鬱バット
政宗あきら
鬱バット
「ですが安心してください、あなたがこれから住むこの世界は、精神医学がとっても発達しているのです」
僕の向かいに座るのは、白衣を身にまとった長い黒髪の少女。名前をニールと言って、この若さで医師を務めているらしい。
見た目は15、6歳といった所だろうか。まだ表情にはあどけなさが残っているけれど、説明する眼差しは真剣そのもので、とても冗談を言っている様には聞こえなかった。
「精神医学?」
「はい。ヒロトさんの様に異なる次元からやって来る方は、しばしばおられるのです。そして皆さん同じように、精神や心にダメージを負うことが多いですから」
ボーっとする頭で色々と説明を受けたから、正直どこまで理解できたかは怪しいが……これまでの彼女の話はつまりこういう事だった。
僕は元いた世界でトラックに撥ねられて死亡。そしてなんの奇跡か肉体と精神が次元を超えてしまい、この世界――具体的にはブレイブ公国という土地で生まれ変わってしてしまったのだと。
今いる場所は公国領内にあるブーマー村と呼ばれる小さな農村。道端で倒れていた僕は彼女に発見され、この病院のベッドに運ばれたという。
「考えてみれば当然ですね。異なる言語、異なる物理法則、それらに強制的に適応させられるのですから、脳には相当な負荷が掛かっているのだと推測します。ドーパミン等の神経伝達物質が不足し、喜びや楽しいといった感情が喪失する……そのような状態ではないでしょうか」
「はぁ……」
目を覚ましたとき、まず最初に頭がズキズキと痛んだ。
身体の痛みも酷く、全身くまなく筋肉痛の様な状態だ。起き上がってから小一時間ほど経っているが、今もって痛みが治まる気配はない。
そして気分の落ち込みが酷い。もう何も考えたくない。何もする気が起きないし、こんなに重たい心身は初めて感じるものだった。
「それらの痛みも心因性のものと考えられます。貴方の状態は転生性気分障害、またの名を『転鬱病』と診断します」
との事。
「あの、さっき転生してくる人が多いって言ってたけれど」
「はい。1年に1人ほどのペースでしょうか。今は皆さん快復されて、元気に過ごされています」
「そうなのか……」
「異世界から運びこまれる知識は、この世界にとって非常に有益なものです。公国にとっても貴重な人財ですから、こうして医学も発達しているのです」
なるほど知識。元の世界では常識みたいなものでも、この世界では重宝されるのだろうか。
「まぁその辺りは追々ですね。早速ですが治療に移ります。皆さん驚かれるのですが、魔法を用いた秘術により回復まで3日もあれば」
「えっそんな簡単に……ていうか魔法? それってファンタジー的な?」
「ふふっ皆さん、同じような反応をされますね。この世界では医学に魔術を用いるのです。私の技術を用いれば、貴方もすぐに良くなることでしょう」
そういって、彼女が取り出したのは木製のバットだった。
「なんでバット?」
「バット? いえ、これは祝福の施された
いやどっからどう見てもバットなんだけど。
「で、その聖杖でどうするっていうんだ?」
「この清められた法具により治療を行うのです」
彼女は両手で杖の端をギュッと握り、右足を大きく踏み込んで振り抜いてみせた。
小さな身体に似合わない、身体全体で竜巻を起こすようなフルスイング。
その軌道は大きく美しく、僕が元の世界で見たことのある……オリックスバファローズの選手にそっくりだった。
「
「ヨシダ? 私の名前はニールですよ?」
「その、吉田っていう野球選手に凄く似てて……いやそうじゃなくてバットじゃねえか! 思いっきりフルスイングしてるじゃん!」
「もう、聞き分けの無い方ですねぇ。名前はなんであろうと構いませんから、そこで大人しくしてください。治療を開始できないではないですか」
「いや、まぁ……それもそうか」
「これから私は呪文を詠唱します。あまり騒がれると集中できず、返って病状が悪化するかも知れません」
だから大人しく、と。
そう告げて彼女は瞳を閉じた。
続けて鈴の鳴るような声を紡ぎ始める。
「――力を求める限り」
手元に青白い光が灯り始める。
「――幾多の困難を乗り越え」
光の奔流が聖杖を包むように広がり、辺りには風が巻き起こる。
「――前人未到の境地」
確かにこれは魔法、なのだろう。
「――辿り着くその者の名は」
けれどこの言葉、どこかで聞いたことがあった様な……
「――正尚――正尚――正尚――正尚」
「だからオリックス吉田の応援歌じゃねえかっ!!」
「もおおお何なのよ人が詠唱しているのに! 吉田さんなんて私は知らないわよ!!」
「ていうかバットで治療って何だよ! 一体これから何ガッ」
「聞き分けのない方はこうです。
声を上げようとしたが口がうまく動かない。竹で作られた口枷がいつの間にか俺の口元に装着されていた。
「む、むぐー! むぐー!」
口元だけではない。気が付けば両手両足も黒い何かで縛られている――!?
