理想橋に差す光

幸田跳丸

第1話 車椅子の少女、上野智恵

 多くの人は死ぬ場所も手段も選べるが、希に強要される場合もある。しかし、一番の不幸は自分が生きているのか死んでいるのかも自覚できていない瞬間だ。



 始発電車もまだ走らない新井薬師前駅。多くの店が電気を消している寒空の下、私は車椅子を止め、自動販売機に小銭を入れた。温かい飲み物が一番下の段にあって助かったという思いで、汁粉缶を一つ購入してプルタブを開けた。



 冷えた両手を温めるように包むと、じんわり掌が痺れ痒くなる。両手で持った缶に口を付けると、ドロリとした液体が強い甘みと共に喉を下っていき、ホッと吐き出した息が白く、ゆらゆらと風に攫われて消えていった。



――お母さんやお父さんに深夜外出が見つかってしまったら、外出の禁止を言い渡されるかな。だからといってこの楽しみを止めてしまうには、この背徳的な高揚は本当に惜しいから、見つかるまでは続けていよう。



 踏み切りの傍にある交番が一番の難所だった。書き物に没入している警察官はまるで此方に気づきもしていない。車輪をゆっくりと回しながら踏切を横断したところで、大きな伸びをして席を立ち上がった警察官の姿が一瞬だけ見えた。



「補導なんてされたら、外出禁止だけでは済まされないね」



 それもそのはずだ。



 ここ最近の中野区では殺人事件が立て続けに起きていた。遺体の惨状から窺える犯人の狂気的な意図。



 被害者は昨日のニュースでは三人目だと報道していた。一人目の殺人事件は三ヶ月前に遡り、その短い期間で続く二人もの女性を殺害した。その殺害方法は至ってシンプルなものだ。



 心臓を鋭利な刃物で突いた際にできた隙間に花を差す。

 


 誰が聞いても真っ当な思考をした人間の成せる業ではない。

 


 全く同じ手段で殺された被害者女性たちには面識も無く、背格好もバラバラで犯人の選定基準が不明瞭であった。しかし、どうして中野区という特定の地域でのみ犯行を行う必要があるのか。警察は三人もの被害者を出していて未だに犯人に繋がる手掛かりを見つけられていない、これもニュースで報じられていた。



 車椅子を哲学堂公園方面へと進ませ、四村橋手前を左に折れて直進すると中野通り。大通りを左折して新井薬師前駅の駅名由来の梅正院を目指す。



 明治初期の頃には料亭だった木造物件を中期頃に文染家という資産家が買い取り、東京大空襲を奇跡的に乗り越え、戦後まもなく上野家が引き取った。中野区上高田の住宅地に建つ私の住む家はある意味で有名だった。



 初詣には行列を作る梅正院を抜けて、しばらく住宅街を進むと現れる背の高い板垣がずっと先まで続く敷地。



 鍵を使ってゆっくり大きな門戸の小さな扉を開けた。顔をそっと覗かせて様子を見るとどの部屋にも明かりはついていない。この隙に自分の部屋まで帰れれば深夜非行は無かったことになる。



――あと少し。



 門戸を施錠してから、玄関まで伸びる白の石畳。左手側には小さな池があり敷地の端には大きな裸の樹が植えられ、枝が板垣の外側へと伸びている。あれは母が上野家に嫁ぐ際に実家から持ってこさせた桜の樹で、母にとって我が子同然の桜は毎年上野家に春の訪れを報せてくれる。



 暗がりに目も慣れていたが、少し距離があると黒い影が桜の木に寄りかかっているように見えた。家を出る前にはあんなものは無かったと記憶していた。車椅子を方向転換させて庭を進んでいくにつれて、木の根っこ部分に固まる黒い塊の正体が露わになる。



――あれは。



「人間?」



 桜の傍まで来てそれが人間で、衣服の上から乾いて変色した血が胸元に広がり、大きな弁を持つ花が胸に差し込まれていた。しかしその遺体の顔に見覚えは無い。母でも父でもなく、住み込みの給仕達の誰でもない他人の誰か。



 まるで眠っているように、穏やかな表情で、胸に花を咲かせていた。



 私は無意識でその花に手を伸ばそうとした時、「智恵ちえさん!」背後から呼ぶ声で咄嗟に手を引っ込めた。



 視界がグルリと急に反転すると顔に温かくて柔らかいものが押しつけられた。後頭部へと回された腕の感触で、自分はいま抱きしめられているのだと理解した。



「智恵さん……、この人は何を、いいえ、どうしてこんなことに」



 狼狽しているが、知恵を抱きしめる力は震えながらも強く、懸命にソレを見せたくは無いという意思がしっかりと伝わってきた。



 無意識に彼女、美園みその涼子りょうこさんの背中に腕を回して同じように抱きしめた。甘える子供のようだとも思ったが、彼女の優しさに甘えたい衝動を抑えられなかったのかもしれない。



