10-2 呼び出し

     ◆


 梅の花の蕾が出る前、思わぬことが起こった。

 その日もここ数年の史書処の根城と化している三条宮家の邸の一室にこもり、ひたすら資料をまとめ、筆を走らせていたのだが、使いの者が来て「千景宮さまからお召しの使者です」というではないか。

 僕は最初、何かの冗談かと思い、部屋にいる同僚を見回したが、全員が似たような顔をしていた。

 千景宮といえば、ここ二十年、ほとんど朝廷の実権を握っていると言っていいほど、先頭に立って国を導いている家柄だった。もちろん、宮家なので血筋にも申し分ないし、誰も千景宮を否定したりしないあたり、徳も備わっている。

 そういう全てと比べると、僕とは真逆の人物である。僕は家柄も血筋もなく、位階も低く、徳があるかすら微妙なところだ。

「千景宮さまに何か、目をつけられるようなことでもしたのですか?」

 そばにいた壱岐卯野が声をかけてくる。僕は首をひねる前に横に勢いよく振った。

「少しも、何もしていない。どういう用件か、全く見当がつかないよ」

「しかし、まさか無視もできんでしょう、標さん」

 まったくその通りだった。

 国の頂点に限りなく近い人物の呼び出しを、無視するものなどこの国にはいない。ましてや僕は底辺と言っていい、下級役人である。今もまだ位階は上七位だった。こんな位階の役人に、上一位の大人物が注意を払う理由は本来なら存在しない。

 それが呼び出されるなら、相応の理由がある。

 一度、自分の屋敷へ戻り、一張羅の着物に着替えてから僕は屋敷を出た。迎えの輿がないのは乗り慣れていないので一安心だが、徒歩で向かう間は生き地獄といったところだ。自分がしでかした失敗、もしくは千景宮さまの不興を買った何か、そういうのを草の根を掻き分ける思いで記憶を探したが、一つもなかった。

 いや、僕も聖人君子というわけではないから、もしかしたら、そうと知らないうちに千景宮さまか、関係する誰かしらに、泥を塗るような言動したのかもしれない。

 こんなことなら、屋敷を出るときに見送った明亀に声をかけておくんだった。あれが今生の別になるのだろうか。

 千景宮家の屋敷は都の北側にあり、御所のすぐそばだ。簡単には大きさが測れない立派な建物が、ぐるりと塀で囲まれている。門のところには見張りが四人ほどいて、やや過剰だが、そういう立場でもある。

 身元を確認され、どうやら話が通じていたらしく、屋敷へ上がるように言われて、さすがに驚いた。

「上がってよろしいのですか」

 門衛のようなものに丁寧な言葉を使うのもおかしいが、もう僕としては何の下手も打ちたくなかった。門衛は苦笑いしながら、頷いた。

 半ば自暴自棄になって僕は屋敷へ上がったが、出てきた女性が豪奢な着物を着ているのに、鼻白むというか、一瞬、意識がなくなった気がした。

「枢原標さまですね? どうぞ、奥へ」

 声をかけられて、やっと身体に意識が戻ったが、目の前の女性は幻ではなく実際にそこにいて、赤や白のきらびやかな着物も実際にそこにあった。

 自分が何か、おかしな世界に紛れ込んだ気がしたが、勧められるままに、ふらふらと僕は奥へ入っていた。

 狭い部屋で待つように言われ、女性がいなくなってから、いよいよ落ち着かなくなった。

 少なくとも、いきなり処断されることはないらしい。処断するなら、庭かどこかでやるだろう。さすがに屋敷の中、部屋の中で切り殺すようなことはしない、はずだ。

 どれくらい待ったか、足音が聞こえ、戸が開けられる。

 本来の礼儀作法なら頭を下げるのだろうが、僕は完全に動転していたし、そのせいで感覚が麻痺していたのでぼんやりと入ってきた人物を見ていた。

 肩幅が広く、顔は四角い。しかし無駄な肉はなく精悍そのもの。眼光は鋭く、眉は太い。

 その男性が意外そうな顔でこちらを見てから、部屋に入ってきて向かいに座った。

 そう、向かいに座ったのだ。

 やっと僕は頭を下げる必要性、必然性に気づいて、慌てて頭を低くした。

「お前が、枢原標だな。前に顔を見たことがある。覚えておるか」

 名乗ることもなく、男性がいきなり話し始めたので、僕は今度は頭を上げることができなくなり、思考は、目の前の人物が千景宮家の当主の岳厚という人物なのか、とか、そんなことに終始していて、耳は耳で思考とは切り離されているようだった。

 そして口もまた、分離していた。

「いえ、申し訳ありませんが」

 不敬な言葉に、相手は動じなかった。

「そうか? 五年ほど前、陛下の御前に出ただろう。お前は庭にいた。歴史書編纂について議論する前に、私はお前に声をかけた。覚えておらんか」

 そういえば、そんなこともあった。

「失礼いたしました。確かに、お声をいただきました」

「そうか。それはそれとして、歴史書の編纂が思ったように進んでいないという噂だが、事実か」

 まさか千景宮さまが歴史書にそこまで関心を持っているとは。

 どうとも答えられずにいると、視界の外で、まだ名乗っていない男性が鼻を鳴らした。

「事実と見える。しかし別の作業をする程度には、肝が太いようだ。面の皮も厚い。それはあの、貴木の若造の入れ知恵か?」

 貴木の若造。貴木甘人。入れ知恵。別の作業。

 それらの単語の組み合わせで、やっと自分がなぜ呼ばれたか、気づけた。

 例の件を千景宮さまがお知りになったのだ。

 やっぱり、処断されるだろうか。

 床が軋む音がして、男性が立ち上がったのがわかった。

 身がすくむような思いだったが、しかし何事もなく「三日後にまた参られよ」と声を残して足音、戸が開く音、閉まる音、遠い足音という順で、そのまま気配が消えてしまった。

 恐る恐る顔を上げたが、もちろん、男性がそこにいた痕跡はない。

 三日後……?

 冷や汗が急に吹き出し、袖で拭いながら、三日後にするべき言い訳を考える必要があると真っ先に思った。

 それも早急に、共謀者の貴木甘人と相談して、だ。

 立ち上がってあまりの重圧のせいか、足元がふらつき、倒れるところだった。

 もしかしたら、三日後を待たずに、この世を去ることになるのでは、と思ったほどだった。

 だったが、三日後も僕は生きていて、千景宮家の屋敷を訪問するのだった。



(続く)

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