第96話 グライムに教えられる 16
遊川が奥へと進んでいくのを遠ざかっていく足音で認識しながら、ニアンは押し倒された身体を起こしていた。
「真面目にやれと何度も言ったはずだ、梅吉英雄。何故、ヤツを素通りさせた?」
起き上がり睨むのは英雄の立ち振る舞い。
噂の
計画を失敗させる気なのか、と責めたくもなる。
「うるせえ、オレはハナから大真面目だ、馬鹿野郎! 目の前に、次から次へと、壊さなきゃならねぇヤツが立ってんだ!! なぁ、梅吉っ!!」
ニアンに視線を向けることなく激昂する英雄。
視線を向けるのは、目の前に立ち構える井上梅吉。
「
井上の背後、壁にまで転がり倒れた文哉の姿。
ピクリとも動かないところを見るや、最早すぐの再起は叶わないだろう。
自分の手で仕留めてやれなかった事が悔やまれるが、英雄は再戦を望むつもりも無かった。
「独断専行に、喧嘩沙汰の不問。プロなんて胸張って言えないけどな、彼の――いや、安堂さんの言葉を借りるなら――」
意地を張った青年の名前を井上は知らなかった。
車の中で遊川がわざわざ説明する訳もなく、井上は勝のことを千代田組絡みの誰かとしか理解していない。
しかし、そんな青年が口にした言葉は、井上により覚悟を決めさせるものであった。
「平田君には悪いが、お前を止める役は俺なんだよ、梅っ!」
何度と繰り返し表明する覚悟。
絶対であると、自分へ言い聞かせ、その身を奮い立たせる。
「お前が、オレと瑛太の兄貴分だったお前が、瑛太が事故で突然死んだことで生まれた悲しみや怒りを、オレと瑛太の分まで抱いて暴れてたのは知ってたんだ」
三人分の悲しみを、三人分の怒りを。
抱えて道を踏み外していく英雄を、見ないフリし続けた後悔。
止めるなら、とっくの昔にその機会はあった。
だけど、井上自身が抱くべきだった悲しみや怒りを、英雄が抱えてくれて助けられた部分もあった。
だから、道を別れてこれまで歩んできた。
真っ当な道を歩んで来れた。
「兄貴分のお前に頼りきりだった。恩だなんてそんな虫のいいように思っちゃいないが、返さなきゃならないモノが確かにある」
そう言って井上は顔面に構えた拳をグッと握りしめた。
やり方はわかってる。
不器用でどうしようもない、
やり方はわかってる。
覚悟は何度と決めてきた。
「さぁ、ケリを付けよう、梅っ!」
一歩踏み込んだ井上に、呼応するように踏み込む英雄。
互いに振りかぶる、右ストレート。
真っ直ぐ真っ直ぐ、互いの頬を殴りつけた。
「青臭い
ニアンはそう嘆息すると、遊川に殴られた右腕の調子を確認しつつ、勝の方に向き、構えた。
強打に痺れが残っているが、全く使い物にならない訳では無い。
満身創痍の男を殴りつけるぐらい、容易にこなせるだろう。
「私は付き合う気は無いぞ。昨日生かして帰した恩を仇で返そうというのだろう?――」
容易にこなせるのならば、とっとと済ますのがいい。
ニアンは即座に、勝との間を詰める。
一歩一歩が大きく跳躍するかのようだ。
瞬時の移動、低い姿勢で懐に潜り込むように下から突き上げる左手の手刀。
「――ならば、ちゃんと殺そう」
喉元を狙う手刀を勝は、身体を反らして避ける。
避けた勢いで低い位置にあるニアンの顔めがけ、右足を振り上げる。
ニアンは空振りした手刀を引きながら、その右足を叩き押し返す。
引きの動きを利用して、身をひねり、左後ろ回し蹴りへと続ける。
足を叩かれた勝は、前のめりな姿勢となって蹴りへの対応が遅れる。
防御へと上げた腕が間に合わないと判断するや、前のめりになった姿勢をより前へと倒した。
後ろ回し蹴り――横回転で蹴りをぶつけようとするニアンに、咄嗟の前転で踵を落としにいく勝。
勝の踵がニアンの肩に突き刺さり、ニアンの蹴りが勝の身体を横へ叩いた。
派手に床を転がる勝と、その場で苦痛に耐えるニアン。
双打掌を叩きつけた時の感触は、確かに勝は傷だらけのボロボロの身体をしていた。
もう一撃打ちつければ簡単に壊れる、長い戦闘経験からニアンはそう判断していた。
仕留めれるかどうか、生き死にを賭けた場でその判断は重要なものだ。
間違えるわけが無い。
なのに、まだ動けるというのか?
振り向けば、蹴り飛ばした先で、床を転がった先で勝は既に立ち上がろうとしていた。
ニアンを睨む眼差しは強く、風前の灯火などとは思えない。
「そんな蹴りじゃ、死なねぇぞ、俺は」
意地を張る、虚勢を張る。
奮い立たせる、己自身を。
思い込ませろ、己自身に。
絶対に負けない、絶対に勝つ。
勝は立ち上がる。
身体の震えは収まった。
勝つまで、立ち上がる。
ただそれだけだ。
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