浅草心中一人二役 後編

    四  性と愛の天秤



 冬の香りを残した昼頃の浅草大通り。

 腹を空かせた住人の足取りも、料理の匂いにつられ遅くなる。それが理由なのか、喧騒に似た賑わいも心なしかゆったりと感じる。

 しかし、そんな大通りの脇にある静かな住宅区画の裏に響く靴音がふたつ。

「なあ、柾君。腹が空いたんだがねェ……。そのォ、もうそろそろご飯をだねェ」

「そうですね、お昼時ですしどこかで食事を摂りましょう。ご所望はありますか?」

 細い路地を抜けながら、懐のを確認する。まだ余裕があるのを確認すると、先を行くナナメの後ろを少し足早に追いかける。

「そうだねェ、ではここはひとつ、佐島君の手料理でも食べたいね」

「せっかく大通りまで来たのに、ですか?」

 至って平凡なことのように‘ああ’とだけ答える。そして首を傾げながらつい口に出てしまう。

「僕が料理ができるって、いいました?」



 借家二階に置かれたアンティーク調のテーブルには、似つかわしくない日本食が並んでいる。

 柾が最後のお皿を置くと、椅子を引いた。

「やはりこうでなくては、日本人は日本人らしくするべきだと思わないかねェ?」

 そういいながらすでに箸を進めている。柾も箸を持つ。

「それで、今しがた手に入れた情報を、整理したいのですが」

「そうだ、それがいい。まずは浅倉家。そこでは同じように男女が自殺した。お互い愛し合っており、経済難に陥っているわけではなかった。それは近隣住民からの話で分かったねェ?」

「最初の心中ですね。よくあるような新婚の一般的な家庭だと思います。二件目は北見家ですね。これは結婚してから数年経つような家庭で子供もいました。その子は母方の祖母が面倒を見ているようです。また経済難ではなく、新婚夫婦が絶望を感じるような面は検討がつきません」

「最後に行った齊藤家は特に興味深い。まあほとんど話してくれはしなかったがねェ。少なくとも新婚、且つ子供もいる幸せな家庭だった。しかし、今回は後追い自殺だったねェ」

「といっても、結果的には、なんら変わりません。後追いまでの期間は数日。寂しかったのか、なんなのか。ナナメさんは、何かわかりますか?」

 柾は応答がないのを不思議に思い、ナナメの方を見た。

「佐島君、キミは少し楽をしようとしていないかい? 私という大駒を使えば、簡単に攻め果せることができるほど、相手は優しくはない」

「想像しろ、と?」

 ナナメはニンマリと笑った。首を左右に揺らし柾の説を待っているようだ。

「……まずは、少なくともこの三件とも経済難もなく、中には子供がいる家庭もあるくらいには幸せそうです。旦那は稼ぎ、嫁は家事育児をする。密会はおろか、不審者や辺りをうろつく人物すらいなさそうです。一見すれば、双方同意の上での、心中に見えます」

「それで?」

「え?」

「え?」

 ナナメは天を仰いだ。箸に引っ付いていた魚の骨が机の上にピトリと落ちる。

「ああなんということだ。人間は人間を観察することをやめてしまったのだろうか!」

「そう言われましても、身内の不幸で悲しみに暮れている中、不躾ぶしつけに門を叩いたのはナナメさんでしょう? それに加えて『どちらか不倫していたか』だなんて」

「それが一番早いからだよ。回りくどい言い方や、気を遣うことなんてしていたら時間がいくらあっても足りないよォ? それに……」

 そう言いながら汁物を口に含み、それをゴクリと飲んでから一息ついた。

「美しすぎるんだ。柾君の考える結婚観はわかる。でもねェ、私からすればそれは綺麗事で在って、幸せな様相なんて見た目形。所詮は生物の本能を正当化するためにしているだけに過ぎないのさァ。愛は、性に勝つことはできない」

 舌なめずりをしながら鼓を一打ちした。

「うぶだねェ」

 ただ言うことも言い返すこともなく口へと物を運ぶ柾は、少しばかり下を向いていた。そこからしばし沈黙が続いた。

「まあそのォ、それが柾君の良い所でもあるんだが。」

 ナナメはバツが悪そうにしながら話を続けた。

「私が最初に言った二つの事を覚えているかい? 自宅で死んでいること、そして既婚であること、の二つだよ。心中は、なにも自宅で死ぬ必要はない。既婚している必要もない。ではなぜ、死ぬに至ったのか。考えて行けば、結婚している二人に何か異変が起きた、あるいは起きていたことが想像できるね?」

「それが、ナナメさんの言う所の『どちらかが不倫していた』ということですね?」

「そうさ。順を追えば、その前に『結婚をしなければならない状態になってしまったから結婚しただけ』が入るけどねェ。子供は夫婦のかすがいだということだ。できてしまっては、世間体を守るためには結婚せざるを得ない。まあ、よくある話さァ」

