第3話

「俺が言うのもなんだけどさ」

 彼の部屋を出るとき、開けたドア越しに言われた。

「あまり親しくない男の家にほいほい上がり込むのは、やめたほうがいいと思うよ。危ないよ」

 私は思わず、かっとなってしまい、

「あ……あなたも! よく知らない女を、簡単に家に入れないで」

「そうね。気をつけます」

 笑顔とともに、ドアが閉まる。ドラッグストアの袋を手に、アパートの外階段を降りながら、でも、きっと、彼は今までもこうだったんだろうなと思う。誰とでも距離を近づけるのが上手で、強引で、人なつっこくて、そして誰にでも優しい。そりゃあ、勘違いする人もいるだろうし、恋人ができたところで、不安に思われてしまうわけだ。振られてしまったのもこういうところに原因があるのではないか。

 でも、私はもう、今度こそ、彼には二度と会わないだろう。家は知ってしまったものの、連絡先も知らなければ、何の用事もない。ファーストピアスのついた耳を、そっと触る。ホールが完成したら、あの桜のピアス、つけてみようかな。


 ――二度と会うまいと思っていたのに、次にその姿を見たのは、それからわずか数日後のことだった。

 私は、大学の図書館に、ゼミで使った文献を返却に来たところだった。カウンターに返却して、何かほかに役に立つ資料はないかな、と、卒論発表直前になって今さら足掻いても仕方ないのだけれど、何となく「法学・行政学」の書架へ向かう。そこに彼はいた。

 気づいた瞬間、引き返そうか、と思う。まさかこんなところで会うなんて、やっぱりうちの大学なんだ、いや、わかっていたけれど。足を一歩下げる。と、本を流し読みしていた彼が顔を上げてこっちを見た。

「あれっ、やっぱり同じ大学だったんだね」

 彼が閉じて書架に戻したのは、憲法の解説書だった。

「……法学部、なの?」

 憲法は必修科目のひとつで、私もかつて、あの本で勉強したことがある。失礼かもしれないけれど――彼は法学のような、固い学問に興味があるようには見えなかった。

「いや、理学部なんだけどね」と答える。「法学部の科目も取っててさ」

「はぁ?」

「法律って、文系科目にされてるけど、理系っぽいっていうか……似てるところあると思わない?」

 確かにうちの大学では、他学部の講義を受講することができる、が、せいぜい、工学部と理学部とか、経済学部と法学部とか、その程度の交流だ。理系の学生が法学部の講義を受けるなんて、少なくとも自分の周囲では聞いたことがなかった。

「まあ、そんな気軽に憲法取っちゃったら、まじで今度の期末試験やばそうでさ。それで勉強しなきゃなって」

 しかも、教授が鬼なことで有名な憲法とは。他学部の学生でも単位を取りやすい科目というのはあるが、さすがに理学部まではそういった情報は流れていかないのだろう。誰でも受けられて、後期に開講されてるのは、1・2年生向けの「憲法基礎学B」だったか。

「憲法は……基本的な判例を押さえておけば大丈夫。あと、あの先生は、過去問からの使いまわしやアレンジが多いはず。教科書にちゃんと目を通して、ある程度記述できるようにしておけば、改めて難しい本なんか読まなくても単位は取れるよ」

 彼が、ぱっと目を輝かせたのがわかった。私は、しまった、と思う。

「法学部なの!?」

「……だからここにいるんだけど」と、法律関係の書籍が並んでいるのに目をやる。

「教えてよ、憲法」

「え……」

 この男の人懐っこさも、大概にしてほしい。もう関わりたくない、知りたくないのに。ピアス開けてあげたじゃん、という声が聞こえる気が勝手にして、断る正当な理由を探す。

「悪いけど、そんな時間はない。卒論発表会の準備で忙しいの」

「え、4年生だったの?」

 ああ、また、自らの情報を晒してしまったと頭を抱える。

「同い年くらいかと思ってた。2コも年上だったか。失礼しました」

 そして、相手の情報も飛び込んでくる。知りたくもないのに。

「……2年生? ということは、えっと、ハタチ……お酒飲んでたよね」

 あのクリスマスの日、隣のテーブルでもワインを開けていたと思う。

「いや、俺3月生まれだから、まだ19だよ」

 あっけらかんと言われ、眩暈がした。このいろいろと厳しい時代に、未成年が堂々と店で酒を飲むな。そしてそれを平然と他人に言うな。叱ってやりたい気分になったけれど、もはやそういうレベルの話でもない気がした。私は、3歳近くも年下の、まだ10代の男の子――そう、男の子――に慰められ、ピアスを開けてもらって、涙も拭いてもらって、少しどきっとまでして、あげく男の家に入るなとたしなめられていたわけだ。