 上野家で誰より自分に寄り添って、理解しようとしてくれるこの女性に、寄り添いたい、誰よりも理解して共に過ごしたいと思っていた。



 この状況でずっとこうしている場合でもなく、名残惜しくはあるが彼女から顔を離す。



「涼子さん。警察と救急に電話を四人目の被害者だよ」



 私は涼子さんに指示を出すが、彼女はジッと遺体の胸に咲いている花を見つめていた。「涼子さん?」背後に回った涼子さんは急ぎ足で車椅子を押しながら玄関へ。土間造りの玄関には沓脱石があり、彼女は玄関にあがると据え置き電話へと飛びついた。突然の衝撃は彼女の思考に齟齬を生じさせているようで、抽象的な説明を何度も繰り返している。



 美園涼子をよく知る人間であれば、普段の温和でおっとりしていて、困ったように微笑む彼女の、年齢より若く見える姿からは想像も付かない慌てようだ。



 電話が終わると涼子は深呼吸をしていつもの調子を取り戻そうとしていた。



「智恵さん。一度、お部屋へお戻りになりましょう」



 涼子さんは車椅子に座る私の身体を支えながら、ゆっくりと立ち上がらせてくれた。地に着く足が震えているのは人間の死を目の当たりにしたせいではない。小学校に上がる以前、両足に障害が現れてからは支えなしで立ち上がれなくなってしまった。だからこうして涼子さんの身体にしがみつきながら玄関を上がり、壁に取り付けられた手摺りと杖を使わなければ歩くことさえ満足にこなせない。



 玄関から左手と正面に通路が伸びていて、中庭を囲むように正四角形に繋がっている。真上から見れば漢字の回という字に見える。中庭は全面がガラス戸で囲われているので一階の全体が見渡せる造りだ。二階も全く同じ造りで、一階の正面側には居間がある。その正反対、裏庭に面して涼子さんの部屋と空き部屋が二つ。玄関から正面の通路には知恵の部屋が一番手前にあり、浴室、物置と並んでいて、曲がり角には二階へと続く折り返し階段がある。ちょうど私の部屋の真向かい側には広々とした厨房があるのみ。



 まだ数秒程度なら身体を支えられる右足を軸に自室へ移動した。



 この家で唯一、廊下と室内を襖で仕切られた部屋。涼子さんが気を利かせて襖を開けると七畳ほどの和室。年頃の女の子の趣味なんてひとつも飾らない殺風景な、ベッドと小さなテーブル、本棚とテレビくらいしか家具のない上野智恵わたしの部屋。



 ベッドに腰掛けるまで付き添ってくれた涼子さんは私と視線を同じ高さで合わせ、「私はこのことを奥様と他の給仕に知らせてきます」最後にギュッと抱きしめてくれると、彼女は部屋を急ぎ足で出て行った。



――涼子さんがお母さんだったら。



 しばらく部屋でジッとしているとドタドタと騒がしい足音が上階に響き始める。お母様や給仕達が事情を聞いて飛び起きたのだろう。ちょうど庭を一望できる居間に足音は集結し、それから直ぐに二人分の足音が廊下から此方へ向かってくるのが分かった。



「智恵。どうしてお庭になんかいたの!」



 若々しく見える明るい茶髪を根元で結った細面の色白い女性は上野うえの利佳子りかこ、私の母親。神経質で粘着質を思わせる小さな眼をした小柄な彼女が、睨み、気迫を従えて迫ってきた。



「外の空気を吸いたかったの。お庭に出たらお母様の桜の幹に何かがあったから、近寄ってみたら」



 家向きの言葉遣いでお母様を見上げる。



 お母様は忌ま忌ましい蔑みを感じさせる眼で視線を合わせる。私のこの眼がどうも気に入らないらしく、普段は正面から視線を合わせようとしない。しかし、その気持ちを理解することはできた。隔世遺伝を有したこの暗緑色ダークグリーンの瞳。母方の祖母はアイルランド出身、綺麗な明るい緑色の眼をしていた。とても優しい光を滲ませる草原の柔らかさをもつ祖母とは異なり、私の眼は樹海の向かい側から覗く死を連想させる。



