言葉
バーリは小首を傾げてふたたび鏡に手を伸ばした。さっきは確かにちゃんと鏡を取ろうとしたつもりだったのに、今現在、件の鏡は、なぜか手の先とは少しずれた位置に鎮座ましましていた。
疲れてるかな?
バーリは今度はしっかり鏡を見据えて手を伸ばしてみた。それを掴もうと指が動いたところで、ふっとそれは、確かにふっと・・バーリの手を避けて横に動いた。
バーリは軽くめまいがした。そのあとすぐに猛然と腹がたってきた。なんだこれは?俺には取れないと・・俺には触らせないとでもいうのか?
「いい加減にしろよ・・。」
そうドスを効かせた声で彼はつぶやくと、今度はできるだけの速度で鏡を捕まえにかかった。しかし鏡はさっとよける。もう一度、さらに一度、けれどどうしても、金の縁の鏡はバーリの指先に触れもしない。
これはいったい?
あたりを見回しても他に出口はなく、この部屋は突き当たりである。秘密の扉があるのかどうかは知らないがとりあえず目の前には祭壇と鏡だけだ。ファルの姿もやはりない。
ではこれはまやかしか。何のためにこんなまやかしをするのか?とことん俺をコケにするためだけにあるのか。そんな無駄を何だってするのか?
思い知れということか?
おまえは偽者だと?確かに。しかし俺は、俺は・・。
バーリは懲りもせず鏡を捕まえにかかる。鏡は難なくそれをよける。何やってんだか。しかし俺は・・。バーリの目にラーダーナの名前を彫った金文字がやたら鮮やかに飛び込んだ。
二十数回そんなことを繰り返し、またもその指先から鏡が消えた時、とうとうバーリは叫んでいた。
「いい加減にしろっ!俺は・・」
言いかけて言葉が頭のうしろで渦巻く。彼自身の中の何かが言う。ほんとうに?バーリほんとうに?おまえにその資格があるのか。おまえはただの・・
「うるさいっ!」
バーリはその声を打ち消した。白い花が目の前に舞うような気がした。あの花だ。同じくらい白いあの顔を縁取って囲んでいた、夢のような香りのあの花だ。
「俺はラーダーナの夫だっ!」
ラーダーナ・・。
「ラーダーナは俺の妻だっ!」
目の前がさあっと真っ白になる。小さな花びらがそこらをいっぱいに埋め尽くす。甘くはない香りに、しかしやはりむせそうになる。
何もかもが一瞬わからなくなって・・。
気付くとバーリは見知らぬ部屋のまん中にいた。そこはがらんとしてひんやりして、ちょっとだけかびのような埃のようなにおいがした。
正面に色味の少ないしかし壮麗な祭壇があり、その上に所狭しと鏡や人形や燭台などの小物が並べられていた。
そのわきにあのファルが腰掛けていた。飾り気のない小さな丸椅子に座って、バーリの顔を見入られたように凝視していた。
その大きな瞳には、かがやく、やはり大粒の涙がいっぱいにたまってふくらんでいた。しんと静まり返ったその部屋の中で、やがてその涙が、静かにすうっと、まっすぐに、ファルの張りのあるなめらかなほほをひとすじつたって落ちていった。
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夜はまだ明けきっていなかった。
簡単に張った布の下、一枚釣られたカーテンをそっと持ち上げて、バーリはよく眠っているファルの顔をちょっと見遣った。寝顔をあんまり見るのは無礼かなとも思ったが、これでお別れと思うとやっぱり見てしまう。
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