「なるほど。つまり、性的関係を持った人間がいくらかいる中で、子供ができてしまった。そしてその人間との関係は、状況が変わった今も続いている、と?」

「そう、その通り!」

 すでに二人は食事を終わっており、柾は食器を片付けながら話をしていた。

「でも、そうなっていたとしても二人して死ぬ理由は無いのではないでしょうか? 仮にどちらかが不倫していて、それに気づいたとしても精々別れるか最悪殺すか……。どちらにせよ、自殺することなんて、あるのでしょうか?」

「そこが鍵さァ。不倫に気づいても柾君の言う通り、自殺する思考にはならないだろうねェ。一先ず飲んだ絶望だからね。結婚を余儀なくされたにもかかわらず、死ぬ理由、それは‘それが折衷案だったから’だよ」

「……すみません。よく、わかりません」

 やれやれと言わんばかりに、ナナメは顔をペタリと綺麗になった机に右頬を付けた。



    五  好きの隙



「君は本当ォに、理解に乏しい頭をしているねェ」

 窓際に座り直したナナメは、出窓に頬杖をつきながら拗ねていた。

「いいじゃないですか。ほら、珈琲を淹れたので機嫌を直してください。」

「おお、わかっているじゃァないか!」

 目を輝かせながら背筋を伸ばし、珈琲を持って、カフェインの香しい匂いを嗅いでいる。

「しょうがない。深堀して意味を教えてあげよう。」

 柾は正面に据える椅子に座り、砂糖をいれながら珈琲を飲む。

「まず、仮にこれらの結婚が不本意であったとしよう。一夜限りの恋は愛には変わらない。しかしそれは子供ができて少し変化していく。なんせ愛が形を成して顕在するからねェ。」

「たいていは母性というものが働くからして、変化していくのは女性側。男性側の愛が変わらずだった場合は、この天秤の傾きは大きくなる一方」

「人間というのは不安定を望まない。正しきを義とし、歪を忌避する生き物だからねェ。嫌われるのが嫌いだから世間体を守るため結婚するし、間を取りたがるのさァ。今回は女性は男性側から得られる愛を渇望すれども得られず、男性は今まで通りの日常を保とうとすれどもうまくいかず……。この時、双方愛を求めているということが要点だ。そしてそれが‘隙’となった。」

 飲み干したカップを寂しそうに机に置くと、柾の‘上’に座った。

「な、ナナメさん?」

「できた隙に付け込むのは簡単。特に女性にはね、しかしばかり今回は男性でもあるようだ。」

「近いです。重いのでどいてください」

「もちろん、色仕掛けをして、ね?」

 背もたれになっている柾の耳元で囁いた。柾は反射的にナナメを突き飛ばしてしまった。

「つれないなァ。いや、うぶなだけかな?」

「それより、なんですか、女性でもあり男性でもある? というのは。」

 ナナメは再び窓辺に座り直した。

「そういえば、柾君は私の推察に『新手の洋妻か』と言ったねェ。実に面白い比喩だ。キミは考察する脳はある。おまけに度胸もある。少々の好奇心も持ち合わせている。」

「何が言いたいのでしょうか?」

「いいや、今回の鍵となる人物は存外君に似ているようだと思ってね。さて、柾君。珈琲を淹れてくれ。三人分だ」



    六  詰みと罰



「三人、ということは誰か招くのですか? まさかハロルドさんではないですよね?」

「まさか! だが客人ではある。もうそろそろ来る頃だが」

 時間はおおよそ午後の二時頃といった所だ。いつそんな約束を取り付けたのかといぶかしんでいると、ナナメは柾の袖を掴み立たせた。

 納得のいかないまま珈琲を三人分、言われた通りに淹れる柾は、沸騰したお湯を逆流させ、一気に珈琲豆の匂いを部屋に広げる。

「さて、お迎えの準備は整ったねェ。柾君には、怪しまれず家庭の内情を知ることができ、且つこの浅草という地をくまなく巡ることができる人物を紹介しよう。」

 扉を開け、一階に向かうナナメをあっけにとられ、柾はただ見ていたのだった。

「一体いつ出逢って……もしかして僕が喪中の方々に謝りを入れている時じゃないでしょうね」

 そういいながらも、柾はナナメを追いかけ急いで一階に降りた。ナナメは玄関の扉の前に立って待っていた。

「さあ、こちらの方が今回の主犯にして、善なる心を持つ天の使いだ」

 扉の奥には、夕刊を手に持ったまま、あっけに取られている配達員の男の姿があった。



「あの、困ります。俺、まだ配達をしてる最中なんですが」

「まァいいじゃあないか。十分か二十分くらい世間話をしよう」

 ナナメは玄関を開けてから、有無を言わさぬ手付きで内側へと引き入れた。すかさず背中で扉とかんぬきを締めた。そのままその配達員の背を押し進め、座らせた。僅か一分ほどだった。

