雪解けの季節

亜梨

第1話

 ディナータイムのレストランは混雑していた。夫婦やカップルと思しき客でテーブルは埋まり、店員たちは忙しなくしかし丁寧に動き回っている。窓の外に見える駅前通りのイルミネーションと、クリスマス・ソングをジャズ風にアレンジしたBGM、各テーブルに浮かんでいるキャンドルの光が、この空間にいる、何の接点もないはずの人々に、この日のこの時間を共有のものにさせていた。

 デザートのティラミスが運ばれてきて、「おいしそう」と言うと、向かいの席の雅也が「うん」と頷く。フォークを差し入れ、ひとかけを口に運ぶと、甘酸っぱい香りが口の中に広がった。ベリー系のソースだろうか、赤いものがケーキの断面にちらりと見える、とその時、

「……もう、終わりにしたい」

女の声が、BGMの間をくぐり、横のほうから聞こえてきて、手を止めた。左隣のテーブル。

「は?」

「別れよう」

 さっきよりもはっきりと聞こえた。BGMも店内のざわめきも、音量が突然に抑えられたように感じる。雅也と目を合わせる。それからちらりと、左側に目をやる。若いカップル――と言っても、私たちと同じくらいか、少し年下くらいの男女だった。

 私と同じ壁側に座っていた女のほうが、「ごめん」と席を立った。店内を突っ切り、店の出口のほうへ歩いていく。近くのテーブルの数組が、ただならぬ気配を察し、彼女の姿を目で追い、あるいはあえて見えないもののように振舞っていた。彼女に振られてしまった男のほうは、ぽかんと呆けた顔で席に残っていた。……こちらを見られて目が合ってしまい、慌てて視線を正面に戻す。

「……おいしい、ね、これ」

 私は、すぐ横で起きた出来事を見えなかったもののようにすることを選んだ。

 雅也は、「ああ」とは言ったものの、ティラミスに手をつけていなかった。

「どうしたの?」

 返事はない。さっきまでワインを飲んで饒舌に就職先の話なんかをしていたが、酔いが冷めたのか、赤らんでいた頬も白くなっていた。明らかにさっきの出来事に動揺しているようで、大丈夫?と声をかけようとしたときだった。

「……俺たちも」

「えっ?」

「俺、も、別れたいと思ってる」

 今度は、自分たちのテーブル以外の物音がすべてオフになったような気がした。

「勝手なこと言ってごめん」

 雅也は、目線をティラミスの皿に落としたままだ。

 これは本気なのか、それとも隣のカップルのトラブルに乗じた冗談なのか――と一瞬考える。考えて、さすがの雅也もこんな冗談を言うわけがないと思う。

「え、待って。なんで?」

「他に好きな子ができた」

「……本気で言ってるの?」

 雅也と出会ってから3年以上、これまでの出来事や、言いたいことが、脳内をめちゃくちゃに駆け巡る。

「ああ。ごめん」

「3年も付き合ったのに?」

「ああ」

「私、雅也の地元で就職活動したよね?」

「ああ」

「東京の会社の内定断って――」

「だから、ごめんって言っているだろ!」

 雅也の大声に、今度は「気がした」のではなく、店内の皆が黙りこくったのがわかった。静寂。そして、――視線。

 雅也が立ち上がった。後を追うことができない。恋人が去っていく背中を、ただ茫然と見ているしかない、さっきの隣のテーブルの彼の気持ちがよくわかった。足に力が入らないし、呼び止める言葉も思いつかないのだ。今まで散々、幾つもの言葉を交わしてきたくせに。

 やがて、他のカップルたちは私たちや隣のテーブルから目を背け、少しずつ会話を再開し、さっきの私のように料理の感想を述べたりし始めた。店内は、無理やりもとの空気に戻ろうとしていた。二組もの別れの場面はきれいになかったことに――自分たちは関係ないと、みな平穏なクリスマスイブの夜を取り戻そうとしている。私は気持ちを落ち着け、ようやく席を立った。ティラミスを最後まで食べられなかったことが心残りだと、店を出るときにそんなことを思った。


 店を出ると、雪が降っていた。大粒の、水分を含んだ雪。路面にも薄く積もり始め、道行く人たちの靴を濡らしている。ああ、傘、持ってきてないな。でもまあ、いいか。駅まで濡れながら歩こう。

