5-5 失われる伝承

     ◆


 この市宮天皇の治世十六年は早く過ぎていった。

 市宮天皇の容体は一進一退で、快癒を祈る神事が繰り返され、完教の寺院からは連日、いつ終わるともなく読経が続いた。夜になってさえこの読経の声が重なり合うので、都の民は眠るときでさえどこか不吉なものが自分たちを取り巻いているような心地であった。

 この年の秋、ついに市宮天皇は崩御された。

 そして次に鷲旗天皇が即位されたのが、ちょうど年が改まる頃であった。

 実はこの市宮天皇の治世十六年の一年は、とかく都で不審なことが頻発した。

 郎手が脱走したまさにその夜の火災もそうであったが、それから数ヶ月のうちに四度、皇宮で火事が起こり、そのうちの一度などは市宮天皇が臥せっておられた部屋のすぐそばからの出火だったため、大騒ぎとなった。

 皇宮に限らず、朝廷で重要な座を占めるものの屋敷の一つが全焼したのも、この年である。

 また秋に嵐が繰り返し都を襲い、大風で倒壊する建物が多くあった。

 冬には大雪が降り、まるで都が雪で閉ざされたようだった。民は心細い思いで、炭の明かりと温かさを頼りに過ごした。

 これらの間にも寺院からは読経が続くのだが、それが何らかの幸福を連れてくるのか、今の不運をどうにか押しのけようとせめぎ合っているのか、分からなくなるほどの変事の連続であった。

 この天変地異や異常事態を、朝廷では「悪鬼」による「呪詛」などと表現し、この呪詛は民の一人一人が敬虔な気持ちで神に祈り、天皇を敬うことで払拭できると公に布告する事態にもなった。

 当の天皇が病に侵されているという事実が、この荒唐無稽な幻想を補強したという見方もできるだろう。

 市宮天皇が快癒するとき、初めて呪詛は克服される、という世間での認識が、この市宮天皇治世十五年の象徴的な要素であると言える。

 年が改まり、鷲旗天皇の即位の儀が行われる時になっても、都の民は不安を隠せなかった。

 市宮天皇が御隠れになってしまって、では悪鬼や呪詛はどうなるのか。新たなる天皇陛下が、そのご威光によって呪詛を払い、悪鬼を滅ぼすのだろうか。

 そんな民の噂など知らぬように、鷲旗天皇の即位の儀はつつが無く終わり、都にもやがて春が来た。

 火事は起こらず、天候は穏やかになり、不思議と異常な事態も奇異な出来事も起こらなくなった。

 そんな鷲旗天皇の治世一年において、その秋、一つの布告があった。

 団村郎手というものの霊を慰めるべし。

 朝廷で決められたことなのであろうが、都の民に限らず、誰もがこれには首を傾げた。

 団村という血筋を知っているものもいなければ、団村郎手という人物が何者かも、何もわからなかった。

 ただ布告には、このものの呪詛こそ鎮めるべき重要なもの、とされており、つまり何かしらの不幸な出来事が団村郎手なる人物に降りかかった結果、市宮天皇の治世の天変地異があったのだろう、と解釈することはできた。

 それでも誰も知らぬものの霊を慰めることはできず、どこかの完教の寺院で、このものに称号を授けたという話である。

 民は皆、その背景不明の祭るべき存在に、祈りを捧げ、何かを願ったりしたが、その称号が何であったのかは、長い歳月の中で忘れられていった。

 この国の南の集落に、立派な祠があり、その集落は雨奈という名前だと伝わっている。

 この社にある小さな石に、古い文字が刻み込まれており、それを読もうとすると、「悲氏団村流子」と読めるという伝承もある。この「悲氏団村流子」が、団村郎手の称号とする向きもあるが、あまりに南方なため、都の完教の寺院が名付けた称号がそのまま正確に伝わったかの証明は不可能である。

 しかし今でも雨奈の集落では、この社に年に一度、祈りを捧げているのは事実である。

 団村という地名は、かつて天柊京があった場所から南の方角へ向かった場所に、はっきりと残っているが、すでに住む人は少なく、廃村と言っても差し支えない。

 何かしらの事件が起こり、それ以降、村は衰退したようだと残っている古い家のものが語ったことがあると、鷲旗天皇の治世四年における文書に、ささやかに記録されている。それ以上のことは資料もなく何もわからないということだ。

 皇宮の火事に関しては、鷲旗天皇の次に即位した峰旗天皇の治世に、禁軍将校が残した文書が発見され、それによれば禁軍の兵士の一人が火をつけたとのことであるが、やはり実際に何が起こったかは、判然としない。

 もはや禁軍から脱走した兵のことも、禁軍にいながら不遜の罪を犯したものも、時間の流れの中に消えてしまったのである。

 同じように消えていったものは、この国の歴史の中に、数限りなくいる。



(了)

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