決められた物語

「マクベス!!」

 高い悲鳴があげて、アナスタシアが立ち上がり駆け寄ろうとする。

 それを肩を掴み止めたのは青年だった。

「大丈夫。あれは彼を殺さないよ」

 焦った様子一つなく青年はそう告げる。

 その言葉の意味を理解できないまま絶句していた宮子は化け物が変化していくのを目の当たりにする。

 青く黒い化け物はその色彩を紫に変化させていた。違う、色は変わらない。透けていた。透けた身体が周りの赤を取り込んで紫に見せているだけ。その身体には内臓や骨はなく、腹部にマクベスが浮かんでいた。目を閉じ、動きを見せない辺り意識を失っているらしい。

「あれの身体は水だ。溺れさせるようなものではないから安心して」

「本当に?」

 恐る恐るにアナスタシアが青年を見上げる。それに青年は笑顔を返し、化け物に近寄った。

 ほぼ口だった化け物の顔はいつの間にか元の犬のようなものに戻っていた。

 青年はその顔を一撫ですると腹部の方へ向かい、中に浮かぶマクベスを見る。一面を見ると反対側に周り、見終わると二人に微笑みかけた。

「見る限り怪我はないよ」

 アナスタシアは膝から崩れ落ち、深く息を吐き出した。安心から力が抜けてしまったのだろう。代わりと宮子は立ち上がりアナスタシアの前に出ると青年を見た。

「貴方、誰?」

 突然現れて、化け物を知る様子で、それでいてそのままマクベスを襲わせた。怪しいのにそんな雰囲気は感じられない。冷静に考えればその方が余程不気味ではないか。その事に気付いてからやたらと心臓が煩く鳴り出していた。

 青年は宮子の険しくなった表情と声に困ったような顔をして小さく首を傾ける。

「怖がらないで。別に危害を加えるつもりはないよ」

「マクベスは食べられたじゃない」

「これは話せないからね」

 そうして身体を撫でる。化け物は反抗する様子はない。だからとて懐いているかのような仕草もなく、宮子たちを見つめている。

「これは自分の仕事をしているだけ」

「仕事?」

 反芻する。

 青年の瞳がアナスタシアに向けられた。

「遠出をしてしまったからね。帰らないといけない」

 びくりと小さな肩が跳ねる。

 深く考えなくても分かる。化け物は二人を元の世界へ連れ戻しにきたのだ。逃げてきたのだから追い掛ける存在がいるのは当然だが、二人は化け物を知らなかった。二人を見失ってから放たれたのかもしれない。

「お嬢さん。帰りなさい。あなた方のいるべき世界はここではない」

 優しい声が促す。けれどそこに選択の余地はない。マクベスが既に捕まっている以上、アナスタシアは従うしかない。

 それが正しいのかもしれない。けれど。

「ダメだよ」

 言葉が溢れた。

「帰ったら……アナスタシアは生贄になる」

 夢だと思った世界が現実でもあるなら。

「そしたら、マクベスは魔王になる!人間を憎んで、アナスタシアの残した世界を形見にして、ずっとずっと人間を憎んで!殺される!」

 二人を見殺しにしてしまう。

「ミヤコ、それは、どういうこと?」

 振り返るとアナスタシアは顔色を変えて宮子を凝視していた。

「アナスタシアがいなくなって、その後に戦争が起きるの。二人が一緒にいた村もあの花畑も全部焼き尽くされる。世界の為に貴方が犠牲になったのに、人間はそれを無駄にしようとした。だからマクベスは人間を憎むの。憎んで憎んで、人間を敵にして。最後には殺される!自分と同じ道を選んだはずの主人公のハランに!」

