6-3 二人の歌人と一人の女人

      ◆


 宇田川宮足穂はその血筋にふさわしく、美男子であったと伝わっている。

 しかし二十歳を前にして妻を娶ることもなく、女人にまつわる噂は滑稽な方向へ偏る傾向だった。

 例えば、どこそこの娘に歌を送ったが、声が上ずっていたせいで気色の悪い男と勘違いされ、それきり女人には興味を失った。

 例えば、他の宮家との縁談もあったが、どこでも宇田川宮足穂を欲しがった結果、娘同士が取っ組み合いの喧嘩をするに至り、今は縁組の話を避けている。

 これらは根も葉もない噂であって、実際には宇田川宮足穂は女嫌いでもなければ、縁組に消極的でもなかった。

 ただ単に、事態がひそやかに進行していただけである。

 場所は誰でもない、内名杯英の屋敷であった。

 家主であった杯英の父は数年前に病で他界しており、母はそれよりも前に亡くなっている。

 下級役人に適当な屋敷は、下男が一人いる以外は、兄と妹の二人だけの生活の場であった。

 つまり、話題にもなる美男子であるところの宇田川宮足穂は、友人の妹にひそやかに思いを抱いていたのである。

 貧しさが隠しきれない屋敷の縁で、家主である内名杯英は小さな器を手にしており、少し離れて宇田川宮足穂が腰を下ろしている。時間は夜で、月明かりが二人を眩しいほどに照らし出していた。

 二人の男性の間に、質素な着物を着た娘がおり、これは扇で顔を半分、隠している。

 しかし、目元を見るだけでも涼しげで、美女であることに疑いを抱くものはない。

 急に内名杯英が空を仰ぎ、じっと月を見たかと思うと低い声で歌を詠んだ。やはり月が題材のもので、その美しさと人の美しさ、どちらが長い間、人を魅了するだろうか、という趣旨のものであった。

 内容からして習作で、内名杯英自身も、さほど満足したようでもなく、わずかに目を細めている。空に浮かぶ月の、その内側から何かを探り出そうとするかのような目つきであった。

「月も困ってしまいますよ」

 扇の陰から、鈴が鳴るような声が向けられるのに、内名杯英は妹である寧子の方へ視線を送った。自然、黙って盃を手にしていた宇田川宮足穂もそちらを見る。

 寧子はさりげなく目線は宇田川宮足穂から外し、兄に笑みを見せた。

「そのように、情念のこもった目では、月も困りましょう」

 情念、という言葉が可笑しい内名杯英の横で、宇田川宮足穂は視線を庭の方へ逃がした。自分が寧子へ向けていた意識、心の目のようなものを咎められた気がしたからだ。

 実際には考えすぎかもしれないが、こういうことを本気で思案してしまうのが、宇田川宮足穂という人物でもある。

 内名家としては、宇田川宮家と関係ができることを好まぬ理由はないはずが、今や内名家とは杯英と寧子の二人のものである。今更、宮家と姻戚関係になったとしても、どのような利益があるかは、曖昧だった。

 杯英に貪欲と言っていい出世欲がありでもすればまた事情は変わったはずだが、杯英にとっては歌を詠むことさえできれば、他は何もいらないのである。

 家名が立派になることで歌の評価が変わるということが起こるとしても、杯英には偏向した意地があるというのも、大きな意味を持った。

 歌は家柄や血筋で評価が変わるものではなく、良い歌は良い歌であり、悪い歌は悪い歌である。

 例え天皇陛下自身が詠まれたとしても、駄作であれば駄作と評価するべきである。

 そんなことを内名杯英は真剣に思っているのだ。裏を返せば、自分は自分の歌で評価されれば良いし、歌以外では評価されたくない、となる。

 これで周囲との衝突や軋轢が生まれないのは、内名杯英が生来、持ち合わせている穏やかな風貌と、まろやかと言っても良い口調の力が大きかった。険しい顔をして強い口調でものを言う人間より、よほど親しみが持てたということだ。

 この夜、内名杯英は三首ほどの歌を詠んだが、どれもしっくりとこず、寧子はそれを淡々と評価していた。この兄妹は非常に親しく、妹は兄に向けて好きなように言葉を選べたし、兄は兄で激昂どころか、不愉快さを微塵も出さずに笑うのである。

 その二人の様子に、宇田川宮足穂は眩しいものを感じ、自分が属する宇田川宮家との違いに、不安を感じるのだった。

 思いの一片もを伝えてもいないで考えることではないが、寧子が宇田川宮家に嫁いできたら、さて、今のように自然体でいられるだろうか、と宇田川足穂は考えずにはいられなかった。

 この少女が、宮家という場所において、三男に嫁いでくる下級役人の妹という立場で、不幸にならないだろうか。

 自分こそが少女を幸せにできる。

 そう思えることができれば、いっそ楽だっただろうが、宇田川宮足穂にそこまでの気力はなかった。

 世の中、血筋や位階が全てになりつつある。どこかの農村なら、また違っただろうが、ここは都であり、皇族や貴族、公卿が権威を競う場であった。

 何も言えないままに酒だけを飲み、しかし酔うこともなく、宇田川宮足穂は辞去する前に、一首だけ、即興の歌を詠んだ。

 あるいはこの時、宇田川宮足穂は自分でも知らぬうちに、誰にも見えぬ形で酔っていたのかもしれない。

 歌は、女を連れて逃げ出したい、という女々しいもので、これにはさすがに内名杯英も言葉をしばし失ってしまった。寧子も目を丸くし、その二人の様子に、宇田川宮足穂は自身の失敗を悟った。

 兄妹は揃って短く笑い、場の空気は一段と明るくなったが、宇田川宮足穂は恐縮するばかりであった。



(続く)

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