第六話 祁答院橙子とサンダル

 思えば、第一の夫は不誠実の化身ではなかったか。大体愛しているだとか囁いておいて、他の女にも同じような愛を贈っているのだから憐れである。私も、あの子も。なんと陳腐で、厚かましい情なのだろうかと呆れ果ててしまう。

 付き合ったり別れたり、そういうのを繰り返していくうちに、色んなことを放棄してしまいたくなる。例えば、この人よりも他に良い人がいるのではないかという、謎の向上心だ。


「だっる。」


 適当に見つけた喫煙所で煙草を吸う。揺蕩う、百害あって一利なしと言われる煙をなんとなく目で追いかけながら、過去を顧みれば、馬鹿馬鹿しさに苛まれるだけだった。

 洒落っ気など忘れた二十二歳は、サンダルを突っかけて外に出たかと思えば、喫煙して哀愁と紫煙を漂わせているのだから、情けない話だ。


「はぁ。」


 幾つ吐いてもまだ足りない溜息と共に、なんとなしに地面を見遣った。親指と人差し指がやけにサンダルから出ている。

 爪の辺りに蟻が一匹呑気に歩いていた。私からすればのんきでも、蟻の方からすれば緊急事態かもしれない。恐竜がいたという時代から今でもこの地球は弱肉強食なところがある。人は人を思いやるばかりではなく、傷つけることだって山ほどある。

 それこそ数えきれないほど、私が今こうして煙草を吸っている瞬間にも、誰かが心を傷め涙を流しているのかもしれない。そう考えるとこの喫煙という動作に、一体どんな意義があるのだろうかと哲学者や詩人にでもなったかのような考えが通り過ぎていった。

 虫は別に、そこまで苦手ではなかった。

 もちろん気持ち悪いと思うし、触りたくない類の虫もいる。だが蟻はなんとなく平気に思えるのだ。

 私の皮膚は歩き心地としてどうなのだろうか。蟻と意思疎通が出来ない歯痒さを感じながらもそのままじっくりと観察した。

 思えば、あの人は虫を飼うのが好きだった。中でもカブトムシが好きらしく、夏になると買ってきては、二人で暮らしていた家の風呂場に置いていた。もっといい場所があるのではないかと思ったが、居間にいたらいたで食事中に目に入るとちょっと心臓の辺りがひゅっと縮こまる気がしたので追及はしないでおいた。

 カブトムシは殆ど脱走して姿を晦まし、虫かごには主役のいないもの悲しさが残っていた。第一の夫はそれが発覚するたびに必死で探すのだが、いつも見つからなかった。


「そんなに探していないんじゃ、もうとっくに外に逃げちゃったんじゃないの。いい加減諦めたらどうよ。」

「いいや、まだだ。」


 私の左手の薬指には結婚指輪が煌めいていた。それは純真な真っ白さを彷彿とさせる真珠のような輝かしさではなく、獲物を捕らえるために神経を研ぎ澄ます百獣の王の瞳のようだった。爛々としてどこか恐怖さえ駆り立てられた。

 それでも私は、私には、この人しかいないと思えていたのだ。

 毎夏になると懲りもせずカブトムシを購入し、脱走しては家中を隈なく探し回る彼は、今思えばとてもマメでありどこか滑稽だ。


「馬鹿だったなぁ。」


 蟻を見ながら独り言ちる。

 幸いにも、他に喫煙所を利用している人の姿はなく、言葉を怪訝に思われるようなことはなかった。蟻が親指からサンダルへと土俵を変え、足の甲のかたちに沿って歩いていき、遂に地面に帰っていった。

 よかったよかった。ホッと一安心し、煙草を灰皿へと垂直に立て火を消した。目的地もなく歩くのは苦ではないが、ゴールがないと中々楽しめないものだと、またも息を吐き出した。

 喫煙所を後にした私は、いつの間にか家に向かって足を進めていた。サンダルがアスファルトをザッザッと乱雑に蹴っていく音を聞き、前だけを見ていた。通行人のことなどちっとも気にはならなかった。そもそもお洒落を放棄したある種の素のままの私を、人様がどう思うかなど粗方見当はついてしまう。

 祖母が与え去って行った我が家。両親のいない私。二回離婚した私。これから先、どうなっていくんだろうか。どうしたいんだろうか。何をすれば正解なのか。さっぱり分かりはしないけれど、一つだけたしかなことがある。

 煙草が美味い。


 そう感じてるのなら、まだ自分には元気に笑って暮らせる余裕はありそうだった。



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マーマレード味の煙管 くもの すみれ @kumonosumire

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