6-4 月の下

      ◆


 仲建天皇の治世三年の秋、ついに宇田川宮足穂は寧子に思いを伝えることになった。

 この夜もよく月が出ていた。

 月の光の中で質素な屋敷の縁に並ぶ三人の間に流れた空気は、幸せというものを形にできるなら、こういうものだと言っても決して間違いではない、そんな空気であった。

 もっとも、寧子はすぐに返事をしなかった。兄と相談しなくては、と思ったし、同時に宇田川宮家のことも考えないではいられなかった。

 自分のような下級役人の妹で、兄以外に身寄りもないものが、宮家、それも最古の宮家の一つに入るのだから、何かと難題は降りかかってきそうだった。

 期待と不安を半分ずつ面に浮かべて、宇田川宮足穂が帰って行ってから、どうしたものかしら、と思わず寧子は言葉にしていたが、お前の好きなようすればいい、と兄に穏やかな声で言われては、何も言葉を続けられないのだった。

 好きなようにすればいい。

 兄は寧子のことを思っているのだろうが、この時ほどその自由を認める言葉が、無責任な言葉に聞こえたこともなかった。

 時間だけが流れていく。都の周りの山々は赤や黄色に色づき、やがて葉を散らした。

 雪が降るような寒さの夜、内名の屋敷を宇田川宮足穂が訪ねた時、不運にも寧子は留守であった。この時刻に留守にするとは珍しい、と宇田川宮足穂は眉をひそめたが、内名杯英は落ち着いたもので、礼儀作法を教わりに行って帰りが少し遅いのです、と応じた。

「しかし、もう日が暮れている」

 この宇田川宮足穂の言葉が見当違いだったのは、日が暮れているどころか、陽は落ちて、周囲は真っ暗だったからである。大通りに出れば大屋根や皇宮の周りを照らす篝火が毎日、燃やされているその明かりを、遠くに見ることもできたが、内名家の屋敷は都の外れにあるために、完全と言っていい闇に包まれていた。

 まあ、お入りください、と杯英があまりに普段通りなので、宇田川宮足穂は屋敷に上がり、この日はさすがに縁などに出ず、火鉢を挟んで杯英と向かい合った。

 ここに至って、宇田川宮はさすがに歌を詠むことも、考えることすらできず、やや身を乗り出して内名杯英に問いかけた。

「寧子殿は、私の元へ来てくださるのだろうか」

 満面の笑みで、内名杯英は頷いて見せたものである。

「妹は、宇田川宮さまのことは、憎からず思っております。兄だからよくわかります。あの子が宇田川宮さまの話をする時の嬉しそうな顔や、話の中で宇田川宮さまの名前が出た時の目の光り方、私が宇田川宮さまの歌を唱えて見せる時の呼吸の仕方。それら全てが、妹が宇田川宮さまをお慕いしていることを示しています」

 そうか、と答えて、宇田川宮は息を吐いた。安堵がどうにかやってきた、と思うと、ぐっと疲れる気もした。

 早く夫婦になりたい。この一点が時間の流れとともに宇田川宮足穂の中で大きくなっているのだった。

 いつかの夜、酔っていたのかいなかったのかもわからないうちに詠んだ、例の歌が思い出された。

 女を連れて逃げたい。

 今もまた、宇田川宮足穂はそう思わずにはいられなかった。

 宮家に入るのが嫌なら、自分が出奔してもいい。そのまま寧子とどこへ逃げることになっても、決して後悔しない。どこまでだって行って良い、どんな苦労をしても良い。高貴な血筋も、名家の後ろ盾も、何もかもを捨て去っても良い。

 そのことを目の前にいる友人に口にして良いものか、逡巡した。

 内名杯英が微笑んでいるのを、灯りの乏しい光の中で見ている内に、今はまだ信じようという気になった。

 その時、玄関の方で物音がして、それで寧子が帰宅したと知れた。かなり遅い帰宅ではある。

 すっといつの間にか身についた上品な動作で戸を開けた寧子が、一瞬、宇田川宮足穂の顔を見て、表情を強張らせた。

 瞬きもできないようなほんの一瞬の表情の変化であったが、宇田川宮足穂の目にははっきりと見えた。

 不吉である。

 その寧子が慈愛に満ちた笑みを見せ、「宇田川宮さまがおいでだったのですね」と言うのに、宇多川宮足穂は「ええ、お邪魔してます」と応じたものの、内心ではまたも不安が沸き起こり、今にも平静を失うのでは、と自覚した。

 その夜、宇多川宮足穂は一つの歌も詠まず、帰って行った。

 宇多川宮足穂を見送った内名杯英は屋敷の中に戻り、そこで初めて妹がどこかぼんやりしているのを目の当たりにして、何かがあったことをやっと悟った。

 火鉢の前で焦点の合わない視線を床に向ける寧子の前に、そっと杯英は腰を下ろしたが、あまりに静かな動作だったからか、寧子は視線をわずかも動かさず、やはりどこを見ているのか分からないのだった。

 妹の思わぬ様子に、杯英はしばらく黙り、意を決して声をかけた。

「何かあったのかい、寧子」

 唐突に瞳に光が戻り、寧子はのろのろと兄の目を見た。その目を瞑って、首が左右にゆっくりと振られたが、それ以上の言葉がなかった。

 どうやら何か、不測の事態が起こったらしいと杯英は認識せずにはいられなかったが、しかし、何が起こったかは知る由もない。

 妹を問い詰めるようなところをしないのが、この兄と妹の仲睦まじさの表出ではあったが、それは問題を先送りするのに等しかった。

 この一件は、仲建天皇の治世三年が終わる前に、公の場に姿を現すことになった。



(続く)

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