9-2 自由人
◆
お客様ですよ、という控えめな声に、しかしすぐに宇治宮期襟は答えなかった。
すっと紙から筆先が上がり、ゆっくりを落ち、流れ、また上がる。
しばらくしてから、彼は筆を置いて振り返った。
いつに間にか、そこには友人の土師宮浮塔がおり、不機嫌そうに視線を向けてくる。
「そんな格好をして、出仕しないつもりだな」
友人の視線の先、宇治宮期襟は自分の顎を撫で、髭が伸びているのを確認した。
「どうせ僕なんて、下六位、大昔ながら殿上人だけど、今は違う」
翼賀天皇が位階に関する規則を改めたのは、二人がこの世に生を受けた後で、つまり運が悪かったと表現することもできなくはない。
新しい規則では、二十四の位階はそのままに、御殿に上ることができるものは下三位より上の位のものと改められた。ただ、この変革において位階を下げられるものはおらず、その点では上位にいたものと、下位にいたもので明暗が分かれた。
実際、宇治宮家の当主である期襟の父は下三位であり、土師宮家の当主である浮塔の父は上四位だった。二人は規則が変わることで、片方は御殿に上ることができ、片方はできない、という微妙な立場になった。
もっとも子同士が仲が良いように、二人の宮家の当主も昵懇であったので、笑い話で済ませたという場面もあった。もちろん、それ以降に反目することもない。
「今は下六位でも、いずれは父上の後を継いでお前が殿上人となり、この国の統治に力を発揮することもあるだろう」
友人の強い口調にも、宇治宮期襟は平然と顎を撫でたまま答えた。
「血筋で殿上人になるような仕組みは間違いだと、今の陛下もお考えだろう。僕はきみのように計算が得意ではないし、ただ字を書くのが好きなだけだ」
「好きなだけ、だと?」
卓に歩み寄った土師宮浮塔はそこにある紙を取り上げた。
「このような字を書けるものが、この世にそうそういてたまるか」
自分の字を見せつけられても、宇治宮期襟としては反応に困るところである。
なるほど、紙に書き付けられている字は、実に美しく、流麗で、非の打ち所がない。
長い年月、筆を手に紙と向き合った結果だったが、宇治宮期襟としてはまだ何かが足りないのだった。
「まあまあ、そのように言葉を荒げては」
戸の向こうから若い女人が現れるのに、素早く紙を卓に戻した土師宮浮塔が頭をさげる。
「これは失礼いたしました、梅子どの」
この女人は宇治宮期襟の妻であり、元はやはり宮家の出である。この時代でも宮家はその高貴な血筋から、婚姻の相手が事実上、限定されていた。中には宮家を飛び出していくものもいたが、宇治宮期襟にはそこまでの勢いもないし、実は梅子の方からさりげなく迫られたこともあり、なんとなく流れでこの二人は結ばれたのであった。
「このようなところへ参られて、浮塔さまはご自分のお役目はよろしいのですか」
梅子の指摘は、今が全くの昼過ぎであり、役所はこの時も動いているはずだからである。
当たり前の指摘に、さも当然のように堂々と土師宮浮塔は答えたものだ。
「私は人がこなす仕事を、半日もあれば終わらせられますので。今日はもうやるべきことはありません」
「同僚の方々のお手伝いをされてはいかがです?」
「役目は役目を果たしていく中で覚えるもの。私が手を貸しては、そのものの能力が花開くことはありません」
「どんな花も、水をあげて日を当てなければ育ちませんよ」
「おや、梅子どのは、私を光とでもお思いのようだ」
二人の気心の知れたやり取りに、思わず口元を綻ばせる宇治宮期襟だが、それに気づいた二人にそれぞれ鋭い視線を向けられ、慌てて立ち上がった。
「おい、どこへ行く」
土師宮浮塔の声に「書庫だよ」と答えてから、ほとんど体を廊下に出しながら、宇治宮期襟は友人を振り返った。
「明日には、出仕するとしよう。身を綺麗にしなくてはならないな」
「普段からそうしていただけると、とても助かるのですけど」
妻である梅子の指摘に苦笑いしてから、宇治宮期襟は今度こそ廊下を歩き出した。と言っても小さな屋敷であるから、すぐに玄関である。普段から使っている安価な草履を履いて外へ出た。
家屋の周囲は濃密な竹林である。その向こうに古い建物があるのが見え隠れする。そもそもからして宇治宮期襟が出てきた建物も、どことなく頼りないほど古びて見える。
ここは華公京の東にある山の一角で、御殿からは輿では半日がかかる。
宇治宮期襟が身も心も楽にするために設けた庵であり、現世とは離れているような異質な空間でもあった。彼は大抵をここで妻とともに過ごす。食品に限らず、大量の紙や墨もそれを商うものが運んでくるのだった。
竹林の中のより小さく、より古びた方の建物の滑りの悪い戸を無理矢理に開け、中を覗き込めば、そこには棚が設えられ書が積まれている。舞い上がる埃に顔をしかめながら、宇治宮期襟は目的の書を探した。
ここにあるのは今に残っている、様々な書の達人の書籍であった。間違いなく写本ではあるが数百年前の景国の書という触れ込みのものさえあった。
当年、二十六歳の宇治宮期襟は、本来の役人としての役目を半ば放り出しながら、書に没頭していたのであった。それは友人から見れば無謀であり、妻から見れば微笑ましく、民からは奇人として映っていたが、民に関しては、宇治宮家など多くある宮家の一つで、期襟という人物も特段、大きな意味を持たないので大半の民は宇治宮期襟を知りもしないのだった。
背後で足音がしたので、そちらを振り返ると、外へ出てきた土師宮浮塔が見え、手を大きく振っている。帰るのであろう。宇治宮期襟も手を振り返し、明日、役目を務めることを考えて憂鬱になった。
書に打ち込むだけの生活を送りたいものだ。
そう思ったものの、目当ての書が見つかったので、すぐに彼の頭からは役人としての務めはあっさりと消えてしまったのだった。
頭にあることは書のことだけに戻った。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます