第四部 統治者

4-1 二人の男

     ◆


 直宮天皇の第一皇子は、市灼皇子という人物である。

 この頃、永守朝廷は権力争いが熾烈を極めていた。

 久宝皇子が榊大館と設計した十の位階は健在だが、頂点である青い冠をかぶるものには、さらに三つの階級のようなものが生まれていた。

 最高位に大臣、次に華臣、そして鷹臣、この三つである。

 朝議の場は実質的にこの三つの立場につくものの合議だが、この三つの地位を占めるものに偏りが生じていたのが実際だった。

 伝承として久宝皇子が見出したとされる影館氏の成長は凄まじく、実際的な技能に優れたものも多いが、さらに複雑な婚姻関係を結ぶことで、地位を盤石のものとしていた。

 筆頭は影館氏を実質的に率いる影館運音という男で、影館氏の当主は彼の父である軽歩ということになっているが、それは形ばかりである。

 直宮天皇は暗愚というわけではないが、しかしあまりにも高齢であった。遅く即位した上に、天皇という立場になってから十年以上が過ぎ、生気は衰えを見せ、朝議の場でも自分の意見を押し出すどころか、主張することもなかった。

 天皇のこの積極性のなさは、見たところでは影館氏に有利に働いていた。

 市灼皇子が日々の中で折に触れて考えるのは、影館氏、あるいは影館運音という人物の本当の目的であった。

 市灼皇子は直宮天皇の治世十五年の年、若干二十二歳である。一方の影館運音は二十五をいくらか超えている。つまり影館運音にはまだ十分な時間的猶予があり、市灼皇子は同じ猶予を持つものの、直宮天皇には猶予はない。

 皇位の簒奪。

 このことを市灼皇子は考えずにはいられなかった。

 この国は大きく羽ばたいている。景国から輸入された文明は、はっきりと根付き、新たな文化となり始めていた。民はその中で落ち着いて暮らしている。税を取られ、場合によっては人も取られるが、争いはなく、またここのところは飢饉も起きていなかった。疫病もない。天候が荒れて水で田畑が流されることもなかった。

 直宮天皇の治世とは、飢饉や疫病が発生しなかったというような、そうした偶然によって優れた統治が行われた時代と見られるだろう。民たちに限らず、役人でさえもそう言葉を交わしたほどだ。

 逆に言えば、彼らはみな、この日々が唐突に崩壊するのではないか、と怯えてもいるのだった。

 民が自然災害を恐れる一方で、市灼皇子は、皇位の継承について、不安を抱いていたことになる。その食い違いは、しかし考えてみれば、民の大半は自分たちが国を動かす一つの装置であり、しかし国の動向に影響力を持たないことを、図らずも心に抱いている所に端を発していた。

 国とは皇族や有力な氏族が動かし、それを役人が整え、民はただ税を納め、人手を出せばいい。形は既に決まっていた。その形を積極的に肯定するか、あるいは諦めの中で首肯するか、その違いしか民の中には選択肢はなかった。

 兎にも角にも、市灼皇子にすれば、影館運音の事だった。

「皇位を守る必要があるのではないか」

 そう市灼皇子が発言したのは皇子の館の奥まった部屋で、人払がされ、同席しているのは一人の中年男性だった。頬は削げ、唇は薄い。酷薄そうな容貌を、瞳の溢れんばかりの愛嬌が中和していた。

 面白い話でもないのに、その男、意町日永は楽しげな表情で応じた。

「皇子様が皇位にはふさわしいということを、疑うものはどこにもおりません」

「それは血筋ゆえだ」

「国を治める血筋です。唯一無二の、正統な血筋です」

「しかし、何の力もなければ、血筋など意味を持つまい」

 その一言に、前触れもなく意町日永の大きな目が強い光を発したような気がした。

「では、影館をお討ちになりますか」

 これには市灼皇子の方が面食らった。

「それは久宝皇子さまがお造りになった天満律に背く行いだ」

「国のためなら、律を曲げることなど、何のことがありましょう」

 全く躊躇も見せずに発言を続ける腹心の部下に、市灼皇子はしばらく視線を送り、口を閉ざした。意町日永は言うことを言うと顔を伏せ、しかし目だけは下から睨め上げるように皇子に向けたまま、動かさない。

「今はこの話は終わりにしよう」

 長い沈黙の後、市灼皇子がようやっとそう口にすると、承りました、と今度こそ意町日永は頭を下げた。その大きな瞳の強すぎる眼光が自分から外れたので、市灼皇子は内心、ほっとした。

 それから二人は朝議の最近の動静について意見を交わしたが、先ほどのような張り詰めた空気になることはなかった。朝議に列席する諸氏の勢力図は動くときには動くが、動かないときには動かないものだった。

 いくつかの派閥があり、主だって対立するのは市灼皇子の陣営と、影館氏の陣営だった。他の陣営は息をひそめるのだ。

 もっとも、影館氏は決して派閥争いに拘泥しなかった。市灼皇子が主張することが正しいと考えれば、市灼皇子の意見を認め、支持するのだ。こうなってしまうと、影館氏の柔軟な姿勢は全てが正しい選択をしているように見える。特に民にはそう見えるだろう。

 間違っていることには相手が誰であれ否定の声を上げ、正しいと思えば敵対するものさえも支持する。

 直宮天皇さえも影館運音を信頼され、その篤さはいずれ、実子である市灼皇子に向けられる信頼を超えるかもしれなかった。

「お考えになることです」

 日が暮れてだいぶ経ち、意町日永は市灼皇子の屋敷を辞する時、玄関まで見送りに出た皇子に深々と頭を下げ、夜の静けさの中だからこそ聞こえる声でそう言葉を残した。

 さらに何か、言葉が続くかと市灼皇子は思ったが、意町日永はそのまま去って行ってしまった。彼の供のものが持つ灯りの火が、頼りなく揺れながら離れていく。

 しばらく、市灼皇子はそれを見送っていた。



(続く)

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