「ふぅ、では気を取り直して治療を再開しましょう」
詠唱が始まり、部屋の中が光と風で満たされていく。
やがて正尚の名が四度告げられると同時、ひときわ大きな閃光が放たれ、彼女はこちらへと踏み込んだ。
流れるような軌道がまっすぐ、寸分の狂いもなく、僕の頭蓋を粉砕する。
感じた事のないような痛みに襲われながら、あぁ、なんて綺麗なフォロースルーなんだろう……そんな事を思いつつ、意識は闇へと飲まれていった。
◇
「ヒロトさん、お加減はいかがですか?」
ベッドの上で目を覚ますと、ニールが僕の顔を覗き込んでいた。
「え? あれ、どうなって……」
一瞬、頭がズキリと痛む。
そうだ、俺は彼女に身体を拘束されて、凄まじいフルスイングで頭蓋を割られ……あれっなんか身体が軽い?
「顔色も随分とよくなっています。身体の方はどうでしょうか」
そう言われてベッドから起き上がると、あんなに強かった痛みがない。試しに腕をグルグルと回してみたが、なんの引っかかりも感じなかった。
「あ、うわ、なんだこれ」
「その様子ですと治療は成功したようですね。良かったです」
ぱあっと咲くような笑顔。
表情は安堵と喜びに満ちており、見ているこっちまで笑顔になってしまいそうだ。その右手にバットが握られていなければ。
「そのバット……」
「ですからバットではありません。これは聖杖ですってば」
血に濡れたバットを握る少女。
その赤黒い色はどう考えても僕の脳から噴出したものだった。
「治療って、こう、僕の頭をフルスイングしたアレが」
「えぇ、研究の末に辿り着いた精神医学魔法の秘儀です。清められた杖で患者に刺激を与え、即座に回復魔法を施すことで神経伝達物質の正常化を図る。どんなに症状の酷い方であっても、5~6回ほど繰り返せばバッチリなのです」
「5、6って……」
先ほどの映像が頭を過る。
あんなのを何回もやられたら、それこそ精神が崩壊するのでは。
「ヒロトさんの場合は3回で大丈夫でした」
「えっ3回も!?」
「はい。記憶には残っていないかも知れませんが、気絶している間に、こう」
ブオン、と音を立てるフルスイング。
「それより、しばらくは安静にしていてくださいね。決して病院の外に出るなどなさいませぬよう」
「ていうか何で吉田正尚なんだよ!?」
「だから、吉田さんなんて知りませんてば。では私は診察がありますので」
プイっと顔を背け、彼女は部屋を出て行った。
なるほど安静。治療(?)が終わったとは言え、まだ油断はできない状態なのかも知れない。
そう考えて1時間ほどベッドでゆっくりしていたのだが、身体が元気だとヒマでしょうがない。クリアになった思考は興味の矛先を探し、何か面白いものはないかと考えてしまう。
廊下に出ると幾つかの部屋があった。ドアにはそれぞれ診察室、休憩室、書庫などの表記があり、見知らぬ文字のはずなのに意味が何となく伝わってくる。
一番奥の部屋には『立入ヲ禁ズ』と銘打たれている。だのにドアが少し開いていて、風が吹けばそのまま部屋の中が見えそうになっている。
これはアレか。
転生したばかりで文字が読めませんでした、とか言えば通じるヤツだろうか。いやいや開いていたので閉めましたでも良いかも知れない。
