5-3 声

      ◆


 団村郎手が禁軍兵士として都の皇宮に入ると、すぐに編成が行われ、直接の上官は織畑葉羽という人物だった。頬に深い切り傷の跡があり凄みを感じさせるが、口調はまろやかである。

 団村郎手の受け持ちは皇宮の廊下に立つ任務で、半日で交代である。残りの半日は調練となる。

 廊下に立つ時は赤い具足をつける決まりになっていた。これは禁軍にだけ許された装備で、赤い具足はそのまま禁軍兵士の証だった。

 普段の禁軍兵士としての証明は剣の柄頭の飾りだった。金属に赤い漆を塗ったもので、なめらかな曲線が光を反射する様が美しい。皇宮で剣を帯びていられるのは禁軍兵士だけであるから、任務の場においてはこのような証明は不要ではあったが、街では別である。禁軍のものが自分の身分に誇りを持つ理由にはなったのが、この飾りだった。

 調練はそれまでの中央軍のそれとはまるで違った。禁軍師範という立場が新設され、これは武術全般を教える教官だが、恐ろしく腕が立った。剣を持っても、槍を持っても、体術でも、誰もこの師範の男を倒すことはできなかった。

 年齢は四十をいくらか超えているはずだが、顔の半分がヒゲに覆われているので、はっきりとはしない。声は低く、しかし稽古の中で言葉を発することはあっても、雑談などは少しもしようとしない。勇敢にも話しかける兵士もいたが、鋭い眼光を向けられ、射すくめられて言葉を続けるのは困難だった。

 なので、禁軍の兵士は一人もこの禁軍師範の男がどこからやってきているのか、どういう経歴の人物か、知ることはなかった。

 織畑葉羽という人物は、師範ほどではないが、優れた剣術の使い手だった。こちらの年齢は団村郎手の十ほど年長だが、技の切れは団村郎手の及ぶところではない。

 その織畑葉羽は、部下と殊の外、親しく接した。宿舎ではともに食事をし、銭こそ賭けないが札や賽子を使った遊びに興じることもあった。これは多くの兵士からは奇異にも見えた。地方軍でも中央軍でも、このような指揮官は滅多にいない。

 そのようなことが極端に奇異に見えるほど、禁軍の日々は単調であると、少しずつ兵士たちは理解し始めた。

 やることは皇宮の警備か、調練か、そのどちらかで実戦も気配など微塵もなかった。

 季節は巡り、やがて市宮天皇の治世十五年がやってきた。年始においては様々な神事があり、天皇のそばに常に付き従う禁軍兵は、いつになく慌ただしく過ごした。まさか襲撃をかけてくるものがいるわけもないが、禁軍の使命とは、まさに天皇のそばを離れない、この一点である。

 仮に不貞のものが襲いかかってくれば、切り捨てる。

 天皇その人の身代わりに刃を身に受けることもあるかもしれない。

 禁軍に属する兵士で、それを考えないものはいなかった。

 その空想は幸いにも現実にはならず、平凡な冬が再開された。

 冬が明ける前に、国にとって大きな出来事と、団村郎手にとって大きな出来事があった。

 国にとっての大事は、市宮天皇が病を得た、ということである。巷で容易ならぬ病だと誰もが認識したのは、都の医者という医者が皇宮に呼び出され、帰されてからである。なんでも異国の医術を使うものを探しているらしい、いや祈祷でご快癒を図るらしいぞ、と荒唐無稽な噂も真剣な調子で人の口から出る事態となった。

 禁軍の兵の日常はそれでも変わらなかった。彼らは医者ではなく、薬に通じているわけでもなければ、完教の僧侶でも国教の神官でもなかった。できることは身辺をお守りすること、これだけであった。

 これといって重大な情報が流れてくるわけでもなく、春がやってきて、夏の兆しが見え始めた。

 天皇の病は良くなることもなければ、悪くなることもなく、臥せっている日もあれば、皇宮の庭に出られることもある。予断を許さないのか、それとも安心していいのか、誰にも断定はできない日々だった。

 さて、問題は団村郎手の問題である。

 冬のある日、文が届けられた。

 それは団村郎手の母が重い病に罹り、先は長くないかもしれない、という不吉なものであった。

 この日から団村郎手は苦悩を内に抱えて任務を続けることになった。

 母の顔を見たいという思いから目を背けることは至難だった。十六で故郷を出てから、すでに四年が過ぎようとしている。あと一年で予備役となれるとしても、しかし禁軍の兵士になるという栄達を、そう簡単に捨てることはできなかった。

 しかし、あの言葉である。

 母が別れの前日の夜、しきりに繰り返した言葉。

 酷いねぇ。

 酷いねぇ。

 全く忘れていたはずのその声が、何度も頭の中で響いた。昼となく夜となく、どこからともなくその声は聞こえた。

 冬は去り、春も去ろうという頃、続報の文を待ち続けた団村郎手だが、ついに文は来ることがなく、郎手の方から文を出したが、やはり返事がないまま、夏が来ようかという時期になった。

 ここで彼が決断したのは、耐えきれなくなっただけのことであり、半ばは衝動と言えた。

 ある夜、警備の任務を終えた団村郎手はひっそりと宿舎を抜け出し、そのまま皇宮の敷地を脱出した。警備が厳重ではあったが、そこは禁軍の兵士として郎手自身が何度も警備についていたので、隙をつくのは容易だった。それに外部から内部へ入るものは想定しても、内部から外部へ出るものは想定していなかった。

 月が輝く中、都の通りを素早く駆け抜け、団村郎手は足を止めることなく、駆け続けた。

 とにかく、故郷へ向かうこと、それだけを考えたが、不安は後から後から強くなった。

 脱走などをして、許されるわけがない。

 正式に手続きを踏めばよかったのではないか。

 しかし許可されなければ、母と会うことは、おそらくできまい。

 なら今、脱走したのは正解ではないか。

 答えが出ないまま、団村郎手は駆け続け、やがて夜は明けた。

 背後に都は見えず、前方に故郷は見えなかった。

 それでも彼は走り続けた。



(続く)

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