の間で身ごもったことがわかってしまったが、見境なく孕ませたとなれば一家の恥じともなりかねない。自身に汚名が付いてしまうからねェ。そこは新婦が機転を利かせたのか、自分で考えたのか……こういう場合は大抵男だがねェ」

「隠し通すだけなら問題のなかった師匠がなぜ殺されたのだろうか。それは師匠が気が付いたからだろう。なんせ、先見の明を持つ優秀な人間だ。きっと、忠告始め視野には常に入れていたのだろうねェ。が、いいように使われていることを知った師匠は新郎君に怒っていたんだろう。単純に結婚に反対するなら勘当などすればいいものを、なぜしなかったのか。それは最後までなんとかしてみせろと言いたかったのだろうねェ」

 言い終わる頃には牢内は空気の音があたりを埋め尽くすほどに静かになっていた。

「おっと、お涙頂戴な話ではないから、そこははき違えてもらっては困るよ? さあ、あとはお嬢さんがについての証言をしてくれれば我々は元のように新鮮な空気で呼吸ができる。もちろん、してくれるね?」


 その後は言うまでもなく、数時間後には牢の扉が、簡単な謝罪の意と共に開けられた。

「さあて、これで久しぶりに柾君と対面できる!」

 相変わらず花魁のようにはんなりと、袖で手先と口元を隠しながら、腕を絡ませてきた。

 それをしり目に料理人を始め数名が出ていく。代わりに噂の一番弟子が入ってきた。

 端整な顔立ちの男が入ってくる。これは確かに女性を困らせそうだと柾は思った。

「ほうら、どこを見ているのかなァ? さあ早く私にパウリスタの珈琲を淹れておくれよ。もう手が震えてきているんだから」

 そう言いながら扉を出る。その時、一瞬だったものの確かに、ナナメは獣を見るような目でその男を見ていたのを柾は見ていた。

 心がどこか、居ても立っても居られなくなり話を振った。

「そういえば将棋、終わっていなかったですね」

「ああ、あれならキミの勝ちだよ。話していてもいけると思ったんだがねェ、攻めおおせられてしまった。意外と柾君は攻撃的なんだねェ。私がナナメならキミはマッスグ、いわば飛車といった所かな? 私たちは意外と相性がいいのかもしれないよ?」

 からかわないでくださいといった柾の口角は少しうわついていた。




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