 数歩歩いたところで、「あの」と声をかけられた。私だろうか、と振り返ると、今出てきた店の前に、傘を持った男が立っている。

「入っていきませんか?」

 さっき、隣のテーブルで、彼女に振られたばかりの男だった。傘を開き、突っ立っている私の横に並んで、こちらに傘を傾けた。ゆるくウェーブしたブラウン色の髪とビニール傘、よく見ればあどけなさすら残る、若い男。座っているときはわからなかったが、結構背が高いんだな、とどうでもいいことを思う。

「結構です」

「そんなこと言わないで」

 足早に歩き出した私を、男が追ってくる。雪はどんどん強くなる。べちょべちょとした足の裏の感覚が、しゃく、しゃく、と軽い音に変わってくる。数メートル後ろからもしゃくしゃくと聞こえる。

「こんな濡れ雪の中、風邪ひきますよー」

「別に風邪ひいたって、あなたに関係ないじゃない」

「まあそうだけど……あ、そこ、滑りますよ」

 ビルの向こうに駅の明かりが見えてきた。濡れたマンホールの上を、私のブーツのかかとが滑った。よろけた私の体を、男の片手が支えた。

「おっと……大丈夫?」

 それを振り払い、無視して進む。

「かわいくないなあ。だから振られるんだ」

 と聞こえ、思わず足を止め、振り返った。周囲の人の目も気にせず言い放つ。

「あなただって、こんな、知らない女に優しくしたりするから、こんな日に振られるんじゃないのっ」

 こんな日に。こんな、恋人たちの特別な日とされている、聖なる夜に。

 あんなレストランであんなおしゃれなディナーを食べ、あんなにきらきらした光の中で、あんなに暖かい雰囲気の中で、あんなにみじめに振られる。

 男は私に追い付き、もうすっかり髪が濡れて顔に張り付き、メイクもぐちょぐちょになっている私に傘をかざし、「そうかもね」と笑った。


 駅まで傘に入れてもらい、改札を過ぎたところで一応「ありがとう」とお礼を言って別れようとしたものの、帰りの電車が同じだということがわかった。20分に1本程度やってくる、中心市のこの駅から、私を含む多くの学生が住んでいる駅を経て、隣町までを結ぶ路線だ。当然のように一緒に電車に乗り、当然のように同じ駅で降りた。はた目には私たちこそが大学生のカップルに見えるだろう。

 駅の改札を出ると、雪は止んでいたけれどすっかり積もっており、一緒に電車を降りた学生と思われる若者たちが、はしゃぎながら走っていく。私の隣の男が「ホワイトクリスマスだなぁ」と言い、私は、さっき自分がこっぴどく振られたことなんてもう忘れてしまったのかと、呆れた。ホワイトクリスマスだから、そんな綺麗な雰囲気があるからって、いったい何だと言うのか。

「私、こっちだから」

 駅前の交差点で、男が向かおうとしているのと別のほうを指さす。

「ああ、じゃあ、気を付けて」

「ありがとうございました」

 歩き出そうとして、自分の手にぶらぶらと邪魔な紙袋があるのに気付いた。

 あのレストランを半泣きで逃げるように出ながら、律儀に持ち帰ってきた、メンズセレクトショップの紙袋だ。もうちょっと早く出られていたら、あいつに追い付けていたら、投げつけてやったところなのに。――ああ、そういえば、あいつは今日、手ぶらだったな。

「これ、あげます」

 横断歩道を渡ろうとしていた男のもとに駆け寄り、紙袋を突き出した。

「え、……いいの?」

「いらないんで」

 それを押し付けて、数歩歩いたところで、「あ、じゃあ、ちょっと待って」と呼ばれた。

「俺も、これあげる」

 バッグの中から、リボンの小さな箱を取り出して、私の手の上にのせた。

 きらきらと光るかわいらしい包装紙と、カールされた細身のリボン。まさか、指輪とかじゃないよね。と思っているうちに、信号が点滅し始めて、男は走って道路を渡って行ってしまった。乾いた風が吹いて、その後ろ姿は住宅街のほうの闇に溶けていった。

 きっと同じ大学の学生だろうとお互い思っていながら、名前も、学部も学年も聞かなかった。私はもうすぐ卒業するし、もう会うこともないだろう。もらった箱をバッグにしまい、また雪が降り出す前にと、アパートまでの帰路を急いだ。

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