6-5 悲しみの歌
◆
仲建天皇の後宮に、女御として内名杯英の妹、寧子を迎える。
宇多川宮足穂はその話を大屋根の廊下で、歌を詠むことで関係のある友人の口から聞いて、絶句した。
冬は深まり、年が改まるのに合わせての神事の連続を前にして、都は喧騒に包まれ、それは大屋根でも同じだった。おそらく皇宮も同じであったが、それを知るものは少なかった。
しかし、寧子が後宮に入る?
宇多川宮は突然のことに、まず自分がからかわれていると思ったが、友人は真剣な顔をしている。口調も表情も、既に決定した事実を伝えているようだった。
宇多川宮足穂は宮家の中でも重い役目を持つ家柄のために、この日も仕事が多くあり、まだ役目が残っていた。友人との立ち話も時間もなく、すぐに仕事に戻った。
戻ったが、その日一日、宇多川宮足穂の頭を占めていたのは、寧子のことであり、杯英のことであった。
どうして内名家などという、見向きもされないような家の娘が、唐突に後宮に入るような立場になったのか。杯英にそんな政治力はないし、今までの様子では杯英こそ、寧子を宇多川宮足穂と結ばせる最大の協力者だったはずだ。
誰が天皇陛下と寧子を結びつけたかも謎であった。寧子が後宮に入って得をするような人物がいるようにも思えなかった。内名家は魅力的な家柄ではないどころか、関わりたがるもののほうが珍しい。
頭の中で、ほとんど内名家を徹底的に、根こそぎに否定し尽くしている自分自身を理解できないまま、一日の役目を終えると、宇多川宮足穂は徒歩で内名家の屋敷を目指した。本来なら輿や牛車などを使うところだが、下手に目立つと余計な波風が立つかもしれない。忍んで訪問するべきである。その程度の発想は残っていた。
日が暮れかかる中、寒さに震えながら内名家の玄関から勝手に上がり込むと、出くわした下男が尻餅をついた。宇多川宮はその風貌を、今までに一度も見せたことのない、鬼のような形相に変えていた。
何度も家主である杯英と話した部屋へ入ると、当の内名杯英が座り込み、ぼんやりと宇多川宮足穂を見上げた。
その目元は腫れ上がり、瞳は充血していた。
発散しているのは、後宮に妹が入ったことで舞い上がっているのとは正反対の、絶望そのものの気配だった。
さすがに宇多川宮足穂は暴発寸前の怒声を飲み込み、乱暴ではあったが開けた時よりもはるかに優しい手つきで戸を閉めた。
その時には、内名杯英は床に両手をつき、額を擦り付けんばかりに頭を下げている。
「申し訳ございませぬ、宇多川宮さま、申し訳ございませぬ」
発せられた声は、まるで今の今まで泣き叫び続けたかのように、激しくひび割れ、聞き取るのに努力する必要があった。
その場で宇多川宮足穂は事の次第を知ることになった。
今の事態が出来したそもそものきっかけは、宇多川宮家に嫁ぐにあたり、宮家にふさわしい知識を学ぼうと寧子が礼儀作法を教えるという下級役人の家に通ったことによる。
誰が何を図ったのかは判然としないが、その寧子を直接、仲建天皇その人が見初めたというのである。
耳を疑う事実だが、内名杯英の枯れきった声は、真剣そのものだった。
これは後年、皇宮での様子を記録したものがおり、その資料が発見されたことで判明したが、仲建天皇は時間があれば身分を隠して、市井を見物していた。それは民の様子を知りたいという側面を持ちながらも、別の側面として、女人を探していた、ということもあるようだ。
父である峰旗天皇の厳しさ、祖父である鷲旗天皇の奔放さ、この二つが仲建天皇の心中で激しく衝突したと思われる。
とにかく、寧子は天皇その人にその存在を発見され、天皇はしかるべき手順を踏んで、寧子を自らの元へ引き寄せたのである。
そこに恋があったのか、愛があったのかは一概には言えないが、宇多川宮足穂と寧子の間にあった恋情や愛情と比べることはできないであろう。
しかし天皇と女御の間に、時間の中で育まれる恋も、深い理解から生まれる愛も、必要ではなかった。権力者という立場によって、民の一人の女を手に入れる。単純な事実であり、それが認められ、咎められないのが天皇という立場である。
夜が更けても、内名杯英は宇田川宮足穂へ頭を下げ続けた。
こうなってはもう、寧子を取り戻す手段はなかった。天皇とはこの国の頂点にいるもので、神にも等しい。最も高いところに引っ張り上げられてしまった女性を、その兄も、恋人も、見上げているしかない。
宇多川宮が考えたことは、もし寧子とのこの先、顔を会わせることがあっても、その時の自分はただの朝臣の一人であり、彼女は天皇陛下の寵愛を受ける女御であり、容易に言葉を交わすこともできないということだった。
今までのように気が向いたときに粗末な屋敷を訪ねるように、後宮に出入りなど出来ぬ。今までのように気軽に声をかけることもできない。立場が違いすぎた。それもほんの短い間に、隔絶されてしまった。
宇多川宮足穂はこの夜、愛しい人がいなくなったことを理解し、杯英を許すことにした。
むしろ杯英は大きな後ろ盾を得て、栄達する可能性があったが、この夜の様子を見る限りそれはありそうもなかった。悲嘆にくれる男がいるのみである。
「私は、歌人として生きていくつもりでおります」
乾ききった声に、宇多川宮足穂は、ただ頷くしかなかった。
誰が幸せになったのか、誰が不幸になったのか、全くわからないのがこの一事の本質である。
この後、内名杯英は後世まで伝わるいくつかの歌を残し、その中には妹について歌ったものもある。
一方の宇多川宮足穂は朝臣として記録には残るが、歌に関しては資料が乏しい。
しかし、恋しい女性を伴って落ちのびたい、という悲恋の歌、この一首は様々な書物に記されることになる、いわば名歌となった。
(了)
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