汐崎ナナメのヰビツな事件慕
椹木 游
浅草心中一人二役 前編
一 出会い
浅草、朝一番の列車を降りて近くの純喫茶でひとり。
窓ごしに行く人々の往来を後目に、珈琲を啜る
足早に道を行く姿や、ストーブの上に置かれた薬缶から噴き出す蒸気が、まだ寒い季節が続くのだろうと思わせる。
柾は最後の一口をグッと飲み干すと、痺れる舌で店主に聞いてみる。
「ここは、人手が足りていない、なんてことはありませんか?」
「いえ、ありませんが……?」
短い会話をし、店主に軽く会釈をして店を出た。
「募集は……してないよな」
両袖に手を入れ、目を挙動不審気味に動かし、働き口が無いかを探し続ける。
今度は柾も足早に歩を進めながら、わざとそう口に出したのだった。
遠くに人だかりが見えた。
空き巣か強盗か、この際ボヤ騒ぎでもなんでもよかった。つかの間の非現実に浸りたかった。そう思っていると一軒家の手前まで来ていた。もちろん紐が張られていて入ることはできない。
野次馬の会話が聞こえるまで近くに寄った。交叉する声同士がぶつかり、うまく聞こえない。
「また心中だとさ」
また心中――そう聞いたとき、このあたりで起きている何かに、興味が湧いた。
「おい! 勝手なことをするな!」
警官の怒鳴り声が野次馬たちを割いて聞こえた。とたんに静かになり視線が一点に集まる。
「いいじゃあないか。つれないなァ」
中から一人の女性が、警官に背中を押されて渋々出てきた。
毛先の乱れた長髪をなびかせて、袖に手を隠した、全体的に白い肌と着物の美人。
一瞬、彼女と目が合った気がした。気のせいだろうか。
「心中じゃあないさ、これは。何故心中と括るのか私にはわからないねェ」
口元に手を当ててはんなり風に言うも、警官は生返事。あれよあれよという間に、紐の外へ放り出された。野次馬から労いの言葉をかけられている。
「はあ、詰まらないねェ……」
そう呟くと、彼女は歩き始めた。
どこに向かうのだろう……? 気になった時には、もう後を追っていた。
彼女の歩幅が小さいからなのか、道行く人がこんなにも速いのかと思うほど、柾はゆっくりと尾行を続けていた。
不意に、咳き込んだ男性に目が行ってしまった。唯その一瞬で彼女を見失ってしまった。
「ちょいとそこのお兄サン。失せ物でも探している目をしてるけれど。何か御探しかい?」
突然、脇の路地から声をかけられたということもあって、盛大に尻餅をついてしまった。
「あ……その、すみません!」
周囲の目と地面の冷たさが、火照った身体を嫌でも冷ました。
「ふむ……。反応見るに、やはり私か。ほら、手を取ってくれたまえ」
柾は彼女の手を取り立ち上がった。手先は冷たい。
「さて、君は何者かな? 先の家にも居たねェ。私のフアンかな? なあんてね」
袖に手を隠しながら、彼女は無邪気に喋り続けた。
しかし柾は、その冗談の対処よりもまず、自身の興味を優先したのだった。それは勝手に口から出ていく。
「あの、『心中じゃない』って仰っていましたよね? あれ、どういうことですか?」
「おやおやァ、君の核心はそこだったのか。いいよ。話そうじゃあないか」
「是非! あ、僕は佐島 柾といいます」
「ふふっ……そうだな、まあ、私は‘ナナメ’とでも呼んでくれ」
「ナナメ?」
「ああ、縦横斜めの‘ナナメ’だよ。まあ、出会ってすぐに本名だなんて……君も判るだろう?」
先を行くナナメと名乗る彼女は、半分だけ振り返り、笑みを含んでそう言った。
柾は、肌に触れる風が心地良く感じた。
二 浅草心中
「いやあ、佐島君の淹れる珈琲は、
二階の窓の近くに設置されたアンティーク調の椅子に腰かけたナナメは、気持ちよさそうに珈琲を楽しんでいた。
「それに関しては、ハロルドさんに感謝ですよ。ここにある調理器具は僕のではないので」
