第36話 飛んで火に入るダブステップ 1

 斧宮華澄、十六歳、高校一年生。

 夜には格闘技バーグラップル羽姫で大勢の観客から喝采を浴びる少女も、平日の朝となると学校へと登校しなければならない。

 文哉との夜の逃走劇カッコ何かからカッコ閉じるは興奮覚めやまぬものであった。

 なかなか寝つけなかったこともあり、五回目のスマホのアラームに起こされた今朝は瞼が重かった。

 豆腐屋を営む両親が夜明け前から支度を開始してることを考えると、朝起きる才能は受け継がなかったらしいと欠伸を一つ。

 ベッドから起き上がるとカーテンを開き太陽の明るさに目を細める。

 いい天気だ、と身体を伸ばして欠伸をまた一つ。

 寝間着のジャージ姿のまま二階の自室からリビングへと降りる。

 築何十年となる一軒家の階段がキシキシと音をたてた。

 また筋肉増えたかも、と音の軋みをじっくりと味わう。

 体重が増えたなどとは決して考えない。


 朝、七時半。

 壁掛け時計の秒針が無人のリビングに音を響かせる。

 テーブルの上に置かれた袋から六枚切りの食パンを一枚取り出しパクついた。

 モゴモゴと口を動かしながら、台所にある冷蔵庫に向かい中から牛乳のパックを取り出した。

 器用に口に挟む食パンをモゴモゴと口の動きだけで食べていく。

 食器棚からコップを取り出し牛乳を注ぎ、牛乳のパックを再び冷蔵庫の中に戻した。

 三分の一ほど食べた食パンを一旦手に持ち口から離し、牛乳を口に含んだ。

 はしたないからちゃんと椅子に座って食べなさい。

 幼い頃から何度と言われた母親の叱責が聞こえた気がしたが、無視して華澄は食事を続けた。

 そうすることも幼い頃から続けている父親の真似だった。


 代々受け継がれてきた斧宮豆腐店がある羽音町商店街は、若者の街と呼ばれる三丁目にある。

 元々、真盛橋しんせいばし羽音町の買い物事情が商店街周辺に集中することから若者向けに発展していった流れだ。

 その三丁目と加茂川かもがわを挟むようにして隣にあるのが学校などが集まっている二丁目だ。

 番地の区分け範囲が広い真盛橋の事情により、二丁目という範囲だけで小中高の学校だけでなく大学まであって、保育園幼稚園などもあり、図書館などの公共施設もある。


 自室に戻り制服に着替える。

 祖母から貰った化粧台の鏡を見ながら、首もとに付ける赤いリボンの位置を気にする。

 薄い紺のブラウスの上に黄色いパーカーを羽織る。

 Against violenceと丸文字がバックプリントされていて、文字の下で可愛らしい小熊がハイキックしているのがお気に入り。


 家を出て、戸締まりを指差し確認。

 登校は、徒歩通学。

 華澄の移動は基本的に徒歩である。

 将来の豆腐の配達にと幼い頃から自転車に乗ることを教えられていたが、急なランニング気分に対応するために自転車があるのは煩わしかった。


 自宅から暫く歩くと加茂川を渡る龍神橋りゅうじんきょうに辿り着く。

 北東にある加茂山かものやまから流れる加茂川の細くなった部分に架かる短い橋。

 名前の格好よさに相応しくない走れば数秒で渡れる短かな橋は華澄にとって運命の橋でもあった。


 四年前、華澄が十二歳の小学六年生だった夕方。

 放課後、学校で遊んだ帰りに龍神橋を渡って帰ろうしたとき、その短な橋は大惨事の現場だった。

 当時増えだしたドラッグ中毒の若者が通り魔事件を起こしていたのだ。

 三丁目、若者の街は余所者に格好の市場にされていて、そこからドラッグを購入した中毒者が二丁目からの学校帰りの学生を狙ってナイフ片手に暴れていた。

 何も知らずに対峙することになった華澄は、その通り魔の様相に恐怖して震え動けずにいた。

 虚ろな目、痩せこけた顔、垂れる涎、色が抜け落ちたような銀髪、白いトレーナーから見える肌には首や手を問わず刺青が彫られていた。

 片手で振り回すナイフの先に、周りで横たわる誰かの血がついていて、振る度に飛び散る。

 男女問わず横たわる学生たちは、首やお腹それぞれに切られた場所を押さえ痛みを訴えていた。

 怯える華澄を通り魔の虚ろな目が捉えると、通り魔は口角を歪ませて笑った。

 ひぃ、と声を漏らす華澄。

 ころす、と声を出さずに口を動かす通り魔。

 短な龍神橋の端と端。

 威嚇するようにナイフを振り上げ駆け出そうとする通り魔。

 華澄は、助けて、と叫びたかったが震える喉が上手く言葉を発しなかった。

 恐怖に目をそらすこともままならない。

 通り魔の笑みが目に焼きついた。


 シャァッ、と鋭く息を吐く音が聞こえて。

 スパァァンッ、と何かがぶつかって破裂したような音が聞こえて。

 通り魔が真横に吹っ飛んで、龍神橋の手すりにぶつかって、落ちそうになってぶら下がった。

 華澄は恐怖に目を動かせずにいた。

 だから、通り魔が吹っ飛ばされたそのあとに立っている文哉の姿をしっかりと見ることが出来た。

 上段回し蹴り。

 強く凛としてとても綺麗なその立ち姿に、華澄は恐怖などというものを忘れてしまっていた。

 そんなものを吹っ飛ばす感情を華澄は抱いていた。


 斧宮華澄、十二歳、小学六年生。

 平田文哉の上段回し蹴りに強い憧れを抱き、格闘技を覚えることを心に決めた運命の日、運命の橋。

 あんな風に悪党を蹴れるようになったなら好きだと告白しようと決めた、運命の日。

 幼い頃からのご近所付き合いからあった淡い心が明確な形を得た、運命の橋。

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