 言葉が溢れて止まらない。上手く説明ができているかは分からない。それでも少しでも伝わればよかった。帰った先に未来がないと。

 それは伝わった。見開かれた瞳は揺れている。言葉を失い、色を失い、それでも告げられた言葉を受け止める。大切な人の未来を。

「いや……そんなの、いや」

 戦慄く唇からようやく絞り出された声は震えていた。

「マクベス……」

 助けを乞うように。呼び掛けるように。名前を呼ぶ。化け物の腹で浮く存在に。一緒に逃げようと連れ出してくれた大切な人を。

 華奢な手が伸ばされる。

 水が噴き上がった。

 それは壁となり、アナスタシアの姿を掻き消す。

 突然のことに啞然としていると水は止み、噴き上がった水は中空に居座っていた。

 化け物だった。マクベスを飲み込んだ化け物と同じ。ただ、その腹にはアナスタシアがいた。目を閉じて、意識を失っている。

「それでも帰らなければならないんだ」

 青年が告げる。変わらない穏やかな声で。それがむしろ非情さを増させる。

「な、なんで……二人とも死ぬのよ!」

 思わず叫び、青年を睨みつける。

 だが、それを意に介した様子もなく見返す。

「そうだね」

「見殺しにしろって言うの!二人はまだ子どもで」

「君は物語を書き換えてもいいと思うかい?」

「え」

 突然の問いに意表を突かれる。

「どちらが先かは分からない。けれど、少なくとも君は二人の物語を知っているのだろう?」

 二人の物語。死に逝く物語。幸せなどない不幸せな物語。宮子はそれを知っている。だからこそ止めようとした。

「確定した世界を壊していいと思うのかい?」

 静かな瞳が宮子を捉えて離さない。

 遠くから乾いた音がする。パラパラと。紙が捲れるような音が。

「残念だけど、君の望みはあの世界全てを否定することになる。それは許されない」

「どうして」

 怒るわけでもなく力無く落ちる言葉に青年はやおら指さした。

 宮子自身を指しているように思えた。だがそれは違っていて、宮子の背後。赤くけぶる世界の先だった。

「音が聞こえるだろう?あれはこの世界に一番最初に繋がった時の音だよ」

 聞こえる音。ずっと遠くから聞こえる乾いた音。紙の捲れる音。

 そうだ。最初からそんな音が聞こえていた。

「シナリオとして書き終わった世界。既に紡がれた世界。それは歴史だ。君は君の知る彼等の世界全てを否定して壊したいのかい?」

 静かに、諭すように。それでいて突きつけるように青年は言葉の募らせる。

 宮子は知っている。二人の結末を。マクベスが行ったことで始まったゲームの内容を。アナスタシアが死に、マクベスが魔王にならなければ物語は成立しない。ゲームは始まらない。

「だけど、魔王は生まれない」

 根源がなければいいのではないか。誰も死なない。苦しまない世界の方がいいはずだ。

「本当に?」

 問い掛ける声がやはり静かだった。なのに、不思議と重さを感じて身が竦む。

「二人が逃げたら、誰かが代わりになるかもしれない。本来ならば進むはずのない誰かが肩代わりすることになるかもしれない。君は見知らぬ誰かを犠牲にして二人を逃がすかい?」

 聖女は一人ではない。アナスタシアがいなくなれば代わりの聖女が生まれ、生贄にされる。それが脈々と続き、主人公のヒロインの代になる。青年の言うことは起きるだろう。聖女がいる限りマクベスと同じ道を行くものがいる。

 それならば。

「二人である理由もない」

 マクベスとアナスタシアである必要もない。

 青年は目を細めて溜息を吐いた。

「君みたいな発想は困る」

 心底落胆したような低い声が言う。

 瞬間、青年の背後にいた化け物は消えた。

 どこにと姿を探すが見つからない。さらにはアナスタシアを飲み込んだ化け物もいなくなっていた。

 ざぁっと血の気の引く音がした。

 連れて行かれた。

「君も帰りなさい。ご家族が心配しているし、まだ来る予定でもない」

 先程の低さなどない、最初に聞いた穏やかな声が促す。けれどそんなものは聞こえていなかった。

 連れて行かれた。二人はあの世界で死んでしまう。きっと物語通りに。

 友達ではない。大切な人でもない。一時間だって話していない。そんな存在なのにどうしようもなく苦しい。

 結末を知っているから?

 違う。

 横で確かに笑っていた。確かに存在していた。花を見たいと話し、その隣にいたいと淡い願いを口にした存在がいた。

 生きていた二人を見殺しにした。

 涙は出ない。ただ悔しくて苦しくて。唇を噛み締めることしかできない。

 自分が異世界転移者のようであったなら救えただろうか。

「救えない」

 言葉が耳に刺さる。

「君の思う存在は所詮は劇中劇の役者。紡がれた物語の中の存在。本当の転移者は救世主なんかにはなれない」

 一度切れた言葉が重さを増して降りかかる。

「ただの異物だ」

 視界が歪む。泣いているわけじゃない。何かに覆われたのだ。

 視界だけではない。全身を何かに包まれた感覚がある。冷たくも暖かくもない。けれど明確な実態はない。

 水の中にいる。

「世界の介入というのはね、君たちが思うよりも冷酷で残酷だ」

 水の外から青年の声が聞こえる。不思議とそれは鮮明だ。

「創り上げた者たちの思いも考えなさい」

 声が遠のく。視界が狭まる。

「言っても、起きた頃には全て忘れているだろうけど」

 遠く遠く。消えていく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る