9-4 思わぬ役目
◆
練立天皇の治世二十三年の春、前の年の秋に建て直した庵で書に打ち込んでいた宇治宮期襟は外が騒がしいのに不意に気づいた。筆を持っていると、周りの音など聞こえなくなるのが彼の常だった。
何かあったかと立ち上がろうとすると、狭い部屋に梅子が顔を覗かせ、「土師宮さまとそのお連れの方が」と告げた。三年前に土師宮浮塔の父が亡くなり、今では土師宮家の当主は浮塔である。
しかし連れとは。彼が宇治宮期襟を訪ねるときは大概が一人である。それが今は数人を伴っているようだ。
表へ出ようとすると、玄関の戸が開き、見るからに役人の風態のものが紙の束を抱えており、頭をさげるとそれが玄関に置き去りにされる。
何事かと外へ出ると、荷車があり、荷箱がいくつも重ねられている。役人が四人で荷箱を下ろし、開封し、中の紙の束を庵へ運んでいく。
指揮をとっているのは、当然、土師宮浮塔であった。
「これはどういうことかな」
困惑を隠せない宇治宮期襟に、土師宮浮塔は手招きして少し竹林の中へ入ると、扇で口元を隠しながら囁いたものである。
「ここに来ているのは、この国の各地から集められた、歴史に関する報告をまとめたものだ」
「歴史? そんなことを調べてどうする。朝廷の考えか? それとも陛下か?」
「陛下の肝いりだ。しかしまだ大きくは動いていない」
大きく動いていない? 視線で確認すると、土師宮浮塔は無言で頷いて見せた。宇治宮期襟としてはもう一度、自分の庵の方を見るしかない。荷箱は今も荷車から降ろされ、開封され、書類が運び込まれている。いつの間にか梅子が出てきて、指図を始めていた。
大きく動いていないにしては、紙の枚数はあまりにも多い。しかも何故、それがここにあるのか。自分にはどのような役目があるのか。
もう一度、宇治宮期襟は親友の方を見た。
「僕に何をしろと?」
「書写だよ」
書写。
その一言で、宇治宮期宮は勢いよく振り返ると、庵へと歩き出した。玄関から短い廊下へと積まれて行っている紙の束の一枚を手に取る。見てみれば、なるほど、文字が並んでいるが極端に読みづらい。書いているものの学のなさが表れていた。
「そこに書かれているものを、今、書写処が総出で読める形にして、まとめている」
背後に追いついてきた土師宮浮塔の声を聞きながら、宇治宮期襟は紙を次々と取り替えていく。
親友の苦労もわからなくはない。これでは歴史書とやらをまとめるのも困難だろう。
「読めない、理解できないところはどうする?」
珍しく強い口調の宇治宮期襟に、肩を意味もなく扇で叩きつつ、平然と土師宮浮塔は答えた。
「齟齬がないようにまとめればいい。資料は無数にあるからな、最後には辻褄を合わせるんだ。それと、やる気が出るように一つ、伝えておこう」
もう一度、さっと扇を広げて口元を隠し、ボソボソと発せられた土師宮浮塔の言葉に、愕然とした様子で宇治宮期襟が目を見開いた。言葉もすぐには出ることがなく、二人はしばらく、運び込まれている資料に取り囲まれたまま黙っていた。
任せたぞ、と肩を叩き、土師宮浮塔は荷車の荷物を全て置き去りにして、去っていった。
しばらく何かを考えていた様子だった宇治宮期襟であったが、その日から彼は人が変わったように仕事に打ち込み始めた。元々からして庵に引きこもり、悠々自適、何の気兼ねもなく生きていた人物が、これを契機に役目に精励し、都にこそ姿を現さないものの書写処には彼が書き直した書類が三日に一度、大量に届くようになった。
書写処の役人は自分たちの仕事に忙殺されていたが、一人、二人と、全く意図せずに宇治宮期襟の書き写した資料を見ることになり、目を見張った。
書いてあることは簡単であっても、その字である。
あまりにも見事な字で、綺麗に整い、乱れがなく、読み進めても一箇所の脱字も誤字もないのである。
役人たちはそれまで、宇治宮期襟という中年の下級役人は宮家の血筋であることで仕事を放棄し、自分勝手に生きている落伍者だ、無能だ、と見ていたが、それは誤りであるかもしれないと気づき始めた。
それでも宇治宮期襟は役所には姿を見せず、ただ資料だけが頻繁に届けられていく。
二年の間、雨の日も、風の日も、雪の日でもも、宇治宮期襟からの書類は途絶えることがない。雨の日には書類が濡れないように厳重に包まれて運ばれてくるのである。途絶えないということは、宇治宮期襟は休みを取らず、また病にも無縁で仕事を続けているのだろうか、と思うといっそ不気味でさえあった。
そうこうしているうちに、国の各地での調査が終了し、直すべき資料が揃い、直す作業も終わり、こうして練立天皇の治世二十五年に、歴史書の本格的な編纂が始まった。
この時になって、練立天皇が一人の人物を御所へ招いた。
本来的には御所に上がることを許されない彼は、特別な形として御所の庭へ通され、彼は庭に敷かれた布の上に座った。そこへ練立天皇は建物の中から声をかけられたのだった。
「そなたが、宇治宮期襟か?」
重く響く天皇の声に、一段と深く、宇治宮期襟が首を垂れた。
冠をつけているためおおよそは隠れているが、その髪の毛は真っ白に変わっていた。
この年、宇治宮期襟、五十歳である。
(続く)
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