「そういえば、ここは佐島君の知り合いの御家だったねェ。確かに感謝しなくてはならない」
ほぼ一等地に建てられた洋風の家を持つハロルドに、二階部を丸々貸して貰っているのだ。
「それで、心中事件についてお聞きしたいのですが」
ふうと一息吐いてから、カツリと音を立ててカップを置き、目を伏せたまま話を始めた。
「まずは、佐島君。‘浅草心中’を知っているかな?」
「いいえ、僕はここに来てから間もないので、よくわかっていません」
「ふむ、ではそれからだねェ」
勢いよく席を立つと、飲み干したカップをシンクに置き、立ったまま話を続けた。
「ここ二週間、浅草では男女の自殺が相次いでいてねェ。いたって普通の自殺で、首つりから溺死、失血死なんてものもあったねェ。突然に起き始めたものだから、こぞって噂をするようになった。それを誰が呼んだか‘浅草心中’ってわけさ。捻りが無いからわかりやすいねェ」
うなずきながら聞いている内心では、彼女が何故‘心中ではない’という考えに至ったのか気になって仕方がなかった。しかも柾には、それが所謂‘普通の答え’ではないこともわかっていた。
※当時の珈琲有名店
「さて、ここから佐島君が欲してやまないであろう話をしようじゃあないか」
ナナメは柾の隣に椅子を持ってきて、ひじ掛けに頬杖をつき上目遣いで話をする。
柾はごくりと空唾をのんだ。そして目の前で起こるであろう何かに身震いしていたのだった。
「これを語るには、まず事件の詳細から話す必要があるねェ。正確に言えば、まで六件起きているのだけれど、全てに共通することがあってね」
まるで、どこかの聡明な教授の論文発表ように、はたまた無垢な子供の自慢話のように、後ろに手を組みながらうろうろし始める。やがてピタリと止まった。
「‘自宅で死んでいる’こと。そして‘既婚である’ということだ」
「はあ」
柾は思わず漏れてしまった。それに感嘆符が付かないことは明白だった。
「なあんだい、その間の抜けた返事は」
「いえ、あまりにその、もったいぶっていたので……」
「もったいぶっていたので?」
「……なにかこう、もっと意外なことを言われるのかと」
「ふむ、なるほどこの二点を佐島君、キミは重要視していないというんだね?」
「平たく言えば、そうです」
首を落とし、あからさまに残念そうにしながら、ナナメは正面にしゃがみ込み、柾をまじまじと見始めた。まるで名画を見るかのようだ。
「な、なんですか……?」
「家出」
「はい?」
「それも思い立ったが吉日と言わんばかりに、計画性のないものだ」
「……」
「原因は差し当たり、御家柄だろう。おおよそ、外交官か貿易商だろう」
次々と放たれる言葉は‘佐島 柾’という人物を的確に射貫いていった。
「新手の
ナナメは吹き出し笑うと、たじろぐ柾を愛おしそうに見つめた。そして座る柾のひじ掛けに腰を掛けた。肩に手を回す様は、さながら妖女のようだった。
「佐島君。キミは物事を表面的に見ることには長けているようだが、どんなことも見えているのは部分的に過ぎないのさァ。後はそれを繋げて想像する力を要する」
「まずは佐島家から紐解いていこう。なあに簡単な話、立派な家を持つ知人。それも外人なんて、そう知り合えるものではない。ということは、君の両親が外交官や貿易商などの職種ではないかと想像ができるねェ」
「さらにキミはとびきり美味な珈琲を作ることができる。それもサイフォンを使ってねェ。まあまず知識がないと淹れることはおろか、器具を使うことすらできないだろう。と、いうことは海外の知識が入ってくる、あるいは教えてくれる人がいた、ということだねェ」
「次いで家出に関してを。佐島君は私を尾行していた時になんら