 意識的にお母様から視線を落とした。



――この人は私を娘として愛してくれていない。



「貴女は足が悪いのよ!? もし、転んで顔に傷でもついたらどうするつもり。上野家の一人娘として自覚を持って育ちなさい」

「奥様、智恵さんにもっと寄り添ってあげてください。目の前で人の死を見てしまったのですよ。もっと掛けるべき言葉が」



 お母様の刺々しい押しつけにやんわりと涼子さんが仲裁を入れるも、彼女のヒステリックの矛先が涼子さんへ向いただけで、私に向けていたものとは異なる、疎ましさや忌避感といった否定的な眼で涼子さんを映した。



「他人が親子の問題に口出しは無用ですよ、涼子さん。一番古くからこの家で働いてくれていて、典昭さんは貴女の仕事ぶりを評価されていますけど、けっきょくは他人です。智恵の母親は私なの。それなのにいつも智恵にべったりとして、他人が母親面しないでいただけますか? それと、焼きそばなんてつまらないものを食べさせないで」

「そんなつもりは……。私は」

「言い訳なんて珍しいのね。なぁに、聞いてあげますから言ってみなさいよ。覚悟ができているのなら、だけどね」



 これではイジメだ。お母様はどうしてか涼子さんに対してだけ特に当たりが強い。涼子さんが私と一緒に居るときは目に見えて不機嫌そうな態度をとる。



「お母様はどうしていつも涼子さんに辛く当たるの? 外出したくてもお母様が付き添ってくれないから、涼子さんが不憫に思って好意で私によくしてくれているのよ。それに焼きそばは、私の好きな食べ物だってお母様は知っているはず。それをつまらない物だなんて」



 自分にとって姉のようで、母のような存在である涼子さんがこれ以上理不尽にいびられるのを黙っていられなかった。



「お母様は私を愛してくれているの?」



 視界が突然揺れた。鋭い痛みが熱感を伴って頬に広がっていく。ゆっくりと見上げると、自らの右手首を左手で押さえながら、唖然として、自身のしてしまった行為に対して驚きに瞳孔を震わせている様子のお母様。



「奥様、なんてことを!!」



 涼子さんがとっさに私を抱きしめた。その抱擁は強く。まるで我が子を庇う母の姿。彼女の横顔からは、強い否定的な眼でお母様を睨み付けていた。



 普段ならばこういった行為に目くじらを立てて一喝しているところだが、現状と自分の感情にまかせた行いで動揺しているせいか、涼子さんをこれ以上叱りつけること無く、それどころか居心地が悪そうにまだ自分の娘を叩いた掌に視線を落としている。



「智恵……、ご、ごめんなさい。別に叩くつもりなんて」

「私が焚き付けるようなことを言ってしまったから。ごめんなさい、お母様。それよりも給仕さんたちはきっと困惑しているよ。指示を出して警察を迎える準備をしていた方がいいと思う」



 提示した逃げ道に縋ったお母様は、「ええ……、そうね」何度か頷いて部屋を出て行った。居間でざわつく給仕達は彼女の指示に従って現場に踏み込まないよう、ならびにそこら辺の物には触れないよう言い付けている。



 二人残された沈黙の中、遠くからサイレンの音が微かに聞こえてくると、涼子さんは隣に腰を下ろしてそっと私の手の甲に温かな手を重ね、「大丈夫ですよ。何があっても私は智恵さんの味方ですから」困ったように微笑む。



「涼子さんがお母さんだったらって、いつも思うの」



 打ち明けた本音。



 涼子さんは大きく見開いた眼でまじまじと私を見てから、どこか悲しそうな、諦観しきった表情で俯くと、「そう……、そうね。きっと温かい家庭が築けたでしょうね」拳を固めて膝の腕小さく震わせた。



「そうだわ、智恵さん。二人の時だけ、誰も居ない時だけ、私のことをお母さんだと思って甘えてくれていいのよ」

「思っているよ、常にね。じゃあ、お母さんって呼んでもいい?」

「もちろん。こんな私で務まるか分からないけど、智恵さんが望んでくれるなら、お母さんでいたいわ」



 涼子さんに子供は居ない。結婚もしていない独身の女性。彼女のような器量よしで綺麗な女性がどうして結婚しないのか。彼女をよく知る者から見れば、とても理想的なお母さんを務め上げられるはずだ。良縁がないのか、彼女からはそう言った話を聞いたことがなかった。



「お母さん」



 質問してみようかと口を開くとインターフォンがなり、上野家がざわついた。警察と救急が到着したらしい。玄関からはお母様の切羽詰まった早口が聞こえる。



 一人分の聞いたことの無い重みのある足音が部屋の前で止まった。



「上野智恵さんだね。初めに遺体を発見した貴女からお話を伺っても?」



 白黒の斑髪を後頭部へと流した壮年の男が、彫りの深い顔を気さくな笑顔で、その仮面に細められた眼は、私の心を理由も不鮮明なまま跳ね上げさせた。


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