第95話 グライムに教えられる 15

「待って、くれよ……」


 今にも一撃が繰り出されようと対峙する遊川とニアンを制止したのは、か細く出された勝の声だった。

 痛みで痺れる身体を必死に動かし、足掻くように床を指で引っ掻く。

 震える喉を抑えながら吐き出す言葉と共に、血が涎のように垂れていく。

 何処の怪我から来る吐血なのか、最早判断が出来ない。


 遊川は勝のその様子を見ようともせず、ただニアンに向き合っていた。

 向き合って、ニアンを牽制するように睨み威圧をかけ、勝の次の言葉を待っていた。


「悪いけどさ、森川のこと、頼むわ、遊川さん」


 一つ息を吐き、言葉を吐き、勝は身体をどうにか起こしていく。

 痺れる身体、震える足腰。

 歯を食いしばろうとも、もうそんなことで言うことを聞く状態の身体ではない。


「何だ? ギブアップか、情けねぇ」


 言葉とは裏腹に遊川は、ここまでよくやってきたと労いをかけてやってもいいと思っていた。

 しかし、それは残酷な優しさだ。

 慰めを求めてる男じゃないはずだ。

 発破をかけてやる、鞭を打ってやる、そうしてやるのが賞賛だ。

 テメェはまだ出来る、そう言い続けてやるのが礼儀だ。


「違ぇよ、遊川さん。そいつの相手は、俺だって言ってんだ。アンタには、とっとと先に行って、森川の事、助けてやってくれって頼んでんだ」


 身体が痺れる?

 血が口から垂れる?

 満身創痍?

 知ったことか!


 まだ身体は動く、動かなくても動かす。

 ならばやる事があるだろう、やらなきゃならない事があるだろう。


「借りたものは返せ。昨日会ったオッサンがさ、そんなこと言ってて、それが何でか頭にずっと残ってんだよ」


 気紛れで置いた五円玉を返しにやってきた、イチローという名前のオッサン。

 しっかり名乗ってくれた名前は、金属バットで殴られ僅かにぼんやりとしていた勝の頭には残っていなかった。

 代わりに、家訓だとか言う言葉は妙に頭にこびりついていた。


「テメェがそれを言うかよ……」


 長年の因縁で何度と聞くことになった言葉に、遊川は口角を僅かに吊り上げた。

 安堂家の家訓をまさか勝の口から聞くことになるとは、何の因果だろうか。


「やられっぱなしで終われるわけがないんだよ!   

借りたもの、きっちり返してやるぜ!!」


 勝が吠える。

 自身のぼろぼろになった情けない身体を奮い立たせる為、意地を張り続ける為。


「ハッ、だそうだ、中国人。お前の相手はアイツだ」


 遊川は親指で勝のことを差してそう言うと、構えていた腕を降ろした。

 臨戦態勢の解除、牽制にと威圧していた睨みを外す。


「まさか、雑魚の青臭さに感化されろと?」


 戦わない、と態度に示す遊川に対して、ニアンは遠慮なく踏み込んだ。

 見てから反応しようともその防御すら打ち抜く、捩じ込む掌打。

 元より狙いは遊川モンスターの首、邪魔が入ろうとも眼中に無い。


 強く胸部を叩きつけ心臓の鼓動を止める、さながらハートプレイクショット。

 一撃で仕留めれずとも、動きを一瞬でも止められたならニアンはすぐに連打を仕掛ける算段だ。


 素早く伸びる掌打。

 常人なら反応すら出来ず、その一撃で沈む。

 玄人なら遅れた反応を補う為、防御をするがそれすら打ち抜く。

 だが遊川は――。


「テメェだけ、五体満足ってのもフェアじゃねぇだろ?」


 完全に反応は遅れていたはずだった。

 ニアンには、遊川の動き出しが見えていなかったからだ。

 無防備なその男へ、無慈悲な一撃を。

 そうなるはずだった。

 しかし、ニアンの突き出した腕は、下から打ち上げられていた。

 振りの見えない、アッパーカット。


「餞別代わりだ、佐山! テメェの意地、しっかりと見せてみやがれ!!」


 強い衝撃に打ち上げられるニアンの腕。

 苦痛の声を漏らす間もなく、退け、の一言と共に放たれる遊川の前蹴り。

 ニアンの身体は押し飛ばされ、遊川は開いた道を進んでいく。


 その様子を英雄はただじっと見ていた。

 遊川の事を止めようという素振りすら見せない。

 そうして、進む遊川が英雄の横を通り過ぎようとした時――


「アンタので、野上アイツのこと、本当の意味で止めれんのかよ、若頭カシラ?」


 引き止めるでもなく、願うわけでもなく、その資格があるのかと問いを投げかける。

 答えが返って来なくても、英雄はそれで構わなかった。

 何もかもを壊そうとする自分が、暴走する男の処置に何を期待してるのかとも思う。

 そして、その暴走を止めようとする古巣千代田組の対応に何を求めてるのかとも思う。


「借りたものは返せ。俺は受けた恩義、赦された恩義を何一つ返せちゃいねぇんだ。野上がどうとか、組の面子とか、もうそういうのは二の次だ」


 遊川は英雄を一瞥すること無く、そう答えて三階奥へと歩いていった。

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