「つまりだ佐島君。キミは海外の知識に精通し、対人力に長けており、加えて資産を持つ外国人の友人を持っている。では、わざわざその友人に部屋を貸して貰う理由とは、なんだろうか」
「大正時代の今、君のような存在は引く手あまただろう。ましてキミの両親は、私の仮説上は名家か資産家のような、いわゆる将来安泰な家系だ」
「そんなキミが、時間に縛られず、浅草に来てから間もないときた。指し詰めお堅い家が嫌になって、とうとう我慢の限界が来た。と、言った所だろう?」
柾は大きく息を吐いた。今まで呼吸をしていなかったのではないかと錯覚するほどに、魅入られていたのだった。額に浮かぶ汗を袖で拭う。
「ご、ご名答です」
※海外のマジック/マジシャン
部屋には二人の呼吸音のみがうるさく聞こえていた。
「これは詰将棋のようなものさ」
静寂を切り裂いてナナメが声を発する。しかし、それは至って冷静に淡々と。
「詰将棋? と、いうと」
「ああ。一手一手、自身が指す、相手がそれに答える。確実に王手を指さなければならない。今の想像は三手詰めくらいの簡単なモノさァ……おっと、失礼、佐島君は将棋は指せるのかな?」
「まあ程々には」
「なら良い。では佐島君。今のを踏まえて、
ナナメは再び窓際に椅子を置き座った。袖に手を入れ、柾の目の奥をじっと見つめた。
三
「定跡を考えると、心中なのだから、自宅で死ぬことに違和は無いねェ。でも、言葉に騙されてはいけない。二人が死ぬということが事実としてあって、同時に死んだわけではないんだよ」
「後追いというわけですか?」
「うむ、まあ違わないだろうねえ。厳密に言えば片方が死んでから、もう片方が死んでいる」
「なるほど、でも心中ですから、やはりおかしいとは思えません」
「では歩兵をもう一手進めてみようじゃあないか。人が自殺するときはどんな時だい?」
「それはお金が無くなったか、何か希望を持てなくなったか、でしょうか」
「ふむ、いい線行っているねェ。では心中するときと自殺するときの違いは?」
「ひとえに愛が在るか無いか、でしょう」
「ふふ……だろう。愛は一人では歩かないからねェ」
「はあ」
「さらにもう一度、歩を進めてみよう。片方が自殺、片方も自殺。が、二人は別々の原因で死んでいるとしたら?」
「なるほど! 男女のどちらかが不倫していたらわかります」
「いいねェ。両方が同じ条件だったら、別々に死ぬ理由なんてないからねェ」
「ということは不倫現場を目撃して、あるいはその気を見つけてしまったから、絶望して死んだんでしょうか?」
「うむ、それも定跡だろう。しかし、それならばまず殺すだろうねェ。なんせ、結婚しているのだから。六件ある心中事件が全て本当の情死なら話は別だがねェ、数件は殺人があってもよさそうなものだ。が、それが無かった。でもこれらにも共通することがあるね。不倫していると仮定すれば?」
「不倫相手が共通すると?」
「その通り!」
再び勢いよく席を立ちあがると、うろうろと動き始めた。あまりにもナナメが喜んでいたので、柾も無意識に口元が緩んだ。
「詰まるところ不倫相手が今回の犯人となる。王手は見えてきたねェ!」
紐解くと、それが違っていても、何故かそれ以外の正解考えられない。まるでそれがこの事件の真相のようだった。
「しかし、残念ながら相手は一筋縄ではいかないようでねェ。」
「……? と、いうと?」
ナナメはもったいぶっているのか、口元を袖で隠してニタニタしている。そのまま扉まで歩いて行った。そしてくるりと振り返ってかわいらしく柾を誘った。
「さあて、散歩でも行こうかねェ。場所は心中巡りで」
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