第2話

 年が明けて、一週間ほどの帰省から、大学近くのアパートに戻ってきた。私の地元は雪の多いまちで、このあたりも雪は降るけれど、ケタが違うよな、と冬には毎年思う。もちろん、積雪は少なければ少ないほどいいし、全く降らないのが最高だ。地元では、冬は田園風景が一面白銀の世界に変わり、それはそれで美しいという人もいるけれど、何も遮るものがないところを吹きすさぶ風が、私はただ寒いだけだと思う。冬の娯楽はスキーかスノボ、それも性に合わなかった。

 冷え切った部屋で、とりあえず電気とエアコンを付け、さっきコンビニで買った弁当をレンジに入れる。この部屋で暮らすのもあと2か月と少し。次にこの部屋を長く空けるのは、ここを出ていき、もう戻らないときだ。

 テレビを見ながら弁当を食べていると、携帯が鳴った。

「……もしもし?」

 口の中に入っていた唐揚げと米を、ペットボトルのお茶で流し込む。

『ああ、あんた、無事にアパートに着いたら連絡してって言ったじゃない』

「はいはい、さっき着いたから」

 つい数時間前、新幹線に乗り込む前にも聞いた母の声だ。

『就職のことだけどね、やっぱりこっちにしない? 雅也くんとは別れたんでしょ。なんだって千葉なんかに行くのよ』

「しないって言ってるでしょ。だいたいもう1月だよ。どこの会社もとっくに就職試験なんか終わってるって」

『お父さんに聞いてきてもらったんだけどね、うちの農協、若い人で急に退職する人が出て人手が足りないんだって。求人も出してるんだけど応募がないみたいでねぇ。大卒で新卒なんて最高じゃない、きっと採用してもらえるよ。ほら、町内会長の息子さんが支店長やってる……』

 聞いてもいないことをベラベラと喋り続ける母に呆れ、心底うんざりし、「自分のことは自分で決めるから!」と電話を切った。

 地元から新幹線の距離にある都市にやっと出てきて、大学で4年間も法律を学んで、田舎の小さな農協の事務員になる、しかも親のコネで? 冗談じゃない。農業を馬鹿にするつもりは毛頭ないけれど、そんな就職をするくらいだったら、何の縁もゆかりもない、知人も誰一人いない、それでもそこそこ栄えていて都内まで電車一本で行ける元彼の地元で市役所の職員をやったほうが百倍ましだ。

 まあ、将来のことは、これから考えたっていい。とりあえず千葉の市役所に就職して、どこかもっといい就職口が見つかれば、そう、地元でだって、転職してもいい。もしかしたら、千葉でいい出会いがあって、結婚でもしてそこに落ち着くことになるかもしれない。……しばらくは、そんな気分にはなれそうにないけれど。

 溜息をつき、ベッドの上に寝転がる。隣のサイドテーブルの上のアクセサリーケースが目に入った。蓋を開けると、一番手前に、クリスマスのあの日にもらったものが収まっている。

 奇妙なプレゼント交換の中身は、かわいらしいピアスだった。桜をモチーフに、その下に小さなパールと透明なストーンがついていて、手に取るとゆらゆらと風のように揺れ、控えめに光った。そこだけ小さな小さな春が来たみたいだと思う。

 私はピアスホールをあけていない。もらっても困ったけれど、かといって、気軽に処分してしまうのにもためらっていた。きっとあの男が、あの黒髪がきれいな彼女のことを、大切に思って選んだものなのだろうから。


 1月の最初のゼミでは、年末に提出した卒業論文の模擬発表が行われた。本番の発表会が2月の中旬、それを終えたら無事に単位がもらえて、卒業が正式に決定する。ゼミ生や教授からの指摘は結構痛くて、論文は完成しているものの、発表の進め方を考え直さなければならなくなった。

 大学を出ると、近くのドラッグストアに寄る。シャンプーとコンディショナーの替え、それから、化粧水と洗顔フォームを買い物かごにいれる。ああ、食器用洗剤もなくなりそうなんだった……けれど、あと2か月ほどで引っ越すのだから、小さい方の詰め替えボトルにしよう。トイレットペーパーはまだあっただろうか、そんな風に考えながらドラッグストアの陳列棚の中を歩いていくと、ある売り場に目が留まった。

 ピアッサーだ。耳たぶ用、軟骨用、針の太さも何種類か並んでいる。この器具ではさんで、穴をあける、それくらいは知っている。知っているけれど……。

 清潔感のあるパッケージの商品を手を取り、裏の注意書きを軽く読んで、棚に戻した。自分ひとりでやるのは難しそうだ。痛いだろうし、怖気づいて失敗したら目も当てられない。だいたい、遊びやおしゃれを一番楽しめる学生生活がもう終わりかけているのに、今からピアスをあけるなんて、馬鹿げてる。

 レジのほうに向かい、棚と棚の間から出てきた男と、ぶつかりそうになった。「すみません」と体をよけて、見られている気がして顔を見上げ、目が合った。「あ」と、あの日と同じ声で、男が言った。

「久しぶり」

 まるで普通の、以前からの友達かのようだ。こんな、大学の近くの店で出会うなんて、やっぱり同じ大学の学生なのだろう。私は何と返していいかわからなかった。彼が首に巻いているマフラーが、あの日私があげたものだったからだ。彼は私がマフラーをじっと見ているのに気づき、少しバツの悪そうな顔になった。

「あ、これ……あったかいから、使わせてもらってる」

 と、笑いながら、少し弁解するような口調で言う。

「……そう」

 グレンチェックのマフラーが、意外なほどに彼の茶髪とダッフルコートに合い、よく似合っていた。皮肉なことに、きっとあいつなんかよりもとても似合うだろうと思った――最初から、彼のために選ばれたものであるかのように。

