4-2 均衡

     ◆


 直宮天皇の治世十七年の夏の盛りの頃、いつになく厳しい暑さに都が包まれた日の事だった。

 永守朝廷が討伐の計画を立てている東国の部族から、一つの首が届いた。

 この一つの首の衝撃はほとんど物理的に朝廷を揺さぶった。

 首は、織部多々良という人物の首であり、織部多々良は永守朝廷が東国征伐のために派遣した武将であった。

 事態は簡潔だった。

 東国の部族は、永守朝廷と正面からぶつかろうというのである。

 朝議は沸騰したが、その方向性は全く限られ、統一されていた。

 東国征伐、待ったなし。これである。

 直宮天皇の隣席の場で、新たなる討伐部隊の編成が議論され、指揮官も決まった。

 総大将は高角八津漆、副将は織部林、である。織部林は織部多々良の弟である。

 部隊の編成は即座に行われ、通達もまた迅速だった。数日のうちに討伐軍として三千名が永守の都に集結し、ほんの数日のうちには進発していった。都の完教の寺院という寺院、全てで戦勝を祈念する読経が幾重も響き渡った。

 朝廷でも、この頃は国教と呼ばれ始めていた古来の神を祀る神殿で、連日のように神事が行われ、直宮天皇と皇后などは、数日に渡って食事を絶つほどであった。

 都にいるものにできるのは、祈念、この一点だけだった。

 戦場は遠く、戦うのは兵士であり、天皇も皇后も、皇族も、その他の有力氏族も、戦勝の報告を待つしかない。それは裏を返せば、敗戦の報が届くことを意識から遠ざける行為であった。

 日々の流れは決して止まることなく、朝廷では平時の国家運営の議論が続いた。さらなる徴兵が承認されたのもこの頃であった。また、税の一部が追加で軍の運営のために割かれるのも、この頃の決定だった。

 夏が去り、秋が空気を支配した頃になっても、決定的な戦勝の報告は届かなかった。

 高角八津漆は最初こそ地の利のある東国部族に圧倒されたが、敗退することはなく、体勢を立て直したという報告があり、次には東国部族の執拗な抗戦に手間取っていると報告があった。

 数ヶ月の戦闘の継続は、徐々に永守朝の財政を圧迫し始めてた。食料は民から徴発され、それを遠い東の地へ運ぶのも民から徴用されたものたちが行っていた。

 朝議では、さらに兵を送るべし、という強硬姿勢の声もあれば、税と徴発で民は疲弊している、と指摘する声もあった。

 それでも東国部族を討伐する姿勢は、誰もに共通していた。

 こうなっては、民をどれだけ苦しめることを許容するか、その議論に過ぎないのだった。

「皇子はどのようにお思いか」

 秋真っ只中の朝議は紛糾し、朝に集まったはずが、散会になったのは昼を過ぎていた。

 市灼皇子に影館運音が声をかけたのは、大屋根と呼ばれる朝廷の中心となる建物の、中庭に面した廊下であった。

 この時、市灼皇子は意町日永と小声でやり取りをして歩いていたが、威厳に満ちた言葉に足を止め、すっと油断なく振り向いた。

 影館運音はまっすぐに立ち、この国の要であるという印象を見るものに与えずにはおかない、堂々とした様子だった。市灼皇子も上背では同じほどだが、線の細さが影館運音を前にするといやに強調されていた。

「民のことを思うなら」

 前置きもなく、市灼皇子は応じた。

「早急に戦を終わらせ、東国を平定するべきであろうな」

「今の兵力で、ですかな」

「高角八津漆は無能ではない」

 それに続く言葉は両者のどちらからもなく、廊下で間合いを取って睨み合うような形になった。意町日永は黙って市灼皇子のそばに控えていた。

 沈黙を破ろうと、影館運音が口を開こうとした時であった。

 激しい足音とともに市灼皇子の侍従が駆け寄ってきて、床に膝をつくと書状を差し出してきた。この時ばかりは、市灼皇子も顔から感情を失い、しかし手は高貴な血筋の優雅さそのものに、書状を受け取った。

 市灼皇子はその場で書状を読んだ。

 不意に市灼皇子の表情に朱が差した。

 そしてその手が、先ほどにはなかった乱暴さで、影館運音に書状を突き出した。恭しくそれを受け取り、影館運音は書状の中身に目を走らせ、丁寧に書状を返すと頭を下げた。

「おめでとうございます」

 これは咄嗟にだが、市灼皇子は鼻で笑うようにした。

「私が戦ったわけでもなければ、私が指揮したわけでもない」

「しかし、勝利は勝利でございます」

 改めて深く頭を下げる影館運音は「先ほどの話はお忘れください」と唸るように言うと、足音も高く、廊下を歩み去っていった。

 一言も発さなかった意町日永がすっと市灼皇子に近寄り、声をかけた。

「あのものを東国へ送るべきかと」

 これにはさすがに市灼皇子も目を丸くした。

「東国の統治を任せるのか? あのものに?」

「能力はあります。過不足なく、永守朝廷の礎のひとつとなりましょう」

 さすがにそれ以上は、市灼皇子も言葉を継げなかった。

 東国は今、ようやっと討伐が済み、これから処罰する者は処罰し、管理する者は管理し、しかるべきものが統治していくことになる。ただそれらが、一朝一夕で達成され、構築されることはない。

 処罰の一つ一つを朝廷において議論しなければならず、管理するものを選定し派遣するのも朝廷の役目だった。統治者もまた、決して簡単には決められないだろう。

 考えることです、と囁くように意町日永が言ったが、市灼皇子は頷くこともせずにこの大胆不敵な懐刀の、いつも通りの平然としたその顔を見た。大きな瞳にいつも通りの稚気があり、雰囲気に暗いところは少しもない。それがいっそ、違和感があり、異相にも見えた。

 誰が何を画策するにせよ、東国の討伐は終わり、また別の問題が始まったのだった。



(続く)

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