暇をもてあました脳が刺激を求めている。吸い込まれるようにして、僕はドアノブに手を掛けていた。
ほんの少しだけ。少しだけなら。
そんな衝動に身を任せて覗き見ると……部屋の中は吉田正尚グッズで一杯だった。ユニフォーム、タオル、グローブ、バット、キーホルダーにカレンダー、そして何枚あるとも知れない写真の数々。
「や、やっぱり吉田正尚じゃねぇか……」
「見ましたね?」
「へっ?」
振り返るが早いか否か、僕の頭部に激痛が走った。
「痛ええええ!!!」
「あら、少し芯を外してしまいましたね。ではもう一度」
「ちょっと待ってくれ。君は一体、何者なんだ」
「そうですね……どうせこの後で記憶を消すのですから、少しだけ教えてあげましょう」
年下とは思えない妖艶な笑みを浮かべ、彼女は続ける。
「この世界では、異世界からの人間はとても貴重な人財なのです。その知識を目当てに国が相争い、そして死ぬまで酷使される」
「こ、酷使」
「実は私も貴方と同じ世界から来たのです。生前は京セラドームでバファローズに声援を送る、ごく平凡な女子高生でした」
ごく平凡、という言葉に引っかかりを覚えるが何も言わない方が良いだろう。バファローズファンなんて大阪府内でも絶滅危惧種だし、ましてや10代の女の子なんて存在するかさえも怪しい。
「私はこの国で転生者と知られずに過ごしています。北の大国・マレーロから秘密裏に脱出して得たこの平穏な生活を守らなければならない。吉田推しだとバレてしまえば、私もサトタツのように酷使でリタイアしてしまう。それだけは避けたいのです」
サトタツ、とは確か元バファローズ・佐藤達也投手だ。剛速球を武器に活躍したが、あまりの登板数が祟ってかその期間は非常に短いものだった。
「しかし我ながら油断でした。まさか吉田選手の応援歌を知る人が転生するなんて。精神統一の為の呪文も、改良を加えなければいけませんね」
「そ、そりゃあ酷使は嫌だな。分かった、協力する。吉田正尚のことも絶対に言わな」
「ですが私はまだ貴方を信用していません。オリファンは疑い深いのです。応援歌を知っていると言って、どうせ貴方も阪神ファンなのでしょう?」
「ぐっ……」
図星を突かれて言葉が出ない。
オリックスファンが疑い深い、というのも確かに分かる。野球の話で盛り上がっている同級生に『どこファン?』と聞かれ『オリファン』と答えたなら、10割近い確率で会話が終了する。そんな思春期を過ごしていたるのだから。
「ですから、魔術を用いて貴方の記憶を消します。後遺症などはきっと残りませんから安心してください。
「む、むぐー!」
「ふぅ、ではゆっくりお休みくださいね♪」
詠唱が始まり、部屋の中が光と風で満たされていく。
やがて正尚の名が四度告げられると同時、ひときわ大きな閃光が放たれ、彼女はこちらへと踏み込んだ。
流れるような軌道がまっすぐ、寸分の狂いもなく、僕の頭蓋を粉砕する。
3度目の痛みに襲われながら、あぁ、なんて綺麗なフォロースルーなんだろう……そんな事を思いつつ、意識は闇へと飲まれていった。
鬱バット 政宗あきら @sabmari53
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