第五部 罪人
5-1 名もなき村で
◆
団という名の村は、天柊京より東へ徒歩で五日の距離になる。
国がその運営の簡便化を図るため、国土をいくつかの地方に分ける試みが進められ、団村は中州と呼ばれる地域に属する。中州は税が安いと言われているが、実際には都で行われる事業の大半はこの地方から人手を用意することが多かった。
まさに天柊京の造営の時、この中州地方の人々は、血を吐くような苦労を味わった。
農村という農村から若い男に限らず、健康な男が根こそぎにされ、彼らは来る日も来る日も、都のために荒地を整備し、道を作り、区画を整備した。そして天宮と呼ばれることになる天皇の住まいと、これは大屋根と呼ばれ続けている朝廷の中心となる建物、さらに皇室その他の位の高い人物の邸宅まで、この農村から駆り出された人々がその建造を行ったのである。
これはさらにいくつもの難題を引き連れていた。
まずこの男たちが生きるために食べる食料が膨大な事。さらには生活する場の維持が不可欠である事。
そして何より農村では、労働力が極端に不足した。
田畑の維持に女子供が必死になり、しかし収穫されたものは税としてほとんど全て取り上げられてしまう。中州の農村では、木の皮を食べて飢えをしのぐものさえあった。
市宮天皇の治世はこうして後年、悪政の謗りを受けることになった。遷都とは苦痛と同義として、民たちは飲み込んだのだった。
都ができれば、男たちは帰ってくる。税もおそらく軽くなる。
再びの平穏を求めるのは、どこの民に目を向けても、同じくしている願望であった。
さて、団村において、市宮天皇の治世十一年に、一人の若者が家族と別れの場を設けていた。
決して裕福な家ではなく、酒が振る舞われることもない。ただ、川で釣ったと思しき立派な魚がどんと置かれているのは、やはりどこか雰囲気を特別なものにしていた。
団村郎手というのが、送り出される青年であった。年齢は十六である。
団村郎手は税を納める代わりに、兵として中州の地方軍に組み込まれる。郎手だけではなく、同時に二十人ほどが兵となるのだ。この二十人をまとめての壮行の会は昼間に終わり、今、親子だけでも最後の時を過ごしていた。
年老いた両親を残していくことに、郎手は後ろめたいものがあったが、しかし他に道はなかった。
兄が二人いたが、一人は疫病で、一人は農作業の最中に負った怪我がきっかけとなり、やはり亡くなっていた。郎手が兵となるのも、他になり手がいないからだった。
母親は、すぐ帰ってくるのでしょう、すぐ帰ってくるのでしょう、と祈るような口調で繰り返した。父親は無言で、顔を俯けている。まるで通夜のような、暗い空気だった。
今、この国に争いはないが、東国ではさらに東、北へと版図を広げるべく、食料から武具からが用意されているのだ、という噂が、団村でもしきりに囁かれていた。
その北方征伐は東国のみによって行われるのではなく、中州地方からも人を出すのだということだ。
郎手は剣を手にしたこともなかった。もっぱら鍬や鋤、場合によっては鉞や鉈などを振るだけで、剣や槍をどのように扱うのか、全く知らない素人である。村には兵役を終えたものもいたが、小さな村で武術の稽古をするようなゆとりがある場所は珍しい。
いまだに民は日々の生産活動に追われているのが実際だった。
食事は鬱々とした様子で始まり、空気が変わる事なく終わり、親子三人で形ばかりの神棚に祈りを捧げ、明日の出発を待つばかりとなった。
「何か間違ったことをしてしまったのかねぇ」
明かりを消した部屋で、布団の中の母親が呟くのを郎手は聞いた。
「息子三人をこのようになさるとは、神様は、本当にいるのかねぇ」
父親は無言のままだった。郎手も言葉を口にはできなかった。
母親は、酷いねぇ、酷いねぇ、と繰り返した。
神というものは、郎手の中では天気のようなものだった。晴れて欲しい時に晴れてくれることもあれば、降って欲しくないという時に雨を降らせることもあった。
天候は農作物に著しく影響する。それに雨の中での作業は難しかった。真ん中の兄が亡くなるきっかけになる怪我も、雨の日だった。泥に足を取られたのである。
今、自分は雨に降られようとしているのか、と郎手は暗い部屋の中で思った。
答えが出る問題ではない。
兵となってしまえば、あとは生き延びなければ、この村へ、この家へ帰ってくることは二度とできないのだ。
鬱々とした思いを助長するように、母が呟き続ける。
酷いねぇ。酷いねぇ。
翌朝、揃って暗い面持ちをした二十名が広場に集まり、列になって村を離れた。
予定通り、五日後に天柊京へたどり着いたが、二人を除いては初めての都である。しかし都を見物するような余裕は与えられていない。すぐに軍営へ向かうと、氏名を登録し、即座に天柊京を出ると野営地への移動となる。
野営地は天柊京のすぐそばにある小高い山に設けられていた。
この時には新兵は団村の者だけではなく、いくつもの場所から駆り出された若い男たちが一塊になり、百人を超えていた。同じような規模の集団が合流し、見る見る人の数は増えた。
ぞろぞろと山の麓まで行き、そこで本当の兵士が待ち構えていた。全部で三十名ほどで、具足こそつけていないが、剣を帯びていた。新兵は彼らの前で一度、全員が整列させられたが、少しでも遅れるもの、列を乱すものは、言葉より先に殴り倒された。
驚きの中で、これは酷いところへ来てしまった、と自覚するものが大半だった。郎手もそのうちの一人である。幸い、彼は殴られなかったが、恐怖の念は如何ともしがたかった。
兵の指揮官らしい、一人だけ違う軍服の男が大声を張り上げ、明日には調練を始めることを告げた。
もう新兵たちは、うんともすんとも言わず、じっと身を硬くして、直立するよりなかった。
(続く)
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