 自分にも呆れていると、彼が「じゃあ、過去問だけ貸してくれないかな」と言う。

「……まあ、それくらいなら……2年前のでよければ」

 彼のことを、誰にでも優しい人たらしだと思っていたけれど、それにほだされてしまう私も、なかなかのお人よしかもしれない。

「じゃあ、連絡先交換しよう」

 そうか、待ち合わせて過去問を渡すには、連絡を取り合わなければならないのか。促されてスマホを取り出し、お互いの画面に表示された二次元コードを読み込む。茶色い犬の写真のプロフィール画像と、【ハル】というニックネームが表示された。

 「よろしく」と吹き出しのついた、有名な犬のキャラクターのスタンプが送られてきた。彼の本名はわからない。私も似たようなものだけれど。

「【ユキ】、ユキちゃんっていうんだ。よろしくね」

 私は軽く頷き、メッセージアプリに最初から入っている、クマのキャラクターのスタンプをひとつ返した。


 法学部の談話室は、経済学部と文学部と共用になっている。もちろん、入る際に身分確認などされるものでもないから、他学部の学生だって、外部の人だってその気になれば利用できる。自動販売機の種類が充実していて、学生たちの間で隠れ人気スポットになっていた。

「しっかし、年末から、散々だったね」

 淹れたてのコーヒーの紙コップを持って向かいの席に座った彼女は、高校の同級生で、現在は経済学部の雅也と同じゼミに所属している。3年前に私たちの仲を取り持ってくれた共通の友人だった。

「雅也のこと、見損なった。何も予兆はなかったんでしょ?」

「うん、ほんと、寝耳に水というか、晴天の霹靂というか。好きな子ができたって言ってたけど、それも本当なのかもわからないし」

「バイトかサークルの知り合いとか? 二股かけてたりして。ほんと最悪だよね、こっちは将来のことまで考えて就活してたっていうのにさ」

「まぁ……それは私だけだったみたいだね」

 卒業後はどうするのか話をした際、私は当然のように雅也の地元に行くことに決めてしまい、例えば私の地元に二人でという選択肢もあったはずなのに、そんなこと全く話に上らなかった。最初に友人を通じて声をかけてきたのはあっちだけれど、最近はもう、私のほうばかりが雅也のことを考えていた。潮時だったのかもしれない、もっと早く気付くべきだったのかもしれない――と考えて、また涙が出そうになって、カフェオレを一口飲んで、心を落ち着かせる。

「まだ22なんだしさ。切り替えていこう。ユキならすぐいい人見つかるって」

「……うん。そうだね。ありがとう」

 夕方の談話室には、西向きの窓から夕陽がゆったりと差し込んできていた。まだ1月、日は短い。夕方、と思ったらもう夜はすぐそこだ。飲み終えると、どちらからともなく立ち上がる。

 廊下に出ると、ちょうど大講義室での講義が終わったところらしく、学生たちが波のようにごった返していた。少し若い人たちが多いように見える。1年生か2年生の講義だったのかな、……ああ、後期水曜4限の大講義室、私が受けていたころと変わっていなければ、憲法基礎学Bだ。

 友人の前を歩き、足早に講義棟の出口へと向かう。茶髪にマフラーのあの彼の姿が、脳内にちらつく。きっと視界に入ったら気づいてしまうだろうと思ったけど、そんなこともなく建物を出ることができて、ほっとした。

 友人と別れ、大学の門を出て、自分のアパートまで20分ほど歩いて、無事に部屋に入る。そこでスマホを見ると、【ハル】からのメッセージが届いていた。

『明日の4限、憲法の講義で法学部に行くけど、終わってから会えないかな?』

 力が抜けた。なんだ、今日じゃなかったのか。

『了解。過去問もっていきます』

 短く返す。できるだけ関わらないように。関わりたいとなんて思ってもいないけれど、あの、人好きそうな彼に、そんなふうに受け取られることが間違ってもないように。

 私は、卒業直前の今さら、誰かと新しい関係をつくることなんてしたくない。誰かのことを新しく知りたくないし、自分のことを知られてしまうのも嫌だ。そんな風に誰かと親しくなって、期待して、裏切られるなんてこと、この期に及んで、もうしたくない。

 あとたったの2か月を、平穏に過ごして、卒業したらこのまちにもう戻ってくることのないように、何の思い出も感傷も残さずに去りたい。だからもう、明日を最後にして、放っておいて。――そんなことを、画面越しにお礼を言ってくる犬のスタンプに話しかけていた。

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雪解けの季節 亜梨 @riririr_s

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