5-4 交錯

      ◆


 夜になるのを見計らって、団村郎手は数年ぶりの我が家へ入った。

 戸は軋みながらも開き、入ってすぐの居間に小さな背中が見えた。

 父だ、と思った次には、郎手は不吉な気配に足を止め、言葉も止めた。

 決して胸を張って帰れるわけではない、とは覚悟していた。しかしこうして目の当たりにした見慣れていたはずの居間は、まるで別の空間だった。

 緩慢な動作で郎手に背中を向けていた老人が振り返ったように見えたが、実際には老人は機敏に振り向いたのであった。ただ郎手が一瞬のうちに平静さを失い、事実の認識が遅れたのである。

 振り向いた父の顔は、記憶の中の顔よりはるかに老いており、想像の中の顔よりもやはり老いていた。

 親子は何も言わず、片方は座ったまま、片方は立ち尽くしたままで、向き合っていた。

「どうしてここにいる」

 老人の口からひび割れた声が漏れ、それには疑いようもなく咎める色があった。郎手はどう答えることもせず、視線を泳がせ、図らずもそれを目にしてしまった。

 形ばかりの祭壇に、木の板が建てられている。崩れた字で何かが書いてあったが、見間違えようもなく、位牌であった。

「何をしに来た」

 父親の詰問に、郎手は何も言えず、足が自然と震えた。次には力を失いクタクタと座り込んでしまった。

 身も世もなく泣き始めた郎手に、しばらく鋭い視線を向けていた老人は、諦めたのか、そっと立ち上がり、以前とは比べ物にならないほど太い彼の腕を掴み、力の限り引っ張り上げた。よろめきながら郎手は生まれ育った家に転がり込み、そしてまた泣いた。

 涙が枯れ、声も枯れた後の郎手に、父親は淡々と、母は病で苦しむ間もなく、静かに息を引き取ったことを伝えた。

 苦しまなかったことで救われる要素は、郎手の中には存在しなかった。

 そばにいてやりたかった。一度でもいい、帰ってきて、手を握りたかった。今はあの使い込まれた手は、もはや存在しないのだ。

 郎手は父親に、自分が任務を無断で脱走したことを伝えなくてはならなかった。父親はもはや怒る気力もなくしたようで「どこへなりとも消えるがいい」と突き放した。

 本来ならこれで、全ては完結するはずだった。

 思わぬ展開が郎手を襲ったのは、母の位牌に祈りを捧げ、父の前から永遠に姿を消そうと決めたところだった。

 外で馬蹄の響きがした。

 立ち上がった時、小さな家の戸は乱暴に開かれ、そこに仁王立ちしているのは、誰でもない、織畑葉羽その人だった。

 怒りに赤黒い顔をすると、彼は容赦なく剣を抜き、まだ態勢も整っていない郎手に切りかかった。問答などする気はなく、ただ処刑するという意志しかない剣だけに、微塵の停滞もなかった。

 郎手が生き延びたのは、老いた父が刃に身を晒したからであり、剣はその能力を発揮してやせ細った老人を両断してしまった。

 絶叫は悲しみか、怒りか、それは誰にもわからなかった。

 床に置いていた剣を抜き放った郎手と、殺意に満ちた織畑葉羽が、剣を交わしたのはどれほどの時であった。

 唸るような声を上げて、時間の流れが遅くなったかのように織畑葉羽の体が緩慢に崩れた。その死体も傷だらけなら、生き延びた団村郎手も全身に手傷を負っていた。勝利は薄氷の上のものであり、ほとんど偶然だった。

 そして郎手はこの場で勝利を味わうことも、事情を推測することも、許されなかった。

 どうやら織畑葉羽は一人でここへ来たか、大きく先行したらしい。馬蹄の響きは耳をすませても聞こえなかった。

 郎手は村が騒然としているのを視界から外し、織畑葉羽がここへ来るのに使った馬に飛び乗ると、故郷を後にしたのだった。都へ戻るなど、とてもできない。脱走なら重い懲罰の末に何らかの生き方があったかもしれないが、今の郎手は脱走だけではなく、追手の将校を切り捨ててしまっているのである。

 いずこへ向かうべきか、馬を駆けさせながら考えた。

 東か、南か。

 直感のままに南を選んだ。まったくの直感なので、理由もなければ、何かのあてがあるわけでもないのだった。

 馬を潰さないようにと考えたのは、無意識に調練で身につけたことが発揮されたからで、それがとりあえずの郎手の命を救った。馬は禁軍の馬甲がつけられていたが、それは故郷に捨ててきている。立派な馬はそれだけでも目立つが、どうしようもない。

 剣も捨ててきてしまった。柄頭が赤く輝く剣を持っての逃亡など不可能だし、郎手はもう剣を取る気にはなれなかった。

 人を切ったのは、初めての経験であった。

 そして二度と経験したくない感触を、いつまでも郎手の両手に残していた。

 数日の後、郎手は小さな集落で宿を求めた時、初めて事情のようなものを知った。

 日付こそはっきりしないが、天柊京の皇宮で火災があったのだという。それも火の気のないところから出火したとわかり、これは放火ではないか、とほぼ断定された。

 問題は、その日に禁軍の兵の一人が姿をくらませたという事実であり、その禁軍の兵士が何らかの理由で皇宮に火をつけて逃亡したのではないか、と朝廷では見ているという噂が広まっていた。

 郎手は愕然とした。

 どういう巡り合わせか、自分は火などつけていないのに、放火の罪、それも皇宮に火をつけた罪を、被っているのである。

 こうなると織畑葉羽が血相を変えて郎手を追跡したのも頷ける。自分の部下が脱走しただけでなく、重すぎる罪を犯しているのだから、上官としての織畑葉羽も容易ではない立場に立たされたのだと思われた。

 団村郎手はこの後、さらに南へ逃れ、それきり消息を絶った。

 冬も深まった時、南のはずれにある雨奈という集落で、首を吊った男が見つかり、しかし集落のものも知らない顔だったのが、不自然に思われた。雨奈のものはよそ者の遺体の処理に不愉快なものを感じたが、その懐から一通の書状が出て、にわかに騒然となった。

 それは半年も前に起こった、皇宮の火事に関する内容が書かれた書状であった。



(続く)

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