 マフラーと長めの髪に埋もれかけている彼の耳に、光るものがあるのに気がついた。フープ型の小さなピアスだ。この前ピアスつけていたっけ? いや、そんなことは、どうでもいい。

「お次の方、どうぞー」

 レジのほうから呼ばれ、我に返る。彼の手を引き、反対のほうに連れていった。

「どれがいいの? 選んでよ」

 ずらりと並んだピアッサーの前で突然言われ、男は戸惑っていた。それから確認するように私の横顔を覗き込む。ごく自然に私の髪に触り、耳のあたりをよけた。どきりとする。

「……ああ、ピアス、あいてなかったの。じゃああんなもんあげても迷惑だったね。友達にあげるか、捨てちゃっていいよ。それか、ウルカリにでも出しちゃって」

「どれがいいの? どれでも同じ? だったらこれにする」

 髪を直しながら、私が適当に手に取ったものを見せると、彼は「本気?」と笑い、「こっちのほうがいいよ」ともう少し高めの品を自分のかごに入れた。

「自分で買うよ」

「いいからいいから。なんか、俺がピアスあげたせいみたいな感じだし」

 そのまま会計を済ませ、店を出て、店先で「はい」とピアッサーを渡される。

 それを受け取った指先が震えていた。寒さのせい、だけじゃない。

「怖いの?」

「……ちょっとね。痛い?」

「そりゃ、針ぶっ刺すんだから、少しは」

「うーん……」

 男の手が、ぱっと、私の手の中にあった、しまえずにいたピアッサーを取り上げた。

「やったことあるんだろうな?」

「あるわけないじゃない」

「友達のとかは?」

「ないよ」

「……友達が開けるとこ、見たことある?」

「ないってば」

 男は、少し呆れたような顔をして笑った。

「勇気あるなあ。……あのさ、ちゃんと病院でやってもらったほうがいいんじゃない? 躊躇って失敗したら、耳、大変なことになるよ」

「そういうことは、買う前に言ってよ」

 背伸びして、彼の手から、ピアッサーを取り返した。それをシャンプーやらが入ったビニール袋に詰め込む。

 もう、決めたんだから。嫌なことは去年に置いてきた。今年は、卒業して就職して、――全部を変えるんだから。

「俺がやってあげようか」

 歩き出してから言われ、足を止めて振り返る。

「……やったことあるんでしょうね」

「もちろん」

 彼が私の横にやって来た。追い越しざまに、パンパンに膨らんだビニール袋ごと持っていかれて、慌ててその背中を追いかけた。


 彼の家は、ドラッグストアから大学を挟み、私の家から反対方向に歩いて15分ほどのところにあった。住宅街の一角にあるアパートの2階の角部屋で、古くはないけれど、外にある階段がギシギシといい、薄く積もった雪で滑りそうなのを注意して上る。

 部屋に入れてもらうと、一応警戒して入り口に近いところに座った。ワンルームの部屋はきれいに片付いており、ベッドやカーテン、クッション、カーペットの色までモノトーンでまとめられていた。男の子の部屋、あいつのところ以外に行ったことがなかったから、新鮮に感じる。あいつの部屋は雑然としていた、と思い出しそうになり、もう忘れるんだ、と目を閉じる。

「お待たせ。あった」

 部屋の奥で探し物をしていた男が、消毒液を手に戻ってくる。

「そんなもの、常備してるんだ」

「去年友達のピアスあけるときに使ったからね」

 友達というけれど、おそらくあの彼女のことだろう、と思った。

 彼が近くのキッチンの流しで念入りに手を洗う。それから、私の前に座り、手を伸ばして左耳を触る。

「この…へん…かな」 

 彼の指が、穴を開ける位置を確かめる。私は持たされた手鏡を見るけれど、彼の頭が邪魔で、耳はよく見えない。

「よくわからないから、任せる」

「責任重大だなあ」

 耳が熱い。さっきまで外にいて、冷えているはずなのに、いや、冷えているからなのか、彼の指が触れたところがそこだけ異常に熱い。彼の指が、私の耳に消毒液を塗る。ひんやりとして、なのに、やっぱり、熱い。顔が、近い。

「いける?」

 すぐ近くで、彼と目が合った。目の奥のあたりまで熱く感じて、ぼーっと彼の顔を見ているうちに、頷いてしまっていた。

「よし。動かないでね」

 彼の手が、器具を私の耳に当てる。ああ、いよいよだ――心の準備ができないうちに、ばちん! と衝撃が走った。

 彼がすっと身を引く。終わったのか? 左耳を触ろうとして、手首を掴まれる。

「触っちゃダメ」

 さっきまでとは違う感じで、耳が熱い。鏡で見てみると、確かに耳たぶにシルバーの針が刺さったままになっている。ああ、本当に穴があいたんだ。すごいな。

「血、出ないんだね」

「うん、上手にやれば出ないよ」

 それから、キャッチをつけてもらい、同じようにしてもう片方の耳もあけてもらった。思ったよりも痛くない、怖かったけれど終わってしまえば大したことはない、それなのに、右耳に穴があいた瞬間、なぜか涙が出た。

「痛かった?」

「ううん……大丈夫」

 なのになぜ、私は泣いているのだろう。彼に渡してもらったティッシュを目に当てながら、考える。恐怖から解放された安堵? 今になって感じる痛み? どれも理由とは違う気がした。

 きっともう、戻れないんだ。戻らないんだ。

 ピアスを開けると運命が変わる、とどこかで聞いたことがある。大げさだけれど、つい数分前までの私とは、もう違うんだ。

 彼は、今度はファーストピアスがついた私の耳に、また消毒液を塗りながら、呟くように「よく泣くひとだなあ」と言った。

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