9-5 最後まで残るもの
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練立天皇から声をかけられた後、宇治宮期襟は大役を任された。
新たに編纂されているところである「新国史書」の清書をする役目である。
これは、天皇陛下に献上され、国の末まで残るであろう書籍を書く、ということである。
すでに書写処とその周辺で書の達人として認識されていた宇治宮期襟は、ここに当代一の書家となったのである。
この頃、民の間で書を習うことが流行していた。
流行のきっかけとなったのは、歴史書のために集められた資料を書写処が書き直した際の膨大な書類であるという。これらは様々なものに再利用されたが、民間にも流出したたため、それまでごく限られた文字しか知らず書に親しむことのなかった民が、役人たちが使うような書類に触れる機会が多くなった。
と言っても、民が字を学ぶとしても、自分の名を書くことが多かった。元々から自分の名を書ける民は多かったが、その字体などを工夫することが安易な趣味として広まったのである。
そのため、この頃には様々な字体が出現し、中には全く読めないものや、字と字を重ね合わせた字とも呼べないものが無数に残されている。
新国史書は練立天皇の治世二十六年の年末には、あとは清書するのみとなった。
この間、宇治宮期襟は膨大と言っていい書を作成し、古から国を描き出して行っていた。
この時の彼の書は、今でも多く残されており、超一級の芸術品として宮家や公卿はもちろん、皇室にさえ保存されている。
しかもそれらは宇治宮期襟が、新国史書の清書の間に書いたものであり、何を思って書かれたかは想像するよりないが、それにしても心を打つ書を彼は残した。書というものの価値を、この時代に一人きりで確立したのが宇治宮期襟という人物の功績である。
練立天皇の治世二十七年の夏、宇治宮期襟はある朝、寝具の中で息を引き取った。病ではなく、前日までは長い間、続けていたのと同じ一日を庵で過ごした後、まるで朝日が闇を消すように、彼の命は消えていった。
苦しんだ表情をするでもなく、どこか満足げと言っていい表情であったと伝わっている。
新国史書の清書は、最後の部分を別のものが行い、練立天皇の治世二十八年の初春、全八十八巻で天皇陛下に献上された。
これに相前後して、宇治宮家に対して練立天皇から特別な計らいがあり、宇治宮家を事実上、継承していた期襟の従兄弟が上四位に取り立てられた。この人物はその後、上三位まで位を上げ、殿上人として職務に励んだ。
宇治宮期襟には、その死後に「幽書司」という称号が贈られ、宇治宮期襟が多用した書体が幽書と呼ばれるようになる。
朝廷では、宇治宮期襟の友人、土師宮浮塔が下一位へ昇進し、国の政、特に財政に関して辣腕を振るった。練立天皇の治世においては別格の信任を受けたことも伝わっている。それは宇治宮期襟を登用したから、という説も残っており、これはおおよそ正しいと思われる。
練立天皇はその治世三十年で崩御され、皇太子が錫音天皇として即位された。
宇治宮期襟の妻である梅子は、期襟の死後も彼が過ごした庵に留まり、世間との交流はほとんどなくなった。
この女性には様々な逸話が残されている。期襟の作品の一部は彼女の作であるとか、期襟の死後、彼の作品の一部を焼き捨てたとか、実に多岐にわたるが、この件に関してははっきりとしたことを伝える資料は発見されていない。
錫音天皇は三十歳で即位し、宇治宮期襟の影響があったのか、それともなかったのか、書に打ち込まれた。御所には書を教える役目のものが招かれたが、この人物は宇治宮期襟が所属した頃の書写処にいた役人だったということだ。
これは真偽定かではない逸話として残されているものだが、錫音天皇はその書を教える立場の役人に、こう問いかけたという。
「宇治宮期襟というものは、誰に書を教わったのであろう」
この問いかけに、役人は答える言葉を持たず、ひたすら恐縮したようだ。
錫音天皇の治世三年に、土師宮浮塔は病に倒れ、数日の後に息を引き取った。享年五十九と伝わっている。彼の死去の後、朝廷は膨大な銭が蓄えられているのを知った。土師宮浮塔は税を巧妙に運用し、増やしていたのである。
土師宮浮塔が役人の不正に厳しかったことは、この後、ある種の反動のようなものを生んだ。錫音天皇の治世では役人の多くが腐敗し、賂が横行し、役人が起こした犯罪が無関係の民の犯罪とされ、そのまま冤罪で裁かれるという事態も頻発した。
その間、錫音天皇が何をしていたかといえば、書に対する興味を失い、楽器に興味を示し、それも失うと今度は舞踊に熱中していた。四十になろうというこの天皇は、日々を遊興で送っていたのである。また、久しくなかったことではあるが、この天皇の後宮は女人で溢れた。最終的には宮家などでは後宮に上げても慰み者になるだけだと見て、なんとか天皇の希望、願望を逸らすように腐心するようにもなった。
宇治宮家は錫音天皇の治世の終わり頃、血筋が途絶え、消えて無くなった。
それは土師宮家も同じである。下一位の人物を輩出しても、世の流れ、時の流れの中では無力である。
この世に最後まで残されるのは、一人の人物の書きあげた書、それだけであった。
(了)
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