第十部 歴史物語の始まり

10-1 期限

     ◆


 僕は紙に筆を走らせながら、老人の言葉を聞いていた。

 老人は朽辺翁を名乗る人物で、過去のことを口伝で現代に残している人物の一人だった。かれこれ半日ほど、僕は彼が語ることを書き留め、齟齬があれば確認し、訂正されることもあれば、伝承の中での混乱として残すことにもした。

 雪が降ってきおった。

 いきなりそう言われたので、紙に書き付け、違う、これはただの私語だと線を引いて消した。そうしてから顔を上げると、朽辺翁は物憂げに外を見ている。正確には庭に面している引き戸の方を見ており、その戸のせいで直接に見ることはできないが、なるほど、雪が落ちる音がする。

 ささやか音を火鉢が立てて、空気の孕む冷気は緩和されていた。

「積もると帰りに難儀するぞ」

 老人の気遣いに、思わず顔がほころんでしまうが、もっと別のことで難儀している。

「もう少し、お話を聞かせてください」

 歴史書を作るのも大変なことだ、と老人が労わるように口にして、それから昔の話が再開された。

 歴史書の編纂はこの五年間、休むことなく続けられた。新資料の発見などは重視されず、既存二冊の歴史書、国史書と新国史書を参考に、そこに収録されている様々な逸話の補強を続けてきた。

 史書処はその中心になる人物は変わらないながら、無数に協力者を抱え、彼らはそれぞれの都合に合わせて各地へ派遣された時などに、機を見て資料を補強する材料を探してくれた。

 全ての資料は最終的には史書処に集まり、それが壱岐卯野を中心とする班が常に整理し、まとめていっている。

 僕ともう一人は、最初の一年を三条宮家で発見された資料の整理と解読、統合に費やした。これは非常に面白い作業だが、困難を極めた。どうしても読めない字があり、古い言葉に詳しいものを探すことさえもあった。実際には、それは字体が崩されてるだけだったけど。

 とにかく、この五年はあっという間に過ぎた。

 朽辺翁の老婦人が「夕食を食べていかれますか」と声をかけてきたところで、やっとそんな時間だと意識が現実に戻った。

 よくよく礼を言って、ご馳走になることにした。老婦人は、貴族の方のお口に合うかはわかりませんが、と言っているが、僕はあまり貴族らしくない生活を続けてきていた。

 夕食の席で、朽辺翁が歴史書の進行状況をそれとなく確認してきた。

「この雪が降る時期に私から話を聞いているようでは、とても間に合うまいな」

 意外に辛辣な老人である。

「出来る限りの事はしますよ。仕事ですから」

「天皇陛下は、五年でまとめよ、と仰せになられたのだろう。それを間に合わなかったと言い訳できるわけがあるまい」

 痛いところをつきますねぇ、と笑みを見せて応じるけど、実際、これは重大な問題だった。

 歴史書は資料こそ整理されているがまだ細部が曖昧だ。新国史書よりは確度の高い情報が揃っているが、あと数ヶ月でまとめて、書籍にして、献上、というのはできそうもない暗い見通ししかないのが現実である。

 しかし役目を投げ出すわけにもいかず、今はただ、まだ全員が必死になればなんとかなる、という論点をずらした願望にすがるしかない。

 日が暮れてから老人の家を辞し、山の中にある庵から手元の明かりを頼りに都へ降りていく。雪は既にやみ、うっすらと積もっているだけだ。

 庵の周囲はぐるりと都の外れの寺院が密集する地帯で、朽辺翁は寺院の一つが面倒を見ていると聞いている。建物は寺院が貸しているということだ。

 歩きながら、どうにか巻き返せないかな、と考えを巡らせたが、難しい。

 どうにか陛下か、朝議に参加するものに渡りをつけて、期限を延ばしてもらうべきではないか。今、できないとわかっているのだからsまさに今、できませんと伝えた方が誠意がある。期限になって、できていません、よりはいいだろう。

 五年は本当に一瞬だった。時間を無駄にしたつもりはない。でも間に合わない。手を惜しんだつもりはないから、いい仕事はできた。でも結局、間に合わないのでは、無意味なのか。

 闇に沈む都の外れにある家に帰ると、玄関に明亀が立っているのが見えた。何かあったのだろうか。

「お客様がお待ちです」

 この五年で立派な女性に成長した明亀の澄んだ声に「どなたかな」と確認すると、キッと鋭い視線がこちらに向いた。

「貴木さまでございます」

 貴木甘人がこんな時間にここに来るとは、急ぎの用件か、重要な要件ということだ。

 屋敷に上がり、応接のための部屋に入ると、貴木甘人は縁側に座って外を見ていた。すぐそばに火鉢が置かれて炭が赤い色を発しているが、寒いだろう。

 僕の足音に気づいて、彼が振り返る。

 真面目な表情が明かりの中に浮かび上がって見えた。

「歴史書の編纂は間に合わないな?」

 単刀直入に、しかも間に合うか? ではなく、間に合わないことを確認され、返事に刹那だけ迷った。

「間に合わないな」

 答えた時、ちょっとだけ後ろめたく、ちょっとだけ肩が軽くなった。

 そうだと思った、と勝手に貴木甘人が頷く。そしてこちらに向き直り、真剣な調子で話し始めた。

「期限まであと三ヶ月はある。部分的に清書して欲しい」

「え? 部分的にって、それでどうなるのです」

「宮家や、皇室の方々にお配りする」

 全く話の向かう先が見えないが、貴木甘人は真剣な様子だ。

 それから彼は方策について話し始めた。僕はそれをじっと聞いて、最後には、苦渋の決断だが悪くない、と納得していた。すぐに誰に清書を任せるか、という話になり、何人かの名前が挙げられた。

 それなら絵をつけたほうがいいだろう、ともなり、今度は絵師の名前を二人で挙げていった。

 結局、貴木甘人は明亀が用意した茶を話している間は完全に無視し、去り際に冷たくなっていただろうそれを一気に飲み干した。勢いよく立ち上がり、「とにかく、仕事を続けろよ」と言い置いて、夜の街へ彼は去っていった。そう、牛車も輿もないのだ。こっそりやってきたのだろう。

 空の器を下げながら、お忙しいお方、と明亀が小さな声で言った。

 歴史書編纂はこうして、やや脇道に逸れることが秘密裏に決まった。

 これがどういう意味を持つか、僕はまだ知らなかったけど。



(続く)

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