「俺とあなた方は初対面ですよね? 誘拐なら警察を呼びます」

「ナナメさん! いくら何でも急すぎます。この方は一体?」

「さっきも言ったろう? 柾君が探し求めていた一つの刺激、もとい一連のさァ」

 ニヤリとしながら‘見てごらん’と言わんばかりに、柾の背後に回り、両肩に手を置く。

「こんな茶番には付き合っていられません。帰らせていただきます」


「救いたかったんだろう? 彼女らを」


 扉にかかった手が止まる。

「一体、何の話で?」

「いや、本当はもう少しゆっくりと話したかったんだ。この珈琲でも飲みながらねェ。どうぞ、席はちょうど一つ空いているよォ。」

 渋々彼は座った、恐る恐るカップに手をかけ飲んだ。

「一連の心中は全て家の中で起きている。家の外で自殺しないのはなぜか、それは先に自殺している方がいるからだ。外で死ぬと家の中で死んでいる方の説明がつかないからね。しかも先に死んだ方は殺されたように見せかけているときたら猶更だろう?」

「確かに! でも、それだと自分以外の誰かが殺したことにできませんか?」

「いいや、置手紙さ。いや、遺言といった方がいいのかねェ。それともう一つ念押しに、そこの配達員君が上手くやる必要がある。」

「……そうだねェ。それを話すにはまず、動機から推察していこうかね。動機は‘歪んだ愛を見るのが嫌だった’、いや、もっと単純に嫉妬かなァ?」

「先ほどナナメさんが仰っていた『救いたかった』というのは?」

「ああ、それも結果的に関係してくる。配達する家屋は、効率的に覚えていくのが利口というもの。次第にどんな人物が住んでいて、働いているのかも、嫌でもわかってくるものさァ。そこで君は見てしまった。うら若き女性が育児に追われ、はたまた無理や暴力を振るわれている姿を」

「彼は、そんな彼女らに同情したということですか?」

「惜しい。彼女らを好きになってしまったのさ。ただ好きになった訳じゃあない。叶わないからこその嫉妬、軽はずみな恋に覚えた恨みは、せめて彼女たちを救いたいと思ったのさァ」

「叶わない? そこまで好きならいっそ盗ってしまえばいいのでは?」

「柾君、君がうぶたる所以ゆえんはそこだよ。キミは見た目や声、一人称で判断しているようだが、彼は彼ではないよ。そうだろう?」

 観念したように、配達員は服を脱ぎ始めた。やがてさらしを外す。そして先ほどまでと打って変わって、しぐさも女性のそれになった。

「なんです? 新手の洋妻かなにかですか?」

 ナナメは少し吹き出すと、否定しつつ話を続けた。

「さてさて、女性である君は同性を好きになってしまう性分だった。けなげな女性を救ってやりたいがしかし、性も根も尽き果てた女性はただ寿命を全うするのみ。君は絶望しきれない彼女らをひと押ししたのさァ。」

 配達員の彼、改め彼女は話を遮り、独白をし始めた。

「一人二役、とでもいうべきかしら? 私が女として男を堕とし、男として女を落とした。簡単なものよ。浮気をまざまざと見せてやり、あるいは証拠を残し、それに気づかせるの。男の方は勝手に自滅したわ。そういうやつって存外気弱で臆病なものよ。」

「しかし、よかったのかい? これは私の邪推に過ぎないが……おそらく彼女らに止めを刺したのはキミだろう?」

 柾はゴクリと唾を飲む。ナナメが邪推と前置きながらも放った言葉に背筋に悪寒が走る。

「さあね。私はただ、背中を押したに過ぎないもの。世の中には手も足も出ないことなんてざらにあることを、教えてあげただけよ」



「おっと、もう三十分も話してしまった!」

 突然大きな声を上げたナナメは周囲を軽くびくつかせた。

「おかえり願おう柾君。彼女、いや彼には配達の仕事が残っているのだからねェ」

「警察に突き出す訳じゃないの? 私は人殺しなのよ?」

「それをして何になる。人殺しだろうがなんだろうが、これらは全て私の推察の域を出ないものでね。君の行いはあまりに卒がない。警察の意見が変わるとは思えないし、証拠もない」

「尤も、こんな利口な人間を、頭の悪い警察なんぞに渡していたら、私がたまらないからねェ」

 身支度をし、首を傾げながらも彼は扉を開け玄関まで行く。

「変な人ね」

「お互い様だろう?」

 短い会話を済ませると玄関へ行った。それを追いかけるように柾は彼を追いかけた。

「柾とか言ったかしら、あなたも精々気を付ける事ね。もし彼女を傷つけるようなことがあれば私が心中に見せかけて盗っちゃうから。」

 彼はそう言い放つと、そのまま走って次の区画へと走り出してしまった。

 巻き起こった微風は柾の体をじんわり冷やしたのだった。

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