9-3 計画

     ◆


 翼賀天皇がその治世二十四年目に崩御され、練立天皇が即位された。まだ十七歳とお若いが、強い意志を持ち、何においても積極的だという噂が民の間では即座に広まった。

 この年、宇治宮期襟は二十四歳であり、都においては書写処という部署に籍を置いていた。

 この部署は、様々な公文書を書写していくのが役目であり、必要とあれば都にいる宮家、公卿、貴族、下級役人まで、全員に配るために書を書き写さなくてはならない。

 宇治宮期襟はこっそりと志願して、宮家の威厳を利用してこの部署に二十歳の時に配属されたが、想像や期待はことごとく裏切られた。

 この部署には書の達人が揃い、字に詳しいものが揃っているというのは勘違いであった。

 書き写すものは見よう見まねで文字を書き写すし、読めずとも書ければいい、という姿勢のものも多かった。

 仮に書写処司という部署のを統括する立場に宇治宮期襟が就いていれば、即座に人選を改め、その部署の性質自体を変えてしまっただろう。

 しかしこの時期、書はまだ伝達のための手段に過ぎず、それなりに読めればよく、それなりに書ければよかった。さすがに天皇陛下に奏上するような書類は、それはそれは美しい字で書かれたが、下級役人の元で届けられる書写された書状など、児戯と大差ない質であった。

 こうして自分の失敗を悟った宇治宮期襟は、役目を半ば放り出し、二十代半ばにして隠棲する、という暴挙に出たのだった。両親には咎められ、上役の役人にも責められたが、気にする彼ではなかった。

 練立天皇の治世一年における、書写処での宇治宮期襟の評価は「宇治の若造」という、敬意も払われなければ、親しみもない、敵意に近いものであった。

 そうこうしているうちに時間は流れて、練立天皇の治世も十年になった。

 この間、宇治宮期襟の親友たる土師宮浮塔はいくつかの役職を歴任し、三十六歳にして下二位という立場になっていた。立派な殿上人であり、新進の英才という評価が確立されていた。

 特に銭の勘定に関しては独特の感性を持ち、計算が速いというのはもちろんのこと、帳簿の書き方などにも工夫を凝らし、この十年の間に様々なものが土師宮浮塔の手法に改められた。

 さらにいくつかの部署における、その財政的な危険性を指摘し、これを改善することもあった。これは先にその役目に就いていたものの仕事を否定するのに等しかったが、時に果敢に、時に柔軟に、土師宮浮塔は対応した。

 いつの頃からか彼は、「勘定司」と呼ばれるようになっていた。今に国の財を全て帳簿にまとめるだろう、と冗談にされることもあるほどであった。

 この土師宮浮塔がある時、御所に呼び出された。天皇陛下のお召しであり、しずしずと土師宮浮塔は御所へ上がった。

 練立天皇は土師宮浮塔と対面されると、静かな口調で言った。

「歴史書を作り直す余地はあるか」

 簡単な問いかけだったが、土師宮浮塔は少し考えるように間を置いてから、おもむろに答えたものである。

「今ある、「国史書」でも十分にこの国の歴史を網羅していると存じますが、改めてとなると、様々なことを調べるものを各地に派遣しなければなりません。そのものらの報酬はもちろん、寝食その他にかかる銭も国が支出するとなれば、これは膨大な銭になります」

「龍河さまはそれをなされた。私には何故できぬ?」

 ここだけを切り取れば愚かさを剥き出しにした問いかけである。

 ただし、その天皇を前にしている土師宮浮塔には、独善的な問いかけではない何かを感じ取った。歴史書云々ではなく、もしや天皇陛下は皇室の庫、もしくは国の庫について知りたいのではないか。

「歴史書をお作りになるには、周到な計画が必要でございます、陛下」

「どれほどかな、必要なのは」

「五年ほどは」

 今度は練立天皇がすぐに答えなかった。あるいは自分にあとどれほどの時が残されているか、それを計ったかもしれぬ。ただ、発せられた言葉には何の不安もなく、力強い響きがあった。

「では、土師宮浮塔、そなたの力で、七年で支度をせよ。七年のち、万全の状態で歴史書を改められるようにせよ。良いな」

 土師宮浮塔は深く頭を下げた。

 御所から下がりながら、土師宮浮塔が考えたことは、国史書が編纂されるのに十五年以上の時がかかったことであった。仮に新しい歴史書を事業の開始から十五年で作るとして、それに至る七年も含めれば、二十年以上の年月が必要となる。

 自分が生きているかどうか、判然としない遠い先のことであった。

 銭だけは用意できるだろう、と土師宮浮塔は考えた。しかし歴史学者、伝承を伝えているものは、あるいは二十年の間にこの世のを去るかもしれぬ。

 しかし何故、練立天皇は不意に歴史書などと言い出したのか。それは皆目、見当がつかなかった。誰かにこの話をしたいところだが、御殿に上がっているものに漏らすわけにもいかない。

 こういう時に都合がいいのが無二の親友である、宇治宮期襟であった。

 彼はこの時もまだ、ただの書写処の一員にすぎず、位階は年齢を無視して下七位であった。

 心配しても仕方がないが、とは土師宮浮塔はこの友人のことを思い浮かべるたびに考えることだった。

 無意味なため息を吐いてから、愚痴をこぼす相手のこの夜に訪ねること決めたのだった。



(続く)

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